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7.さまよう心たち(1)

 よくよく考えれば、ユイとは順を追って事を進める、ということをして来なかった。昼間の街で、他の誰しもがするようなデートをしたこともなければ、改まって手を繋いだことすらない。ライカは今、その事実にすっかり困ってしまっている。


 よくある手順を全て追い抜いて、深い関係になってしまった。現に勢いだけでこうしてユイにキスをしたところで何をどうしたらいいか、ライカにはまるで分からないのだった。


 普通──自分と同年代の人間たちは通常どんなふうにしてそれを言葉にするのか、そして仮に表現しがたいこの気持ちが本当に "好き" なんだとしても不確かなことは言うべきではないだろう。そんな風に考えていたライカは、思わず頭を振った。

 口を開けずにいると、汗がこめかみを伝って落ちていき、彼は慌てて肩口でそれを拭った。


「どうしたの……?」


 無言で考え続けるライカに痺れを切らしたのか、困ったように笑いながらユイは口を開いた。

 視線をそらして伏せたまぶたの裏に見える残像のユイは心なしか、表情が和らいでいるように思えた。たとえ呆れられているとしても、彼女には笑っていてほしいとライカは思う。


「……来夏が動かなくなっちゃった。なんでよ」


「いや……どうしておれ、キスしちゃったんだろって考えてるから……だから固まってる」


「考えてるときの来夏っていっつも、電池切れちゃったみたいになるよね」


「おれって電動マネキンなんだな、はは」


「あたしね……置いてかれると思ってたんだよね。どうしよう、ものすごく意外」


 笑ったライカを無視して、ユイはかすれた声で呟いた。そのひと言で、『何とも思っていないのならば、置いていけ』という彼女の発言に対する答えがこの状態なのだと彼はやっと理解した。やはりユイの方が冷静なのかもしれない。正直、思考がまるでついて来ないライカなのだ。


「あの状況で、どうしたら置いて帰れるんだよ」


「んー。……あぁ、それって同情みたいな感じ?」


 不抜けた声と共に想像していたものと違う答えが返って来る。真剣に考えているのが自分だけのような気がしてきて、若干の虚しさがライカを襲う。一体何をどう解釈したらそうなるのか、ライカには分からなかった。


「同情でもいいかな。あたし、嫌われてると思ってたから」


「ちょっと待て。おれの日本語、わかりづらいとしても……いや、わかれよ」


 憤慨してユイから離れようとしたライカの首筋に、彼女は腕を回してきて余計にふたりの距離は近付く。


「ウソかホントか、わかんない言葉なんて……いらない。そんなのいいから、ねぇ? 続き、しよ?」


 こうなることは頭のどこかで予測していた。いや、あんな風にユイを誘った自分が悪いのだ、とライカは眉をしかめる。彼女が衝動的に求めてくる人間だというのは、ライカも充分すぎるほど知っていた。だが、彼はもう頷くわけにはいかなかった。何も知らずに無邪気に抱き合うのと、ユイの過去を知った今とでは、全く違う状況なのだ。


「おれ、いやだよ。悪いけど」


「……え?」


 意外そうに見開かれた瞳を、ライカは淡々と見つめる。感覚的に、嫌だと言わなくてはならないと分かっていた。もちろん、誘惑はされているし、どきどきして苦しい。それほど、ユイは魅力的だった。


 しかしそれ以上に、ライカはユイを傷付けたくなかった。それは同情でも何でもなく、大事だから、好きだから――きっとこれが好きということなんだろう、そう彼は強く思う。


「ウソかホントかわからない、せ──セックスの方がおれは嫌だよ。気持ちなんてなに使って伝えたってウソじゃない保証とかないじゃん。そうじゃねぇの? 測り方、間違ってると思う」


「……」


「おれだって別に言葉だけを信じるわけじゃない、だけど……これだけ話して──おれにしちゃ必死なわけだよ、伝えるの。これだけ言って、同情でここに残ったと思われるのは、ちょっとねぇなって思う。どう言ったらいいかわかんないけど……。おれの言ったことだけじゃなくて……つまり、ユイはさ、おれの行動すら歪めてるってことでしょ。結局なんも信じないんじゃん。……なんで自分から進んで傷つこうとするの。ホント、もうやめてよ、そういうの。わかんない? ユイを傷つけたくないんだって。しなくていいよ、セックスなんかしなくていい」


 彼女の腕を引き剥がして、ユイの膝の上に乗せてやるが、その手のひらは脱力したようにぺたん、と音を立てて床面に滑り落ちる。ユイは呆けたようにライカを見つめ続け、やがて視線を落とした。


「……いや、なんかおれ……」


 自分が一体どんな顔でこんな話をしているのか見当も付かないライカだが、取り敢えず、じっとしているユイの髪を撫でてみる。他に出来ることがないように思えた。言えない気持ちが伝わるのなら何だってよかった。


「その……期待してるようなこと出来なくて、ごめん」


 彼女の輪郭にまとわりついたその黒髪を綺麗だとライカは思う。それは考えようとしたわけではなく、心に浮かんできたことだった。今まで、他人に対してそんな風に思ったことはなかった。ライカにとって男であろうが女であろうが、それはただの自分以外の人間であって、特別な感情など抱いたことがなかったのだ。


 綺麗だ、なんて思考が一瞬でもよぎったことが照れくさく、赤らんでいるであろう頬を見られたくないライカは顔を背ける。立てた片膝に肘をつくと、後ろ髪を掻き回した。


 さすがに暑かった。道すがらコンビニエンスストアに寄ったのだから、何か飲み物を買ってくればよかったと、彼は後悔している。うつむくユイと、顔を背けていたライカとの間を、迷子の蛾がひらひらと舞い、去って行った。それを追っていると、ふいに顔を上げたユイと目が合う。


「なんなの……? 調子、狂う」


 ユイの目は怒っているように見えた。ライカは、眉根にしわを寄せて、何と言おうか考える。怒っているのだとするなら、伝わっていないということだ。だったら、何か別の言葉を用意しなくてはいけない、と必死に頭の中を探り始める。


「あー! 暑い! ……ホントめちゃくちゃ、あっつい!!」


 ひとりで勝手に怒りながら、ユイは叫ぶ。そして、何かに気付いた様子でおもむろに彼女は腰を上げる。そして、ライカが大将からもらった、氷が入っていた巨大な袋を両膝立ちのまま手に取った。

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