8.いつだって甘くて苦いキス(3)
やはりユイは分からない。すり寄って来たり離れてしまったり、陽炎みたいに思えた。ずっと掴んでいなければ、消えてしまいそうな。急に近づかれたことに気付いた彼女はちらりとライカを見て微かに笑った。何となく無言で頬に触れると、その手がぎゅっと握り替えされる。
「結局ね……寝る場所もなくて、家にも帰りたくなくて、行くところがなければ……誰かに利用されるしかないの。かっこわるいんだよ、あたし」
「誰がおまえにかっこよさを求めたんだよ、おれはそんなのいらないよ」
思わずそう返すと、ずっとうつむいていたユイが顔を上げる。その目には驚きの色が広がっている。驚かれても困るのだ、ライカは心からそう思ったのだから。
「利用し合ってるからなんなんだよ。どうだっていいよそんなの」
よく考えれば、容易に想像出来ることだった。それでもやはり心は痛い。だからといって彼女を、なぜそうなのか、などと責める気持ちにはならなかった。自分だって大差はない、彼はそう思う。
邪な気持ちはなくとも、瑠衣を利用しているライカに、ユイを責める資格なんてないのだから。もしも、瑠衣がそういったことを求めてきたとして、断り切れるか。それはライカにも自信がなかった。はね除けるつもりでいるとしても。
「……おれだって、他人を利用して生きてる。今までだって、今だって、これからだって多分そうだよ。無条件で守ってくれる親なんか、存在しないんだから。なんとかするしかない。方法なんか選んでられない」
そこまで言って、ライカは今──この街に来てからの自分の状況を一切ユイに話してこなかったことに気付く。知られたくなかったのかもしれない。自分が他人を利用していることを。でも、言わなくてはいけないと思う。
「……おれだって今、他人の家に住んでる。別に頼んだわけじゃないけど。だけど、じゃあ路上で暮らせるのかってずっとは無理だったし、じゃあ家に帰るのかってそれも無理だった。どうしようもないときってあるじゃん。それをいちいち気にしてたら、生きてけない。利用されてるから……利用してるからなんだよ。どうだっていいだろそんなの」
ライカも本当は『どうだっていい』などとは思っていなかった。でもそう思おうとすることで心を落ち着けてきた。ユイにもそうして欲しかったのだ。
答えないユイにこちらを向いて欲しくて、ライカは「どうだっていいよ」と繰り返す。何度だって言うつもりだった。
「……来夏が誰かの家に住んでるのは、うすうす気づいてた。なんか、服とかきれいだし」
「普通だよ、こんなの。よくある話っていうか」
「でも、女のひとじゃないんでしょ?」
「……女だよ」
「え」
「なんか知らないけど、奇跡みたいに……もう信じられないくらい、いいひとで──あ!!」
言いかけたライカはパンと手を打って、眉をひそめたユイに向かって、嬉々として「そうだよ、ユイも来たら?」と告げる。そのライカの言葉に「……はぁ??」と怪訝そうな声を上げ、ユイはやれやれと首を振る。心から呆れた様子に、ライカの声は尻すぼみになっていくしかなかった。
「いや……避難するくらいなら……さ」
「なに言ってんのアンタ……。無理に決まってるでしょ? なによりもさ、そのひとは、来夏だから助けてるんだと思うよ」
「……ん? いや……そういうんじゃないと思うけど」
「ん、じゃないでしょ。どこの誰がなんの利点もなく他人を助けるのよ。来夏さぁ……頭いいのか悪いのか、はっきりしてよね」
「おれだって、警戒してたんだよ。だけど、それを全部無視してくるほどのお人好しっていうか……。別に『なんかしろ』って言われるわけでもないし、普通に住んでて普通に……家事とか手伝って……。なんか、変な感じっていうか。さすがにそろそろ女には勝てそうだから、いざとなったら逃げりゃいいやとか、最初は思ってた。でもそうならなくて、こう……ダラダラと居座ってて……。だから、そんなやつだからさ、ユイの寝るとこくらい貸してくれそうっていうか」
「……そうなんだ? でもね? 家に帰れない子、どれくらいいると思う? 全員そのひとの家に連れてくの? ペットだって飼いすぎたら面倒みきれなくなるのに、人間なんか余計に無理。そのひとがどれだけお人好しだとしてもね」
その通りだとライカも思う。切羽詰まったからといって明らかに間抜けな提案だったことは事実だった。でも、それ以外思いつかないのだ。でも他に何かあるような気がして、ライカは考え続ける。
「もう……そんな思い詰めた顔しないでよ……」
「なんかあるだろ、もっと頭いい方法」
「……ねぇ? もう、充分だよ。充分すぎるから。あたしさ、すっごい幸せだよ。来夏がね、そうやってあたしのこと考えてくれてさ。そんなの初めてだもん。嬉しいよって何度も言ってるでしょ? だからもういいんだって」
「なんにも解決してない」
「しないしない、解決なんかしない。無理なものは無理なの。っていうか、もう完全に朝じゃん。終わり、こんな話」
ユイは大きくため息をつくと、ライカのシャツを引っ張る。どうやら彼女は、帰ろう、と言いたいようだった。「とにかく行くよ」と手を引かれ、彼は渋々立ち上がる。
のろのろとユイのあとを歩き出すが、長い階段を降りきっても、ライカは考え続けていた。ユイは無言で先を歩き、ゴミ袋にたかるカラスたちを、追っ払ってはライカを振り返る。どうも彼女は、こちらの様子を窺っているようだった。
