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3.ぼくらの残照ハレーション


 『帰るんだ?』――そう言ったユイの表情に、ライカは言葉に詰まってしまう。どこか、温度差があったからだった。確かに "帰ってもいい" などと言える自分はきっと運がいい。ユイとは環境がまるで違うのだろう。


 何も言わずにいるべきなのか、とライカは唇を噛んだ。しかし、ユイは催促するように眉を上げ、彼を見つめている。答えないわけにいかない、とライカは口を開いた。


「帰るかどうか、は……。結局は、そうするしかないのかなって思ってる」


「……はは、すごいな。来夏、偉い子だね」


「いや……偉いっていうか、それしか選べないだけっていうか……」


「選べるんだからいいじゃん。ずっといいよ。あたしは帰れない。帰りたくないし、もう帰れないの」


 逃げ出して来た、という罪悪感を見透かされているようで、心臓が落ち着かないライカはうつむいて、再び焼き鳥をくわえた。やはりそれは美味しくなかった。


 ユイも何だか落ち着かない様子で、相変わらずキャベツを右に左に、と動かしている。きちんと話すにしても、ふたりはお互いのことを知らなすぎる。言葉を探していたライカを見据え、ユイは笑顔になる。


「だったら、堂々と帰ればいいよ。来夏はここにいなくっていいじゃん。ちょっと嫌な気持ちになっただけでしょ。だから、アンタは家に帰れる。大丈夫」


「ちょっと嫌……?」


 場を取り成すように笑みを浮かべた彼女の言葉が、ライカの胸に刺さった。その言葉に悪気がないのは分かっていた。ただ、励ましてくれているだけなのだろう。大丈夫だと伝えたいだけなんだと。それなのに、唇が勝手に動いてしまう。


「どれだけ嫌でも……おれには帰るっていう選択肢しかない。そんだけのことだよ」


「ん?」


 不思議そうに首を傾げるユイが憎らしく思えた。自分の過去の話など、ユイにしたところでどうにもならないことくらい分かっている。しかし、ちょっと嫌になった──彼女のたった一言が、どうしようもなくライカの心を揺さぶった。


 これ以上黙っていたら、どうにかなってしまうような気さえした。ユイの言葉に『そうだな』とでも返せたら、恐らくライカはここにはいないはずだった。


「嫌だなんて、結局わがままっていうかさ。こっちの都合だよな。他人には関係ねぇって、わかってんだ、おれだって。あの家にいるのは他人だから。元々、今の家に親なんかいないんだおれは。母親は死んだし、生きてるんだろうけど父親はどっかに消えた。おれ、まだ小学二年生とかだったんぜ? わけわかんないまま、あっちだこっちだって。なんだよおれ、いらねぇんじゃん? ってわかっちゃうよね、それくらい」


 瑠衣に引っ叩かれたあの朝以降、必死に何も気にしないように努めても、蘇った記憶たちは掘り返した草の根のように繋がっていた。


 苦しくても、考えてしまう。自分の中で完結して奥底にしまっておきたい、そう思っているのに。感情が身体から勝手に染み出してしまうような、そんな感覚にライカは襲われる。

 記憶が曖昧な部分だらけで、話として正確か怪しい。しかし合ってるか間違っているかなど、どうだってよかった。


「おれを引き取った最初の親戚は……あのひとがどういう関係のやつなのかおれにはわかんなかったけど、殴ってくるから恐怖しかなかった。一緒にいたひともさ、そいつに逆らえなかったみたいだし……。いや、それはどうでもいいけど。それよりキツかったのは、ある日突然、施設に行けってなってさ。数年そこで過ごして慣れた頃に、結局また別の親戚のところ行けって決定されたこと。一応、どうする? って聞かれたよ、確かに。でもおれに断るの、許されてるとは思えなかった、どうしたって。……おれはいつになったら同じ場所でじっとしてられるんだ? って思うわ。どうせさ、また追い出されるんだよ。今の保護者の彼氏みたいなのがわざわざ来てさ。顔だけ見てめんどくさそうにするんだよ。わかるじゃん? 追い出されるんだろ? だったらおれがどこに行くか、こっちが決めたっていいじゃん。……ホントは帰りたくなんかないよ。保護者は『追い出すわけない』とか言ってたけど、当たり前に信用出来ない」


 ここで言葉を切ることが出来たらどんなに楽だろうと、何だか泣きたいような気持ちになって、ライカは小さくため息をついた。しかし、そんな気持ちになったところで、涙など出てこなかった。

 

