8.いつだって甘くて苦いキス(1)
ふっと目を開けると、視界がぐらっと揺れた。ライカは壁にもたれて眠っていたらしく、まだ猛烈な眠気が残っている。目をこすりながら、ユイを探す。
荷物はあるが、その姿は見えなかった。不思議に思っていると、出入り口の扉が開き、ペットボトルの飲み物を抱えたユイが小走りで向かってくるのが目に入る。
「自販機見つけてきた! コーラとお茶、どっちがいい?」
「……コーラで。おれ、いつ寝たんだろ」
受け取ったペットボトルの蓋を捻りながら、ユイに問いかける。彼女は首を傾げつつ、お茶を勢いよく飲む。
「なんか振り返ったら寝てたよ。死んだかと思った」
「……記憶ない。ちょっと昨日、寝不足だったから多分眠いし、さすがに疲れた。身体痛ぇ」
そう言ったライカの隣に座り込むと、同じように壁に寄りかかったユイがこちらを見て「ごめんね」と呟いた。しおらしく微笑んだ彼女は何だか、らしくなかった。
「いや……なんだよ、普通にしろ。怖い」
「なによー、普通にしてるってば」
「……そうは思えないけど」
呟きながら、氷だった水のせいだか汗せいだか分からない、湿っぽいシャツを摘まんで、扇ぐように中に空気を入れる。惰性で手のひらで無理やり汗を拭ってはみるが、大して涼しくなりやしない。ちらりと彼女を見ると、透けていた彼女のTシャツは乾きかけている。どれぐらい時間がたったのか、もはやライカには分からなかった。
「……」
「……」
黙り込んだふたりは、ぼんやりと空を見上げる。まだ暗いとは言え、東の空が微かに明るくなり始めていた。辺りにはカラスとヒグラシの鳴き声が響き渡る。
それに耳を澄ましていたライカの横でリュックからポーチを取り出したユイは、中に入っていた煙草に火を点け、静かに煙を吐き出した。
「……ユイって吸うんだね、それ」
「んー。あんま吸わないけど、ときどき──こういうときとか、吸う」
「さようで……」
「さようだよ」
そうか、と思うと、それ以上、何も言葉が出てこなかった。先ほど、ユイは『もう二度と会わない』と言った。驚きつつ、ユイはそういうつもりなのか――と流してしまったことをライカは後悔していた。きちんと聞くべきだったのに、しかし聞いたところで考えを変えるような女ではない、きっと、だから聞けなかった。
ユイが決めたタイムリミットは静かに近付いてきているのだろう。しかし、彼は何も言えなかった。
「来夏、どうだった?」
「……ん?」
「え? あたし、頑張ったつもりなんだけど。色々」
一瞬、頭の中でその "色々なユイ" が渦巻いて、ライカは後ろ髪を掻き回した。ちらりとユイを見ると、何てことはない顔でこちらを見つめている。「どうよ」と繰り返す彼女は、やっぱり頭がおかしいとライカは思う。
「い……や……。ど……うかね」
「なんでそんなにシドロモドロになるのよ。あたしね、来夏も本気になると違うんだなって思ったよ」
「ちょっと……あのね、おまえホント……なんなのそういう……」
「なんで? 楽しかったけど。あと、結構喋ってたじゃん? あれ無意識なの?」
「……喋ってたんじゃねぇよ! どうしたらいいかわかんないから聞いてただけだろ!!」
「あぁ、そうなの? ちょっとあれは驚いたよね 。終わりたくない、みた――」
「あーー! 別に振り返りとかいらないだろ。試験じゃないんだから!」
ユイだってあんなに恥ずかしそうにしていたのに、今となっては照れているのはライカだけのようだった。彼女は慣れたもので、そういうことを話すことなど、何とも思っていないようだった。そんなユイが思い出したように口を開く。
「あともう一個、すごく驚いてるんだけど」
「いやもういいだろ、その口ふさぐぞ!」
「違うの! 来夏ってさ、そういう顔も出来るんだね」
「……はい?」
「真っ赤になったりさ、今だって全然、目も合わせてくれないじゃん。いつも無表情なくせに」
「知らん、そんなの。おれは暑いから赤いんだ」