飲み終わったペットボトルをゴミ箱に突っ込みながら、ユイは後ろ手に腕を組んだまま、くるりと向き直る。
「ねぇ、来夏。店に来ないでって言っても無駄なのはわかったから……約束を変えたいな。いい?」
「……変える?」
「もう来るなとは言わない。でもどうせ来るなら、一番いい大学に行ってからにして。来夏、頭いいんだから出来るでしょ?」
「……大学?」
「約束して。金持ちになって、あたしを迎えに来てよ。どうせこの辺にいるから」
真顔で告げてきたユイに、ライカはもうひとつ伝えなければならないことがあった。今さら言うのも申し訳なくて、頭を掻いた。
「……あー、あのさ。……いきなり大学には行けないんだよね……」
「いきなり……って?」
「おれ、まだ高校行ってないから」
「……ん??」
不審そうに眉を上げたユイに、ライカは笑ってしまう。いくら自分の年齢が伝わりづらいとはいっても、ここまでとは彼も思っていなかった。とっくに気付かれている気がしていたのに。
「おれ、十四なんだよ。だからまずは、高校受験」
「……じゅう……よん?」
「そう、十四歳」
「……はっ?! 中学生ってこと?!」
「あぁ、うん。まあ、そうです」
「ウソでしょっ?!」
本当に驚いているらしいユイは、傾いた体勢のまましばらく動かなかった。嘘でしょ、と言われても、嘘ではないのだから、ライカもユイを見つめて動かずにいた。
「ウソだ……。一個下くらいだと思ってた……」
「……ごめん。いや、言うとなめられるかなと思って。そのあと言わなかったのは、完全にタイミング逃しただけというか」
「やだ……。え、どうしよう……」
「なんでそんなにうろたえるんだよ」
コーラを煽りながら言うと、ユイは背中を向けて何か呟き続けている。覗き込もうとすると、彼女は驚いた様子でで振り返る。
「なっ! なに?」
「なにブツブツ言ってんの」
「……ちょっと驚きすぎて。話変わってくるじゃんって」
「なんだよ、中学と高校でそんなに話が変わるの?」
「違うでしょ、全然違う」
「そうかな……」
まるで実感が湧かなかった。確かにライカは十四歳だが、今まで経験したものは現実だ。年齢など関係なく、確かに人々と出会い、夜の街を歩き、初めて恋をした。ただそれだけのことだった。隣で「詐欺だ……」などと言いながら立ち尽くすユイを無視して、ライカはもう一度考える。
このままうやむやにされて、離れてしまって、自分は耐えられるだろうか、と。何かあるはずだ、その思いは変わらなかった。ユイのことを考えたとき、脳裏に浮かんできたのは、あの表裏のなさそうな大将の笑顔だった。なぜ今まで思いつかなかったのだろう。彼ならユイを住まわせてやるくらいのことはしてくれるはずだ。
「ユイ」
名前を呼んで、そっと背中から抱きしめると、彼女は戸惑ったようにライカの腕に手を添えた。
「決めた。まだ間に合うし、間に合わせる」
「な……なにを決めた……?」
「一番頭いい学校、行くわ」
「……うー」
「なんだよ、でまかせだったの? おれがそのうち忘れるって?」
「……」
「なめられたもんだなぁ。おれは元々は真面目なんだ。大手を振って迎えに来てやるからな」
「……元々は、っていうか、常に大真面目じゃん」
「別に今は真面目なつもりはないけど」
「気づいてないんだ……」
「なんでもいいから聞いて。ユイも約束して。今の状況から抜け出して」
「……あたし──」
「だから黙って聞けって。とりあえず二、三日待って。瑠衣に……同居人に聞いてみる。とにかく聞くから。大丈夫、なんとかする。それからあの大将に相談しようよ。きっと住む場所とか、考えてくれるよ。ユイは嫌って言いそうだけど、そうして。それが終わったらおれ、家に帰る」
「……なんで大将が出てくるのよ」
「ユイのこと、子供みたいに思ってるって……言ってたよ。きっと、助けてくれる。おれみたいなガキより頼れるじゃん」
「……あたしが行ったら迷惑になるよ。だから、出来ない」
「いや、そんなことない。迷惑だと思ってたら、怒っておれのこと殴ったりしないだろ」
「だけど……」
「ユイが、マドティに来んなっていうなら、ユイを呼びに行く以外、もう行かない。だけど、おれの言ったことは絶対に守って。それだけは、守って。あの店から離れること。誰か、大人に頼ること。……わかった?」
ユイを言いくるめるのにライカは必死だった。なんでもいいから、ひとりでどうにかしようとしている彼女を救いたかった。「……でも」と言いかけたユイがそれきり黙ってしまう。
その言葉の続きを待っていると、彼女はライカの腕を振り解いて振り返った。念を押すために、ライカはもう一度口を開く。
「わかっ──」
言いかけた言葉を、少し屈んだユイの唇が飲み込んで、煙草の残り香がふわっと香った。朝帰りをするのであろう通りすがりの若いカップルが、そんなふたりに気付いて笑顔を向けてくる。ライカは照れくさかったが、何だかこういう状況に慣れつつあった。
「んぉい、話を聞けって」
「好き」
あくまで答えようとしないユイに、つい笑ってしまったライカは彼女を再び抱きしめる。どうしようもなく、彼女のキスは苦かった。最初からずっとそうだったように。