7.さまよう心たち(2)
何が気に食わないのか、イライラした様子で、袋の結び目を開けようとしている彼女に向かってライカは口を開く。
「……いや、さすがにそれ……もう溶けてると――」
しかし、忠告するライカなど気にも留めず、彼女は袋のてっぺんを無理やりこじ開け、おもむろに頭上でそれをひっくり返す。当たり前に水は落ち、ユイはびしょ濡れになった。
「はっ!? なにやっ──」
彼女のあまりに意味の分からない行動に、ライカは言葉を失う。文字通り、本当に開いた口が塞がらなかった。
「なに……なにやってんの……?」
ぽたぽたと水を垂らしながらこちらを見下ろすユイに、ライカは混乱したまま、もう一度問いかける。彼女が狂ったような行動をしていても、引いたりはしなかった。今さらユイが何をしようと、驚きはしても、興ざめしたりはしないのだった。
「熱いから……。頭を、冷やそうと思って」
ずぶ濡れの彼女は、なぜか悲しそうな顔をしてそう呟いた。
「冷えないだろ。……濡れるだけだよ」
呆然とするライカの前に膝をついた彼女は、その神妙な表情のまま黙って、ライカの首根に両指を這わせて強く引き寄せた。反射的に目を閉じてしまったが、まぶたを開く前にユイの柔らかい唇の感触に支配される。どんどんエスカレートするそのキスに、ライカは慌ててユイを引き剥がした。
「頭、冷やしたんじゃないの!?」
「……冷えないんだけど」
「冷えないからってなんでキスすんの?? わけわかんなくなるからやめろって」
「あたしが!」
そう言った彼女は、ドン、とライカを突き押す。身構えていなかったため、ぐらついた身体はあっという間にユイに押し倒された。
「あたしが……いいって言っても?」
ユイの髪を伝った水滴が、ライカの頬を濡らした。でもすぐに、そうではないことに気が付いた。泣いているのだ。彼女は顔も歪めずにただ、涙を流していた。それを誤魔化したくて、水を被るという奇行に走ったのだろう、そう思うと合点がいった。
先ほども泣いていたユイが、なぜ今度は隠そうとするのか、ライカには分からなかった。ただ、この涙は知られたくなかったんだろう、そう思うしかなかった。
「もう……絶対会わないんだよ? 最後くらい……」
何度も何度も落ちてくるその涙を、拭ってやりたくて、腕を伸ばす。ライカには分からないことが多すぎる。先ほどから、来るなだの、会わないなどと決めているのはユイだけだ。彼女は一体、何に追われているのだろうか。
たとえ、家に帰ったとしても、いつでもこの街まで来ることは出来るし、マドティに来るなというのであればどこかで待ち合わせでもすればいい。ユイが望むのであれば、連絡先を教えてもいいとすらライカは思っているのに。
「なんでなの、ユイ」
しかし彼女は何も答えようとしなかった。もし、まだ言い足りていない言葉があるとするならば、ただひとつだけだ、とライカは一度伏せた瞳を開く。
「もしかしてなんだけど。おれが『好きだ』って口で言ったら、ユイの気は済むの?」
本当は、言うつもりなどなかった。やはり、確かでもないものを告げたくはないのは変わらない。しかしそれは同時に伝えたくもあった。だから、漏れ出してしまったのだ。
いくらダラダラと考え続けても、答えなどひとつしかない。ただ、素直に言うのみだった。
「もし……ユイが言うみたいに、絶対に会えないんだとしたら、余計にだよ。おれはユイを大事だって思ってるんだ、多分。……おれ、誰かを好きになったことなんかない。だからわかんないんだ。わかんないことを言うの、変だと思う。でも、おれにとってユイはただの周りの人間じゃない。それだけはわかった。傷ついてほしくないし、そんな風に泣いてほしくもないし、自分のこと、どうでもいいなんて言わないでほしいって思う。……もしユイが本気でもうおれと会わないって言うんなら、こういうの、全部言うよ。ユイはキレそうだけど」