「もう、強がっちゃって。あたしにもそんな時代あったなって、思い出しちゃった。好きな子の写真とか集めちゃってさー。かわいかったなー。あたしの写真いる?」
「いらない。おれは集めるとか興味ない」
「そんなのわかんないじゃん。今まで好きな子いなかったんでしょ?」
「黙れつってんの! なんだっていいだろ……」
「……かわいー」
そう言ったユイの頭が、そっと肩にのし掛かった。マドティで嗅ぎ慣れている刺激臭と一緒に、ふわりといつもの甘い香りがする。どうやらユイの吸っている煙草から漂ってくるらしい。
「なんかさぁ……」
そう言いかけたくせに、彼女はなかなか続きを言わなかった。「なんか、なに?」と促すと、ユイは躊躇ったように話始める。
「あたしが……ヤる相手が誰だってよかったのはね、愛されたかったからじゃないかなって思うんだよね。気持ち悪いけどさ、あたし……そういう実感、欲しかったの。ずっとずっと寂しかったんだ」
仮面が剥がれたように話し続けるユイの手元を、ぼんやりと眺める。吸われないままの煙草が、どんどん短くなっていく。
しかしライカは思い直す。ユイの仮面はとっくに外れていたのかもしれないと。こちらが見ようと、そして、聞こうとしていなかったんだ、そう思う。
「でもね、虚しいだけだった。誰もあたしのことなんか見てない。だってあたしの方が誰でもいいんだもん、そりゃあさ……相手だって同じだよね。好きでもないから、愛もない。それがわかってても、止められなかった」
そうか、とライカは思う。一番最初に迫ってきた彼女に抱いた違和感は、それだったのだろう。行為自体が好きなわけではない。ただ、愛して欲しかったのか、そう考えるとすっと腑に落ちた。相づちを打つのもおかしな気がして、その代わりに自分にもたれかかるユイに、そっと頭を乗せた。
どう伝えても無駄に思えた。ユイに届く言葉を見つけられなかった。不平不満はいくらでも口に出せるというのに。
「付き合ってくれて、ありがと。ごめんね、無理やり」
「……無理やりっつぅか。先にキスしたの、おれだし」
「あぁ……。そうだけどね。仕掛けたのはあたしだからね。仕向けたんだもん」
「……ひっでぇな。ユイだってそんな余裕もなかったように見えたけど?」
「はっ?! そんなわけないでしょ。あたしはヨユーだし。ユイさまをバカにしないでよね!」
肩の上の彼女は憤慨したように言い放つと、ふんと鼻を鳴らす。ライカは、ユイさまって久々に聞いたな、と彼女と出会った頃を懐かしく思う。まさかこんなことになるとは――自分が誰かを好きだ、などと自覚するとは夢にも思っていなかったのだ。
ふと我に返って自分が何を言ったのか考え始めると、ライカはどうしようもなく恥ずかしくなった。ユイに向けた言葉は、嘘偽りない気持ちだったが、もっと大人っぽく振る舞えなかったものかと、頭を抱えた。ユイに余裕がなかったことを笑えるようなところは少しもなかった。
「ねぇねぇ、これあげる」
ひとり呻くライカに気付きもせず、ユイはあっけらかんとした声を出す。次の瞬間、ゴツっと腹部に軽い衝撃を受け、見下ろすと、先ほどの煙草一色が入ったポーチがぐりぐりと押し付けられていた。反射的にそれを受け取ったライカだが、それがなぜだか分からずに、ポーチとユイとを交互に見るしかない。
「いや……なに?」
「持ってって。あたし、もういらないから」
「でもおれ、煙草吸わないよ」
「知ってる。でもあげる」
「……なんでもういらないの?」
「わかんないけど……。もう、いらない気がする」
男が持つにしてはかわいすぎるネコ模様のポーチだ。いくら要らないからといって『あげる』という話になるのかライカには分からない。
「これを……おれにどうしろと……?」
「売れば? あたしのファンとかに」
「……誰だよそれ。ホントによくわかんないな、おまえ」
真面目な顔のまま言い放つユイに苦笑いを浮かべながら、ライカはそれをデニムの後ろのポケットに突っ込んだ。