4.フローズンサマー(1)
考え疲れたライカは、息をついて、水を飲もうと腕を伸ばす。だが既にそれを飲み終えていることを思い出し、彼の手は彷徨ってしまう。
「水……? あたしのあげる。どうぞ」
「……あぁ、どうも」
グラスをずいっとこちらに押しやった彼女に反射的に礼を言ったあと、水をあおりながらその目を見るとユイの視線にはまだ、戸惑いの気配が残っていた。
そしてライカは気付く。もしかしたら自分は、心のどこかで期待していたのかもしれない。『それくらいでグダグダ言わないでよ』と彼女なら笑い飛ばしてくれるのではないか、と。
見ているだけでは次の動きが読めないユイだからこそ、一緒にいられたのだ。振り回され、困惑することを差し引いても、彼女の存在はライカをどこかホッとさせていた。それなのに自分から暴露して、おかしな空気にしてどうするんだよ、とライカはうなだれる。
冷静なようでいて、突発的に感情的になる自分を、彼自身も持て余している。ライカは制御出来ない己の行動を、悔いてばかりいた。それは、今に始まったことではないのだ。なぜだろう、なぜだろう、と自問したところで、直らない彼の欠点だった。
黙ってうつむいていると、ユイの腕がにゅっと伸びてきて、テーブルに投げ出していたライカの手をぺちぺちと叩く。視線だけ上げると、鼻を赤くしたユイが、心なしか照れくさそうに「ごめんね。なんか……泣いたりして」と呟いた。
ライカは静かに首を振る。その、泣いてしまうようなきっかけを与えたのがライカであることを、彼女は忘れてしまっているようだった。
何かを言おうとしても、上手く口が動かず、視線を上げた拍子に天井を見ると、いくつかの木の節が重なって人間の顔のようだった。ライカはまるで見張られているかのような妙な気持ちになる。
「あたしさ、さっき言ったでしょ。『親が人殺しじゃなければいい』って」
やはり唐突に、彼女は話し出す。感覚的に、ユイが自分の両親の話をしようとしていることが分かった。ライカは、聞きたくないと思う。ユイも話せば、自分と同じ気持ちになるに違いなかった。彼はそんなことは望んではいないのだ。
「いや。なんかそれ……もういいよ」
「前は知りたそうだったじゃない。うちの家のこと」
「別に、知りたくない。前におれがなんかを言ってたとしても、流れでそう言っただけだから気にし──」
「人殺しなんだよ、あのひとたち」
ぽつりと呟かれた言葉に、ライカの動きが一瞬止まる。天井の木目から、彼女の顔へとライカは視線を移す。ユイは確かに『人殺し』と言った。
「……言い方が物騒なんだよ、いちいちさ。頼むから普通に話してくれよ」
しかし、彼女の目は真剣で、嘘を言っているようには見えなかった。
無理やりに笑みを浮かべたライカを、真っ赤な目をしたユイはただ、じっと見つめ返す。その表情にふざけたところは全くなく、彼の微かな笑みは消えていくしかなかった。
「物騒じゃないんだよね、実際そうなんだもん。……あたしさ。一昨年に子供堕ろせって言われたの。だから、あのひとたち、人殺し」
「え……」
呻きのように息が漏れてしまった。いつもの人懐っこさが消え去ったユイの表情は、初めて会った日のように陶器のように冷え切って見えた。
「えっ? なにその驚き方。変な顔!」
自分がどんな顔をしていたのかライカには定かではなかったが、ユイはぷっと吹き出すと、口元に手を当てる。正直、まるで笑うところとは思えなかったライカは、釈然としないまま黙り込んだ。
「ライカにあんな話させてさ、あたしが言わないわけにいかないじゃん? って」
「いや……ちょっと待って……」
「あたしの "大変" は、こんな感じだよって、それだけ。はい、お終い」
「……お終い……ってそんな……」
欠片も想定していなかった話に、ライカは困惑した。「なんて言ったらいいのか……」と呟くと、彼女はついには楽しそうにゲラゲラ笑い始める。その様子にさらに混乱して、顔が引きつってしまっているのが自分でも分かった。