彼女は不自然に空を見上げ「あぁもう」と呟いたあと、やはり怒り顔でライカを見下ろす。
「そんなの、頼んでない。大事に思ってくれなんて。優しくしてなんて、言ってない。……痛いの、胸が痛い。すごく辛い。もうここからさっさと離れたい。それなのに……なんで」
──なんで、こんな気持ちになるの──
彼女は消え入りそうな声で言った。困惑して彼女を見上げると、涙と一緒にユイの言葉がひとつずつ、降ってくる。
「来夏はなにもわかってないよ……。好きだから……したいの。……相手が来夏だから、したいんだ。あたしが、そうしたいの。もうなにも言わないで。勝手にさせてよ……」
そう言われてしまったら、もう何とも返せない。なぜ、そうもそれに拘るのか、ライカには理解が出来ない。泣くほどのことなのかどうかすら。
ただ漠然と、こんな方法でしか気持ちを伝えられない人間もいるんだなとライカは静かに思う。思い返せば周りの男子たちは、そういったことが大好きじゃないか。教師だってよく言っていた。『君たちは多感な時期だ』と。まるで異性に興味が湧かない自分の方がきっとおかしいのだろうと思えた。
他のいわゆる普通の女子がどうであるかは、もちろん知る由もない。だが、今こうして向き合っている怖がりな女の子は、どうしても物理的に繋がりたいらしい。黙ってユイのびしょ濡れの身体を引き寄せ、頭を撫でてやった。バカのひとつ覚えのようにそれしか出来ない。
「わかった」
そう言うと、無理やりに起き上がった。どこで何をどうするつもりなのか知らないが、ユイに従おうと膝の間にちょこんと座る彼女を見つめる。
「なぁ……わかったけど?」
待ってはみたが、彼女は何も言わない。だからライカはもう一度問いかけた。それでも返事はなかった。
「……ユイ?」
問いかけると、彼女は何だか恥ずかしそうにうつむいたまま「なんか……無理やりみたいな……」と呟く。この期に及んで何を言っているのかと、ふっと笑みが漏れる。
「……どうしたいんだよ」
もつれた彼女の髪をすくって、こつ、と額をぶつけると、もう何も考えずに唇を重ねる。何だか身体の奥がズギンとした。何度もこうしてユイとキスをしたが、こんな感覚は初めてだった。何かが変わったことは確かだった。気持ちが重たくて苦しい。抱きしめてくるユイの手を振り払って、ライカは顔を背ける。
「来夏って……キス……、下手くそだよね」
「な……。下手に決まってんだろ、当たり前だよ。経験値がまるで違うんだから」
照れくさくて、八つ当たりのように吐き捨てる。常々、ユイが隙を与えてくれないせいで、ほとんど練習にもなっていない。上手くなれるわけがないというのに。
「黙ってろよ、気が散る」
「黙らない。……もっとして。下手でいい、来夏のキスが好き。……もっと」
自分の誠意を貫きたくて抑えていたらしい欲情が湧き上がり、腰に回した手に力がこもる。応えるようにユイが腕を回してくると、理性が弾け飛んだ。
ふたつの影が静かに重なってひとつになっても、街は変わらずに輝き続けていた。
大したことはない。たかだか、たったふたりの関係が変わろうとしているだけだ。そんなものはここでは小さな変化で、誰も気付かない。そして誰も知らない。それなのに、いつもは騒がしい街が心なしか息を潜めている気がした。
まるでふたりの呼吸の音だけが響いて、夜の闇に消えていくかのようだ。そんなようなことをライカは思った。不思議なもので妙に冷静なのだ。それが多少の慣れから来るものなのか、覚悟を決めたからなのかは分からなかったが、戸惑いは消えていた。作り物のような人工的な空間は、無関心を装っているように思えた。そういったものすら、こういうときは都合がよい。
そして、ユイが言っていたように、ここには誰かが来る気配がない。あまり好きではない、都会のその在り方にライカは初めて感謝をしていた。