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6.美しい空に住む子(2)

 大将の氷はもうほとんど溶けている。ちゃぷちゃぷと音を立てるその袋を、ライカは手のひらの上で揺する。ゆらゆらと街灯を反射するそれを眺めていると、ユイが口を開いた。


「そういえばね。あたし、もう一個、誰にも言ってないことがあるんだ」


「……いや、もういいって」


 もう何も聞きたくない、と耳を塞ぎかけたライカに向かって、彼女は「ちょっとー、聞いてよ」頬をふくらませる。その様子を意外に思い、ライカは静かに手を下ろした。


「それって、聞いて欲しいってこと?」


「うん。だって、あの話をしないと言えないことなんだもん」


 正直に言えば、あまり気乗りしなかった。でもユイが話したいと言うのならば聞いてもいい、とは思えた。ライカはしぶしぶ口を開く。


「んじゃあ……聞くよ」


「あのねぇ。実はね、名前つけたんだよね、あの子に。美空(みそら)っていうの。かわいくない?? ねぇねぇ、かわいくない??」


「あぁ、うん……。かわいい……ね」


「なに、その微妙そうな返事!」


「いや……別に微妙とは思ってねぇよ。ただ、なんて言ったらいいか、わかんなかっただけで」


「……まあ、そうだよね。困るよねこんなこと言われても」


「困りはしないけど。なんていうか……『すっげー!!』みたいには……言えなかった、つうか。元々のキャラでもないし。あっそう、くらいになっちゃうんだよ。どう言っても『あっそう』って感じに見えるみたいだし」


「……来夏、顔が変わんないもんね」


「変わってないってことはないと思うんだけど、端から見たら変わってなく見えるんだろうな」


「いいんじゃない? なんか楽だよ、あたしは」


 肩をすくめると、彼女は愛想よく笑う。数秒、そのままニコニコとライカを見ていたユイは、はっとしたようにライカの肩を小突く。


「ちょっと、話変えないで! 聞いてってば!」


「え? おれが話変えたの?」


「あれ? あたしが変えた?」


 首を傾げるその表情は、先ほどよりもいつものユイに戻ってきているように見えた。ライカは小さく笑うと「どっちでもいいじゃん。それで?」と、話の続きを促す。


「どこまで言ったんだっけ。そうそう、かわいい名前を教えてあげたところまでだった。でね? なんで美空かっていうとね」


 そう言いながら、ユイは両手を空に向かって広げる。その様子は大袈裟でふざけているようにも見えたが、きっと真剣なだけなんだろうな、と思いながらライカはこくりと頷く。


「あの子ね、空にいると思うんだ。だからなの。あっちかな? こっちかな? わかんないけど、きっとそう。あとね、女の子だったんじゃないかと思うんだ。あたしに似てる、絶世の美女!」


 まだどこか幼さの残るこのユイが、母親だったことがあったのだ。そのことに気付くとライカは目を伏せる。思わず過去形で考えてしまったけれど、それも変だと思う。彼女はずっと母親なのかもしれない。その生まれて来られなかった子供は、彼女とずっと一緒に──そして、彼女の中にいたのだから。

 それが終わってしまったとしても、彼女が母親だという事実は消えない。何となく、そんなことを考えていたライカは、自分の返事を待っていたらしいユイに気付かなかった。


「なに、この暗い沈黙! あたしが美女なわけないじゃん。……そこはツッコむとこでしょ? もー、おもしろくなーい」


「いや別にそれは否定するとこでもないだろ。ユイってかわいいと思うよ」


「…………え」


 自分でも気づかぬうちに、ライカの口から本音が漏れてしまった。目の前のユイが微かに恥ずかしそうに顔を背けたことで、何となく察した。異性に向かって『かわいい』と告げることの意味を。


「あー。いやあの……、黙ってれば……って前から思って……っていうか、ふ……普通にね? いや待てよ、なに? だって別に……いや、モテてるっしょ?」


「はー? ちゃんとモテてたらこんな風になってないでしょ?! 来夏だってさ、そんな感じだから女の子いっぱい周りにいそう」


「は。いねぇよ」


「ウソばっか、来夏って。マドティの女子からも人気あるよ」


「そんなの知るかよ。人気があろうがなかろうが、結局、誰も怖がって近寄って来ねぇんじゃん。……おれ、マネキンだからね。不気味なんでしょ」


「……マネキンっていうよりは、石膏像みたい。美術室にあるやつ」


「大して変わんねぇな、それ」


 ライカは苦笑いを浮かべて額をさする。マネキンやら石膏像やら、誰もが好き勝手に言う。どちらにせよ、生きている感じがしないのだろう。たとえ生きていたとしても。そう思うと笑みが漏れた。 


「ライカって話そらすの天才的……」


「……おれじゃねぇだろ、濡れ衣だ」


「いちいち口答えしないでよ。はー。やっと誰かに言えた。あの子の名前。……だってさぁ、名前も知られずに消えてくなんて、あんまりにもかわいそうじゃない」


「……ユイが知ってるじゃん」


「あたしだけじゃ、足りないもん」


 そういうものなのだろうか、と首を傾げていると「ねぇ。話、変わるんだけど」とユイがぽつりと呟く。前もって話が変わることを宣言するユイはやはり怖くて、ライカは眉をしかめた。嫌な予感しかしないのだ。


「前から思ってたんだけどね。色々喋りすぎてもうどうでもいいから……言っとくね。あのね……来夏ってね、きれいだと思うんだよね。その……マネキン? みたいな意味じゃなくてね。心がきれい。ホントに、そう思う」