「ライカって真面目だよね、ホントに。へー? って終わってもいい話なのに、なんか答えようとするんだから」
「……だってさ」
「あーぁ。なんかさー、来夏みたいなやつだったらよかったのにな、相手。少なくとも、話は聞いてくれそー」
「つーか……誰なの、相手」
「学校の先輩だよ。一応話したけどさ、逃げちゃったもん。サイテー」
ユイがぽつりと呟いて、ライカはどきりとした。自分ならどうするのだろう──そう考えてみるが、ちっともイメージが湧かなかった。でも、可能性がないわけではなかった。言ってみれば、ライカだってだって軽率な行動を取っているのだから。
「いや、その……」
「……はいはい、お終い。さっきライカさー『話すようなことじゃないけど言うタイミングなくなって、苦しくなる』みたいなの言ってたでしょ。それ、わかるなって。多分それのせいだと思う。ただ言いたくなっただけ。返事なんかいらないの。気にしなくていいから。聞いてくれてありがと」
切り替えるように笑みを浮かべると、ユイは大きく伸びをする。そして腕時計をちらっと見た彼女は「そろそろ帰ろうか?」と呟いた。
いつものユイに戻ろうと、彼女も懸命なのがライカには分かった。帰り支度を始めたユイに対して、全く動こうとしないライカに気付いた彼女は、ついでのように口を開く。
「もう過去のことだし。あたし、もう全然平気だし。来夏には関係から大丈夫」
「……いや、関係なくは……ないと思うけど」
「ううん。関係ない」
「なんでだよ。おれだって──いや、でも……」
そこまで言って、不思議で仕方がないライカが立ち上がった彼女を見上げる。
ユイの話はつじつまが合わないのだ。現在の彼女の言動と。
「なぁ……。なんでおれとするの? その……あれ──あれを」
「あれって? ……ああ、なんでセックスしたかって?」
思い切って口にしてみたはいいが、耳が熱くなってしまう。ライカはこういう話題が得意ではない。ユイが簡単に口に出来る『セックス』が、ライカには言えないのだ。「そう、それ……」と呟いたライカを、リュックサックをぶら下げたまま、面倒くさそうに振り返ったユイは言い放つ。
「そんなの、したいからに決まってるじゃん。それ以外の理由、いる?」
「じゃなくて、なんで? だってなんか……変っていうか──」
言い淀むライカに、どうでもいいとばかりに、すたすた歩き出すユイに、ライカは「ちょっと待って」と食い下がった。
ライカと関係を持ったとき、ユイは避妊具を使ってはいた。しかし、その扱いはあまりに雑だったのだ。
セックスをするということは、それと同時に妊娠させてしまう可能性があることくらい、経験不足なライカだって知っていた。ユイにそんな過去があったと知った今、彼女が一体なぜあんなことをしたのか分からなかった。
別にこちらから誘った覚えもなく、むしろ、無理やりに近い行動をユイは取っていた。その理由がライカには分からなかった。
「……だって、また子供出来るかも……じゃん。だから、さ」
座敷から出る直前にピタリと立ち止まり、ユイは視線を落とす。彼女は何かから逃げるようにように、柱に引っかかっているエアコンのリモコンをいじり始める。ピッピッピッと無機質な音だけが、辺りに響いた。彼女はまるで退屈している幼子のように、早くどこかに行きたがっている──ライカにはそんな風に見えた。
「なんで? なんで? って……。さっきから、そればっかだよね、来夏」
「……仕方ねぇだろ、わかんないんだから」
「なんでってさ。いちいちこっちから言うのめんどくさいんだもん。どうせもう子供とか出来ないみたいだし、避妊もクソもって感じ。あたしには関係ないの」
「出来……ない?」
彼女の発言の趣旨が分からずに、ライカは聞き返す。ため息をついたユイは、リモコンを柱に引っかけると、渋々、といった風に口を開く。
「出来ないんだって。堕ろす手術したあと、ずっとお腹痛くて。親に言っても無駄だから自分で病院探して。二軒目の病院でそう言われた。最初のとこがヤブだったみたいよ? 手術の仕方が違うだとかなんか難しいこと言ってたけど、あたしにはわかんないもん」
