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6.美しい空に住む子(1)


 目の前を、ユイが跳ねるようにぴょこぴょこと歩いている。いつものように、何だか楽しそうな歩調だ。ひとつ違うことといえば、お喋りな彼女が全く口を開かないことだろうか。


 この時間帯に歩く道を、ユイは熟知している。だからいつも彼女が先を歩くことになっているのだ。もちろん、お巡りさんという人々が見張る場所を変えたら見つかるのであろうが、ユイ曰く、彼らは滅多なことでは行動を変えないらしい。

 そんなわけで、取り敢えずユイについて歩いていたライカだが、何か妙な気がして、思い切って無言の彼女に声をかける。


「なぁ。なんか……道、間違えてない?」


 どこかに一緒に出かけた場合、ふたりは必ずマドティの前で別れることにしていた。新参者のライカは道を知らないことが多かったが、彼女の選ぶ道が、方角からしてずれていると思えたのだ。


「なんかこれ……真逆だと思うんだけど」


「うんそう、真逆。よくわかったね」


 思ったよりもあっさり返事をしたユイだが、振り返りもしなかった。その背中の黒髪が、彼女が小さな水たまりを飛び越えるのと一緒にふわっと揺れる。そして「あのね」と呟いたあと、数秒の間があってから彼女は言葉を繋いだ。


「ちょっと付き合って欲しい。あたしの好きなとこ、連れてってあげる」


「……連れてってあげ……る」


 ユイの発言に疑問を感じつつ、まあいいか、と苦笑いを浮かべたライカは、彼女の後ろを歩き続ける。もはや、大将からもらった氷の袋は邪魔だった。ライカはそれを試しに、頭のてっぺんに乗せてみる。バランスを取りながら歩くのは意外と難しい。

 ちゃんと前を見ていなかったライカに、ユイは「ねぇ、来ないの??」と怒ったように声を上げる。

 視線を動かすと、ユイがいかにも怪しい路地から顔を出している。


「こっち!」


「はいはい……行くよ、行きますよ」


 ユイの好きなところがどこなのか、ライカには見当も付かなかったが、彼女が小さなビルの裏階段を昇り始めて、思わず呻いた。


「なぁ……どこまでいくんだよ。まさか、てっぺんまで昇るの?」


「そうだけど?」


「えぇ……」


「あとちょっとだよ?」


「……遠いよ」


「おじいちゃんだなぁ。ほら行くよ、おじいちゃん!」


 そう言ったユイは、両膝に手をついていたライカの手のひらをむしり取って、ぐいと引く。ライカは単純に疲れていた。昨日は長い時間眠ったが、ちっとも身体が休まった感覚がなかったのだ。


「わかったって! 引っ張んな! 歩く、歩くから!」


 ユイの手を振り払うと、彼女は少し頬を膨らませたあと「一番上ね」と言い残して小気味よく階段を昇って行った。

 こんなことをしている場合ではない――そう思っているのに、彼女を放って置けない自分は何なのだろう、とライカはため息をつく。本当はライカも分かっている。彼は、ユイを心配していた。元々何を言っているのかよく分からない彼女だが、大将の店で泣き出したユイはかなり混乱していたように見えたのだ。


 こうなったらこれも運命だ、とひたすらに階段を昇る。ゆうに五階分は昇っただろうか、階段の突き当たりに味気ない色の扉が見えた。ドアノブに手を伸ばすと、すんでの所でそれが開き、驚いたライカは手にしていた袋を落としてしまった。


「うっわ! びっくりした……。もー、来ないのかと思った」


「びっくりしたのはこっちだよ……」


「いいからいいから! ほら見て!」


 ユイは笑って、拾った氷の袋を彼に押し付けながら、腕を引く。彼女が指さした先の眼下に、都会の街並みが広がっている。このビルと同じくらいの──いや、もっと背の高いビルが何棟もあった。先ほどまでの気まずさなど、すっかり忘れてしまったかのように、ユイは楽しそうだ。


「ねぇ、綺麗じゃない? 夜景」


「……街だね」


 ユイは手すりに手をかけ、ぐいと身体を反らせるようにしてライカを振り返った。そして「うんそう、街」と呟いて一呼吸置くと、再び口を開く。


「あたしと来夏がいる街……だよ」


「……何十万人といる街、だろ」


「ムードのない男ねー。そんなホントのこと言わないでよー」


「おれにムードを求めんなよ」


 汗と氷の結露で湿ってしまった髪を、心なしか涼しい風が吹き抜けていく。この街の灯りは、いつまでも消えなかった。既に午前一時を回っている頃であろうが、ビルには未だ煌々(こうこう)と電気が点いている。