「だけど……なんか、いいひとなんだ。どうしても無視できない。だから、帰るしかないんだ。最初からそれはわかってた。でもきっと、もうあそこにいられなくなるんだってのも、わかってる。ぐちゃぐちゃなんだよ。そうとしか説明出来ない。仕方ないよな、わかってるよ。だけどさ、なんでなの? って思う。おれが……おれがいつ、特別なもん望んだんだ? ってそればっか考える。意味なんかないのに」


 言い切って少しだけ視線を上げると、グラスの氷は溶けきっていた。水滴が、底の周りを囲うように小さな水たまりを作っている。それほど長く話したつもりもなかったのに、喉がいがらっぽい。グラスを持ち上げて一気に水を飲み干した。ボタボタと垂れた水が、ライカの膝を濡らしていった。


 身体に水分が染み渡っていくと、サーッと衝動が引いていった。やがて、何だかとんでもなく要らぬことを言ってしまったような気がしたライカは、頭を抱えた。額を押さえ、髪を掻き回しても、言ってしまった言葉は取り戻せない。


 恐る恐るユイの様子を窺うと、彼女は目を見開いてライカを凝視していた。それは想像通りだった。ライカにとってそれはよくある反応で──だからこそ、こういった話を避けてきたつもりだった。


 まさか、自分からベラベラと喋ってしまうなど、まるで想像もしていなかった。今までの対人関係ではそんなことはなかったというのに。

 先日も、瑠衣に対して我を失いかけた。最近、どうかしている――そう思うとライカはただ不安になった。


「まあ……あの……。なんだろな、その……」


 取り敢えず何とか状況を取り繕おうと再び口を開くが、何をどう言うべきか、と彼はそっと唇を結んだ。嫌な沈黙にため息を飲み込むしかなかった。


 いわゆる児童養護施設に入っていたときですら、新入りの先生と話すとき、こういう雰囲気になった。とはいっても、施設にいる子供たちは誰だって、それなりの事情を抱えていた。ライカだけが特別なわけではなかった。


 それなのに、経緯(いきさつ)を知ったらしい大人たちは決まって、わずかに同情を含んだ微笑みを浮かべた。もちろんそれは、彼らが優しいからだと漠然と思っていたが、何よりもその表情に無駄に勘付いてしまうことが怖かった。


 『あなたは勘がいい』と言われる度、気付いていることを悟られやしないか、常に考えなくてはならなかったからだ。己の特性を鬱陶しく思っても、他人の反応を察知することが出来る自分は、まだマシなのかもしれない、ということは子供ながらに分かっていた。施設には、ストレスからか会話すらままならない子供もいた。誰もが、傷だらけだった。


 そこまで考えてやっと、ライカは気付いた。マドティにいると落ち着いてしまう自分と、そして妙な懐かしさを覚えていた理由を。長い間、それが当たり前だったのだということを。


「……わかってるのにな。全然さ、おれだけじゃないじゃんって。別にめんどくさい現実を自慢したいわけじゃないから、誰にも言いたくないのに。……けど、そうやってるうちに、言う機会なんてなくなって、どんどん……勝手に苦しくなって。ただ、仕方ねぇじゃんって笑って流していられりゃいいのに、どうしても憂鬱な気分になる……みたいな? 根性足りねぇよね」


 必死で語尾を和らげて、重苦しい空気のバランスを取ろうとしたライカだったが、虚しく時が過ぎるだけだった。唇を噛んで、ごめんと告げようとしたライカは、正面のユイの姿を見て目を疑う。彼女の大きな瞳に涙が浮かんでいた。


「な……なに泣いてんの……」


 いくらなんでも、泣かれるとは思っていなかったライカはそう呟いたきり動けなくなった。一体、他人の何がそんなに悲しいのか、彼には想像もつかなかった。


「わかんない……。ごめん、ちょっとわかんない」


「いや……なんかその……困るし。……あの……いや、うん」


 もごもごと口を開き、何とかして ”大したことない” と続けようとするが、今さら何を言っても遅いように思えて、唇を結ぶ。


「あたし、すごくお気楽に帰れとか言っちゃって」


「お気楽というか……その通りじゃん。ユイみたいに、帰れないってわけじゃない。おれ、甘えてるだけなんだよ」


「あたしよりずっと大変だよ」


「……大変? まぁ……うん」


 確かに大変なのかもしれない、とはライカも思う。だが、彼にとってはこれが全てで、何もかも現実だった。他と比べてどうか、はさほど重要なことではなかった。何よりも、自分の生活を "大変だ、不幸だ" などと哀れむ余裕すらなかった。


