8.いつだって甘くて苦いキス(2)
立ち上がったユイがスカートをはたき、大きく伸びをする。彼女は本当に帰ろうとしているのだろう。昨日までのライカなら "やっと離してもらえる" と内心喜んでいただろうに、このまま「バイバイ」と言える気分ではなかった。
複雑な思いで「なぁ」と声をかけると、口元に笑みを浮かべたユイが眉を上げる。名残惜しい、というものとも違う何かがライカの口を開かせた。
まだ、きちんと話せていないことがある。それだけは言わなければならないと彼は思ったのだ。
「マドティに来んなとか、もう会わないってあれ……どうやっても変わんないの?」
「……そうだよ。来たくてもダメー。中に入ってもダメー」
当たり前でしょ、と言わんばかりの顔で、少し偉そうにユイは言った。しかしそう言われても、ライカはあの店に通いたくて通っていたつもりはなかった。ユイが『来い』と命令するから、という理由が主だったのだから。最初に来るなと言われたときは "どっちでもいいけど、釈然としない" だったライカの気持ちは、今となっては完全に "納得できない" に変わっていた。
嫌でも何でも、ライカには帰るべき家がある。だが、ユイには居場所がないままだ。自分がいなくなったあとも、この死んだような街で──あの店で、彼女はいつまでも暮らすのだろうか、そう思うと何だか、気持ちまでもが灰色になっていくように思えた。
「来るなって言ってんの。来夏、わかった?」
考え込むライカに向かって、ユイは念を押すように言う。こうなったユイはテコでも動かないだろう。そんなことは知っている。ただ "わかった" と、嘘をついて、店に押しかければいいじゃないか、とも思う。今までだって、たくさん嘘をついてきたのだから。しかし、ライカはこれ以上、偽りを重ねたくなかった。
「……無理。なかったことになんか出来ない。わかった、ってウソすらつけない。おれには出来ない」
真顔で告げると、ユイは目を伏せる。引き下がるつもりのないライカに気付いたのか、彼女は困ったように彼を上目遣いで見上げた。
「……だけど、それでも来ないって約束して。絶対。来夏は学校に戻るんだから。普通に大人になって、普通に就職して、楽しく毎日普通──」
「いやだよ」
きっぱりと言うと、ユイは唇をぎゅっと結んで、リュックのチャックを開けたり閉めたりし始める。左右に動く腕を掴んでも、彼女は顔を上げない。それでもライカは話続ける。
「ユイってさ、おれの話聞いてるようで全然、聞いてないよね。ずっと無視じゃん。言わせてもらうけどさ。正直、おれはなんも危なくなんかないと思う。おれは平気だよ。ユイがなにを怖がってるのか知らないけど、女のおまえより男のおれの方が危ないなんて、あり得ない」
「……あたしは平気だよ」
「じゃあおれだって平気だろ」
「もうこれ……平行線だからやめよ」
「いやだって言ってんでしょ、やめないよ。ユイのために言ってんじゃない、おれがこの話をしたいんだよ。さっきのヤりたいおまえと一緒だよ」
「やだなー。真似しないでよね」
「はぐらかすなって言ってるだろ? ……こんなのさ、自分でも変だと思うよ。急になんだよって感じだし。でも、自分がユイに対してどう思ってんのか、気づいちゃったから。自分の行動に責任持ちたい、っていうか。好きってそういうことなんじゃないの? なんか、上手く言えねぇけど……」
「来夏の好きって……重いね」
「重いって言われても――」
「ううん、文句があるんじゃないの。ライカだなぁって感じ。でもさ "好き" がそういうことなら、責任があるのはあたしだって同じじゃない。だって、あたしが声かけなきゃ、来夏はあんなとこに首突っ込むことなんてなかった。自分の "つまんない" のためにライカをいいように扱った。アンタ、怒んないから、どんどんわがままになっちゃった。あたしってそういう、いやなやつなんだから……そうだよ、あたしなんか無視すればよかったんだよ。いつもそうじゃん、シラーってしてるでしょ」
「……おれ、ユイのことを、いやなやつとは思ってなかったよ。最初の頃から。めんどうなやつだなとは思ってたけど、なんか放っとけなかったんだ。だから、無視しなかった。どうしても無視出来なかったんだよ。だって……おれら、どっか似てるから。気持ちがわかるから。それってユイのせい? 違うだろ?」
あまり深く考えていなかったのに、そんな言葉がライカの口からこぼれた。生まれた場所や時間、状況がまるで違っていても、自分とユイはやはりよく似ている。誰が何と言おうと、絶対的な "似たもの同士" だ。以前はどこか懐疑的だったこの思いも、今ならば、はっきりとそう言うことが出来た。
「確かにな、おれをあの中に引きずり込んだのはユイだし、あれやこれやとおかしくなったのも、ユイのせいだとは思うよ。けど、おまえの言うことをきいたのはおれなんだって。誰かにやらされたんじゃない。おれが決めたことじゃん。他人に責任なすりつけるつもりはない」
悲しそうに眉を下げたユイが顔を覆う。自分がごねることで、ユイが困るのは彼にも分かっている。それでも自分の気持ちは変わらない。それを分かってもらおうとライカは必死になっている。
「おれが黙れば、ユイが嬉しいのはわかってんだよ。『わかったわかった』って、いつもみたいに適当に言うこときけば」
結局、おれは何を言いたいんだろう、とライカは自分に問いかける。ずっと消えたと思っていた感情が、何倍にもなって溢れ出てくる。伝えたいんだ、と彼は思う。本当に考えていることを、誤魔化さず隠さずに伝えたい。大将の店にいるときも感じたその気持ちは、どんどん強くなるばかりだった。