「あたしね、ここでぼーっとするのが好きなの。誰も来ないし。鍵もかかってないし。……初めてだよ、誰かを連れてきたの」


「……それは光栄ですねぇ」


 無表情なライカの発言に「絶対ウソでしょ」と吹き出したユイにつられてふっと笑う。そして、手すりを掴んで街を見下ろすユイの隣に立ち、ライカは逆を向いて空を見上げる。そこにはちょうど半分に欠けた月が浮かんでいた。


 ユイは夜景が好きなようだったが、ライカはそれほどではなかった。といっても、特別に星が好きなわけでもなかったが、素直に綺麗だな、と思えるのは月や星の方だった。


 以前、月がなぜあんなに光っているのか調べてみたことがあったが、太陽の光を反射しているらしい。太陽ってどんだけ強烈なんだろう、などと考えていると、ユイが小さな声でライカに問いかける。


「来夏さ。頭どう?……平気?」


「……おれの頭はいつもヤバいけど?」


「あたし、真面目に聞いてるのに、ひどい。そういう意味だと思う?」


「いや、思わない。全然痛くない、大丈夫。……あんまり真面目にされても困るから、つい」


「痛くないならいいんだけど、別に!」


 拗ねたように言ったユイの背中をつつくと、何倍もの力で叩かれる。しかし、そういったことにすっかり慣れてしまっているライカは、何も言わずにただ、空を見上げ続ける。


「……ごめんね。ケガさせるつもりなんかなかった。あたしってさ、なにやってても結局、周りに迷惑かける」


「ケガってほどでもねぇし、大袈裟。迷惑とは思ってないよ。なんともないから。昔、もっと殴られたことあるし」


 呟くと不意に、いつも隠れて過ごしていた日々の映像が頭のどこかに蘇る。あれ以来、痛みを痛みとして感じなくなっている、ライカはそんな気がしていた。いちいち痛いとなどと思っていたら、きっと生きてなんていられなかっただろうな、と思うと、ふと疑問が湧いて、ライカは目を閉じた。


 元より "消えよう" と家を飛び出してきたはずだった。それなのに、先ほど大将が殴りかかってきたとき、ライカは身を守っていた。つまり、ちっとも消えることを実行しようとしないのだ。想像以上に、己はしぶとく生きていようとする。こんな人生など、どうでもいいと思っている割に、本当はどうでもよくないのかもしれない。じゃあ、どうしたいというのだろうか。そう思うと、自分に腹が立ってくる。

 ライカがそんなことを考えているとも知らないユイは「そうだー」と言いながら、ライカの顔を覗き込む。


「ねぇ、来夏は『そんなことねー』って言いそうだけど、あたし、ホントに偉いなって思ったんだよ。帰るって決めたの」


「確かに帰るって言ったけど……。帰るからって、立ち向かえてるわけじゃない。完全にノープランだし。なんも考えたくないし、なんも決めたくない。それって全然偉くないよ」


 瑠衣が提案してきた『期限を決めなさいよ』について、『わかった』と返したライカだったが、実際には何も考えていなかった。そのはずなのに、ライカは答えを出していた。


 深雪のところへ戻るのだ。そして今までと同じように学校に通うのだろう。たとえどこか別の場所に移されたとしても、それはどうしようもないことだった。そうなるのであれば、従うしかないのだ。


「ちゃんと決めてるじゃん。帰りもせずに文句ばっか言ってるあたしよりずっと立派だよ」


 ユイのその声に視線を上げると、彼女は「いいじゃんいいじゃん」と笑顔を見せる。気楽に頷けばいいものを、ライカにはそれが出来なかった。ユイはどうするのだろう、そんな思いが頭を離れなかった。


「ユイは……ホントに帰らないの? 親の他に頼れる親戚とかいないの?」


「うーん。どうだろ。でも、みんな親の味方だよ。血が繋がってるからって、助けてくれるってわけでもないし。あたし、もう誰かの言うこと聞きたくないの。どこにいたって同じ。だったらあんなとこ帰りたくない。あたしはダメなやつだから」


「血、か……」


「来夏だったら……そうだ、もし居場所がわかったらお父さんのところ行ける? その、消えたお父さんのところ」


 ユイにそう問われて、ライカの心臓がどくりと鳴る。考えが回らなくなる。

 本当は居場所なら分かるのだ、ライカ自身が知ろうとしたならば。


「…………行かない」


「でしょ? わかるでしょ?」


「うん……」


「そういうことなんだってば。どうしようもないじゃん?」


 唇を噛んだユイは、静かに座り込む。珍しくスカート姿の彼女は、裾を巻き込むようにして膝を抱えた。立ち尽くしていたライカに向かって、屋上のフロアをつつく。どうやら、座れ、と言いたいようだった。彼女の隣にあぐらをかくと、疲れから自然にため息が出た。


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