 嫌な予感を遥かに超えた話の変わり方に、ライカはぎょっとする。と同時に彼は照れくさくなった。今までこの見た目についてなら、どうこう言われたことはあっても、それ以外について真っ正面から言ってきた人間はいなかったのだ。


「な……なんだよ急に」


「思ったこと言っただけだけど? なんかもう見栄張っても意味なくない? どうせ──」


 彼女は何だか淋しそうな顔のまま言いかけて、黙ってしまう。 "どうせ" に続く言葉はなんだろう、とライカは不思議になった。そして、なぜかそれが、とても気にかかった。


「はーぁ。いい加減、帰らなきゃね」


「どうせ……なに?」


「え?」


「いや。どうせ、なに?」


「普通わざわざ聞き直さないでしょ? そういう優しさ、いらないんだけど」


「……優しさ?」


「来夏ってきっと、そういうの全部、無意識なんだろうけど。ヤったあととかさ、ぎゅーってしてくれるでしょ? ああいうのとかもそう。いらないの」


 確かに、ライカはその "ぎゅー" に全く覚えがなかった。何をどうしたかなんて記憶にないのだ。理解しているのは、既成事実としての性交でしかなかった。ライカが "ぎゅー" について考えていると、ユイが「なんか、勘違いしそうになる」と小さく呟く。


「全部わかってる。ヤったことに深い意味なんてなくて、断れなかっただけだっていうのも。だけどそれでも……ライカがぎゅーってしてくれて、それが無意識だとしても、ホントは……優しくて嬉しかったんだよね。それだけで、あたし幸せだなって。もういいやって思っちゃった、色んなこと」


 ユイは何を言っているのだろうか。ライカは片膝を抱えて自分の膝を見つめ続けた。ユイは、優しさは要らないと言う。しかし嬉しいとも言う。要らないものをもらって嬉しいというのは、どういうことなんだろう、と噛みしめていた唇を開く。


「優しさ……いらないんでしょ? いらないのに、嬉しいの?」


 ユイの目をじっと見つめていると、彼女は真顔のまま、ぬるりと視線をそらし、ぶっきらぼうに呟く。


「……アンタってホント細かいし、めんどくさい」


「細かいっていうか……。いや……あのね、その中途半端に言ってくるのどうにかしろって」


「言ってどうすんのよ。言ったからってなにも変えられない。わかってるんだもん。来夏は帰るの。それでいい。そうしなきゃダメ。あたしは来夏と一緒にいたいんじゃない。帰って欲しいし、普通に楽しく幸せに生きて欲しいんだ。こんなとこにいるんじゃなくて」


 ライカはイライラしてくる。ユイは結局、何も答える気がないのだ。「めんどくさいの、どっちだよ」と吐き捨てると、彼女の腕を引いてぎゅっと抱きしめた。


「ぎゅー、くらい意識あっても出来るから。無意識だ無意識だってなんだよ。必死なんだからな、おれだって」


「いや、ちょ……バカなんじゃないの?」


「さっきから用もないのに何度も抱きつくとか、確かにバカみたいだけど。でもなんか今日ずっとおかしいじゃん。もうどうだっていいよ」


「……バカだってわかってんなら放してよ」


「なんで? 嬉しいんでしょ? いくらでもやってやるわ」


 言い返すと、ユイは静かになった。しかし、勢いでこうしたはいいが、ライカはこれからどうしたらいいのか分からず、動けなかった。すると黙っていたユイが胸元でもぞもぞと動く。


「無意識もここまでくると……残酷。ホントは帰りたいって思ってるくせに。勝手に帰ればいいのに。優しいから、ついてきてくれるんじゃない。 ”用もないのに” 抱きしめてくれるんだもん」


「優しいが溢れかえって意味わかんねぇ。おれは優しい製造機かよ」


 そう言いながら、ユイが何を言っているのか図りかねていたライカも気が付いた。『帰ればいい』などと言う割に、しつこく引き留めているのはユイだった。つまり、本当は――。


 ライカは恋などしたことがなかった。今までそういう対象が見つけられなかったのだ。誰かを好きになる、という、皆が通過する当たり前のことが経験出来ていなかった。だが、ただ抱きしめただけで「幸せだ」と言うユイに対して、どう表現したらよいのか分からない感情が生まれたのは確かだった。

 ふっと腕の力が抜けたライカの肩を押しやって、ユイがうついたまま呟く。


「わかってるの。言っても意味ない。どうせあたしだけの話で……。一方通行なんだから」


「……だからさ、なんの話してるの? さっきから」


「来夏、鈍いしね。でも、気づかないくらいがちょうどいいの」


 ユイには、ことあるごとに『アンタは鈍い』と言われ続けてきた。しかし、さすがに何かおかしいと思う。だから、ありったけの勇気を振り絞って、口を開く。


「要するにユイは、おれを好き……ってこと?」


 声に出した後で『思い上がってんじゃないわよ!』などと背中を殴られる未来が一瞬見えた。視線をどこにやったらいいか分からず、うつむく。隣のユイの靴がジャリと音を立てて動いただけで、心臓が飛び出そうになる。しかし、彼女は怒鳴らなかった。ちらりと見やると、悲しそうな顔のユイがただ、ライカを見つめていた。


「もし、あたしのことなんとも思ってないなら……今すぐ帰って。このまま、ここに置いてって。お願い」


 それが不器用な彼女の、精一杯の告白だと理解した瞬間、ライカは身体の奥から湧き上がった感情に身を任せてユイを引き寄せキスをした。


 唇を離したあと、真っ直ぐ見つめ合う瞳は、どちらも笑っていなかった。



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