「……なんだよ、それ」
「なんだよって言われてもね。そうですかーって帰ってきて、それ以来どこにもかかってない。さすがにショックだったから、細かくは覚えてないの」
「そんなの、最初の病院のミスじゃん。親にそれ言わなかったの?」
「は? 子供出来た時点でキレて、めんどくさそうに手順踏んで、それっきり見て見ぬ振りなのに?? もう一個、病院行ったのバレてさ。責め立てられて、いよいよ嫌になって家飛び出した。そんな親にどうしたら言えるの?? ひとりで裁判でも起こせばよかったね」
虚ろな瞳でライカを見つめながら、彼女は氷のように冷たい笑みを浮かべる。言われてから、彼はハッとする。ユイに子供を堕ろさせたのは、他ならぬ彼女の両親なのだ。一体、誰に言えというのだろうか。ずいぶんと間抜けなことを言ってしまったと、ライカは唇を噛んだ。
「あー、これって嫌な言い方。来夏に言ったって仕方ないのにね。ごめんね」
「いや……ちょっと考えればわかるのに、おれ……。ごめん」
「そんな簡単にごめんとかやめてよ! なんかムカつく。来夏が謝るようなことじゃないでしょ? だいたい、そんなの男のアンタにパッとわかるわけないじゃん。普通だし。……あー、もう。なんで来夏に怒ってんの、あたし。違うの。……元はといえば自業自得なんだよ。あたしはただ、起こったこと並べただけ。だからね、もういいんだ」
「そりゃ、確かに──」
──確かに現実だろうし自業自得なのかもしれないけど──と口にしそうになったライカは、口を噤んだ。善か悪かという問題そんな風にあっさり決めつけられることではない、そう思ったのだ。しかし、ひと言でそれらを上手く伝えられる言語を、彼は持ち合わせていなかった。
ライカが悩んで止まっているのが待ちきれない様子のユイは、座敷のふすまに手をかけ「もういいんだよ、どうでも」と呟く。
「……うちの親はね、娘の不始末が世間に知られることを、すごくすごく嫌がった。っていうよりは、怖がってたんだろうなって。あたしはずっと……親の理想の優等生だったからね。最寄りの産婦人科に連れて行くっていう普通のことすら、あのひとたちには出来なかったの。最初からわかってたんだ、どうせ無理だって。反抗しようとしたあたしが──なにも考えないまま、今のままじゃ嫌だなって漠然と思ったあたしが子供すぎたの。あたしが悪いのよ」
そう言ったユイが歪んだような微笑みを浮かべる。その横顔を見上げていたライカは "上手く伝えよう" と思うことをやめにして、口を開く。
いつまでも考え込んでいたって、一生何も言えない気がした。どうせ、上手くなど喋れないのだから。
「やっぱり、おかしいよ」
「……わかってるよ、そんなの。あたしの周りはずっとずっとおかしいもん。だから、全員嫌いだよ。爆発すればいいのにって思う。でもさ、あたしだっておかしいんだ」
「そういうことじゃない。なんでユイがそうやって笑いながら『どうでもいい』とか言わないといけないんだ」
「……ていうかさあ、帰ろうよ。アンタ、早く帰りたいんじゃなかったっけ? そう言ってなかった?」
「おれさ……ユイが話そらすの、わざとだってのは、わかってる。流して欲しいんだって。だけどさ、これは『へー』って言えない、悪いけど。なんでそんな、ユイだけが悩むんだ、変だろ」
「……別に悩んでなんか、ないんだけど」
「悩んでないやつの発言じゃないと思うんだけど、ここまでの話」
「……来夏だってグジュグジュ言ってたじゃん」
「おれは悩んでるよ。自覚してる。ユイはさ、そういうのすら考えないようにしちゃってるじゃん。それでも出てきちゃったんだろ? おれのウジウジにつられて」
「……グジュグジュだよ」
「どっちだっていいだろ? なんでそこに突っ込むんだよ」
「だっておもしろいんだもん。……ねぇ、行こうよ」
「いい加減、聞けよ! ひとの話をちゃんと!」
誤魔化されるのが嫌だった。だからライカは出来る限りの大きな声を出す。