「……でもその "大変" も、短かったから。多分……」


 普通に生きる権利など、主張出来なかったあの時期――母方のどこかの親戚の家で暮らした日々は短期間のはずだった。移動した時期を過去に何度か思い出そうとしたことはあるのだ。ライカのぶつ切れの記憶が間違っていなければ人々が寝静まってから、真っ暗な中で教科書やらノートに学年とクラスを書いたのは一度だけだった。


 何かの手続きのときに聞いてしまった、母親が死んだ日付から逆算しても、長くて一年かなと思ったことをライカは思い出す。その一年程度の期間で、あの特異な状態を知らない誰かが見抜いて通報したらしい。そしてなぜか "おじさんたち" があっさりライカを引き渡した。


 そういったことが重なったのは幸運だったろうし、あいつは本当に自分が邪魔で邪魔で仕方なかったに違いない、と結論付けたあと、ライカは脱力感に襲われた。もしも、誰も気付いてくれていなかったとしたら――きっとあの日々は続いていたのだろうと思う。


 なぜなのかずっと分からずにいたライカだったが、テレビで児童虐待のニュースを見るたびに胸が痛かった。記憶はなくとも、頭のどこかが自分がどんな目に遭っていたか、知っていたのだろう。


 きちんと抱きしめてもらえるということ。それは当たり前のようで、当たり前ではないのかもしれない。もしも自分のケースが異常だったとしても、あそこにいた子供たちの分だけ異常があったということだった。


 父親のことといい、おじさんのことといい、なぜこんなに昔のことが蘇るのだろうか。ライカには分からなかった。自分は、本当は知りたいとでも思っているのだろうか、と。


「あぁ……もう。違う、違うよ」


 思考の波に溺れそうになって、必死に我に返ったライカは、頭を振る。何か喋り続けなければ、延々考えてしまいそうだった。だから、あまり頭を使わないまま、口を開く。


「というより……おれが特別ってわけでもないし、誰だって多少は大変だろ」


 ユイは両手で涙を拭うと、真っ直ぐライカを見て、微かに頷いた。その顔が目に入るたびに、黙ってしまいたかった。しかし、ライカは話し続けた。気まずさもあったが、ここで黙るのは、卑怯に思えたのだ。


「辛さとかって、ひとによって違うじゃん。別におれの方がユイより大変とか……そうは思わない。ユイだって大変でしょ、色々。そうだろ? ……おれがマドティにいてさ、一番おかしいと思ってるのは……。家を出て、あんなところで遊んでるなんて、みんな普通じゃねぇよなって。異常だよ。だから群れるんだろうな、おかしい同士でさ。だから落ち着くんだなって……さっきそう思った。……だからなにって感じだけどさ」


 黙ったままのユイは、最後の生姜焼きを一枚、放り込んで淡々と口を動かしている。そして鼻をすすった彼女の目から、また涙が一粒落ちる。


「いや……そんな……ユイが泣くことじゃないだろ? おれは恵まれてんだって。帰りたくなーい、とか駄々こねるなって話だよ、ホント。バカみたいだわ」


 わざと精一杯のふざけた口調で言ってみるが、ユイは笑わなかった。そして、いよいよ話すことがなくなってしまった。

 いつまでも最後の生姜焼きを噛みしめる彼女から目をそらすと、襟足の髪ごと首筋をガリガリと掻いた。


 デニムの縫い目を見つめ続けて、どれくらい時間が過ぎただろうか。腕時計を持っていないライカは、今が何時か見当も付かなかった。


 帰らなくては、と気持ちだけが焦る。しかし、グスグスと泣くユイを放って席を立つ気分にはなれないし、かといって話しかけることも出来なかった。


 ガヤガヤと窓の外が騒がしくなってきた。きっと、下り電車が終わる時間が迫っているのだろう。決まった頃合いになると、決まってこの街は酔っ払いで溢れた。


 ほぼ全員が揃って駅に吸い込まれていく。それは、単純に楽しんでいるだけかもしれない。しかしライカにはその人間たちが、糸に繋がれた操り人形のように見えた。


 だが、果たして自分が違うと言えるのだろうか。家を出る前は、ライカだって皆と同じ制服を着て、ほとんど話もせず、ただ行ったり来たりをしているだけの学校生活を送っていた。


 そして、そこへ戻ろうとしているのだ。ユイに問いかけられて『そうするしかない』と答えた自分がいた。

 ライカは分かっているのだ。自分は本当に、帰らなくてはいけないと。


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