「だから、この話もやめない。おれが行ったらダメなような店は、ユイも行っちゃダメだろ」
「……あのね。あたしは大丈夫なの。お願いだからなにも聞かないでよ」
「なんで。なにがどう大丈夫なんだよ」
「聞かないでって」
「それがわからなきゃ、延々この話、続ける」
「しつこいよ、もう!」
以前、瑠衣に『おれはしつこく言ったりなどしない』と告げたことがあったことを、ふっと思い出す。今のライカはしつこさの塊だろう。前言撤回しなくてはいけないな、とライカは不満げに背を向けたユイを見上げながら思う。
「あたし、帰るから!」
荷物を持ったユイは乱暴に言い放つ。先ほどもこんな展開になったな、とライカは静かに思う。逃げようとするユイの腕を掴んで引き寄せる。
「おれのことなんかいいから、ユイはまず自分を守ってから他人のこと考えろ。おれのこと心配してる場合かよ」
「……あたしは平気なの」
「なんでそうなるん──」
「平気なんだってば! マサヤの女だったから!」
「……オンナ?」
「そういう肩書きだから。でもライカは違う。きっと順番が回ってくる。だからダメ」
「…………あぁ」
ワンテンポ遅れて、言葉の意味がライカの中に落ちてくる。胸が少し疼いて、その感じたことのない気持ちに彼は戸惑いを覚えた。ユイはそれを言いたくなくて、あの店での立ち位置をはっきり言おうとしなかったのかもしれない、とライカにも分かった。それでも、彼女の腕を放さなかった。そんなことどうだっていいと思えた。
「その前に……順番ってなんだよ」
「……順番は、順番だよ」
「日本語はわかるよ。なんの順番だって言ってんだ」
「……橋渡しの……」
ユイは消え入りそうな声で呟いた。考えてみれば、ライカが ”ハシワタシ” という言葉を発してから、ユイはおかしくなった。だが、たとえそれがどんなものでも構わない、とライカは思う。無言のまま強い気持ちで彼女を見つめていると、ユイは観念したように静かに言葉を繋いだ。
「子供から、大人に伸びてる橋。……荷物を渡すの。もし捕まったら、犯罪者になっちゃうかもしれない。だからあたし、来夏を守りたかった。そういう意味でああ言ったの。あたしのせいでライカの人生が壊れちゃう気がして、いやだった。最初はなんでアンタをアレから遠ざけたいのかわからなかった。でもそのうち……わかったの。あたし、来夏を本当に好きになっちゃったんだって」
覚悟を決めたように、ゆっくり言葉を紡ぐ彼女はライカの顔を見ようとしない。ただ、淡々と話し続けた。彼女が話し終わるまで黙って聞いていたライカだが、結局、ユイが何を言っているのかいまいち分からずじまいだった。ライカはすっかり大人しくなったユイに質問をし続け、ハシワタシが何か違法なものを子供に運ばせている、そういう話だと理解した。
中身については詳しいことは知らない様子のユイが「なんかしらのクスリだと思うけど」などと軽い口調で言い放ち、うなだれるしかなかった。そんなライカに向かってふっと笑うと「だから言いたくなかったんだよ」とユイは呟いた。
話疲れたのか大袈裟にため息をついて、ユイは手を振り払い、ライカから少し離れたところにしゃがみ込んだ。膝を抱えて突っ伏した彼女を何となく見やっていたライカは、すっと視線を落とす。ユイが自分に必要以上に張り付いてくる感覚があったのは、自分を回ってくる順番から遠ざけるため。あの店の奥で起きていたことをライカは初めて知った。
「あたしの仕事はさ……誰でもいいから子供を店に引き込むこと。橋渡しは子供じゃなきゃいけないっていう……誰が決めたのか知らないけど、そういうのがあって。……時間帯さえ間違わなければ……子供は街に溶け込むんだって。でもずっと同じ子だとやっぱ足がつくからって、何度も橋渡しさせることはない。男の子は特に子供じゃなくなっちゃうから……見た目がさ。出来るだけたくさん、あたしたちみたいな子供を誘い込んでおくの。あそこに女子が多いのはそういうこと。……あれが終わった子は見なくなる。金を渡すのかなんなのか……あたしにはわかんない」
「見なくなるって……いなくなるの?」
「そう。どっか売られてるのかな……。でもさ、家出してる子なんて、親が探すこともないし、消えてくれてラッキーくらいに思われてるじゃん。あたしたちって、いい駒なのよ、きっとね」
「でも……成り立たないだろ。だって、ひとりでも例外がいたら」
「成り立たせるんだよ。でも……そうだよね。何度もバレそうになったって聞いたよ。店を潰して場所移すかもしれないとか、そんな噂もあるけど……。そんなずっと上手くいくわけないよね。だから余計に怖かった。どうしようって。初めてあそこに関わってることを怖いと思った。だからね、来夏に冷たくしてでもあそこから引き離したかった。でも……あたし、全然出来てなかったよね」
ユイは悲しそうに笑うと「本気で好きって、なんかめんどくさい」と呟いた。その通りだとライカも思う。好きという気持ちがなかったのなら「知らねぇよ」とでも言ってここから去ることが出来たはずだった。
「子供の見た目が必要……か」
まるで、童話のピーターパンのようだ、とライカは思う。もしも、大人にならない方法があるならば、あのイカレた集まりはいつまでもと続くのだろうか、と不快な気持ちになる。
「あぁ、もうやだ。こんなこと言いたくなかった。言わないままでいたかった」
ユイは虚ろな瞳で足下をただ見つめ黙り込む。そんな彼女にもっと触れたいような気がして、ライカは彼女の隣にずい、と身体を寄せた。