2.気まぐれな彼女(2)
ふたりがそんなやり取りをしていると、予想よりもずいぶん早く、大将が大きなお盆を持って現れた。
「はいっ! お待たせねぇー! あ、重いから気をつけてな!」
「早い……っすね」
「お腹空いてるとこ、待たせたくねぇからな!」
お盆ごと食事を受け取った受け取ったライカは焼き鳥の乗った皿を自分の前に置くと、残りを正面で膨れて頬杖をつくユイの前に押し出す。
「んじゃ、ごゆっくりなー」
何が楽しいのか、ははは、と笑いながら大将は、下の階へと消えていく。再びそれを見送ったユイは彼が遠ざかると、少し声を大きくした。
「来夏だって話、聞こうとしないじゃん!」
「ユイよりマシ」
「なによ、仕返しってこと? なーんか陰気ー」
「おれが陽気だったことねぇだろ? ユイがいっつもそう言うんだから間違いないでしょ」
ユイはそんなライカの一言に微かに笑うが、打ち消すようにふん、と鼻を鳴らす。
「食べよ? いただきます」
丁寧に手を合わせ箸を持つその仕草を何となく見つめていたライカは、手を合わせるほど丁寧な "いただきます" を長らくしていないことに気が付いた。
もちろん、習ったことはあるし、その作法を実行していた時期もあった。でも口うるさく言われることがなくなった今、ライカにはその文化が残らなかったのだ。
サラダのトマトを口に入れかけたユイが、いつまでも自分を見ているライカに気付いて「なに?」と不思議そうな顔をして言う。
「いや、別に……」
「焼き鳥くらい食べたら?」
そう言われて、目の前の串に刺された肉を見下ろす。しかし、あまり食べたいとは思わなかった。
仕方なく串を持って、くるくるとねじっていると、生姜焼きを頬張ったユイがもごもごと声を出す。
「夏バテかなんか?」
「まぁ、そんなもん」
「ふぅん。……あぁ、そうだ。さっきの話の続きだけど」
意を決して串をくわえたライカが、ユイの言葉に応じるように顔を上げると、彼女はまるで世間話でもするかのように言葉を繋げた。
「マドティさ。……もう来なくていいからね」
あまりに唐突なそのセリフに驚いたライカは、ほとんど噛んでいない鶏肉を飲み込んでしまった。
黙って目をぱちくりさせている彼に、ユイは箸を置いて味噌汁のお椀に手をかけ、続けて口を開く。
「っていうか、もう来ないで」
「……はぁ、そうですか」
無表情な声色で呟くと、ユイは意外だと言わんばかりの顔で彼をじっと見つめる。肩すかしを食らったかのような、少しほっとしているようにも見えた。
「──とかで終わると思ってんの? そんなわけねぇだろ」
焼き鳥を皿に戻しながら不服そうにそう告げたライカに、ユイは眉根にしわを寄せて、ため息をついた。
あまりに自分勝手なその反応はライカを苛立たせた。そして、そんなことで苛立つ自分自身にイライラしている。
「なんで突然、そういう話になるの?」
「……なんとなく」
「なんとなく? なに、なんとなくでおれは呼ばれてたんですか??」
「そう」
「……なんかさ。さっきからユイ、おかしいぜ?」
「は? おかしくないけど?」
「いや。店を出てから、どっかおかしい」
何に対しての違和感なのか分からないでいたライカだったが、急にあの店をどう思うか、などと聞いてきたユイの表情は、何かを探っているように見えた。
「なんでもいいじゃない。とにかくね、前から言おうと思ってたの。もう来ないでって」
「……いや、別にいいけどね。ホントに『はぁ、そうですか』って言ってもいいよ。だけど、おれをあそこに連れてったの、おまえだからな? 理由を聞く権利くらい、あると思うんですけど」
「はぁ……。なんでアンタってそう、いちいち頭いいアピールすんの?」
「……いや、してねぇし。普通だろ、普通に疑問だよ」
彼女は困ったように箸を置くと、急に黙り込む。どう考えても、困るのはこっちの方だ、とライカは思う。この時間に来いだの、あっち行くだのと、連れ回されたのはライカなのだから。
いつも横暴なユイがこんな風に大人しくなるときは決まって何か後ろめたいことがあるときだ。
「ユイ、なに隠してるの? あそこになにがあるんだよ。一体なんなんだよ、マドティって」
「知らないったら」
ユイが鋭い視線でライカを見る。これ以上、余計なことを聞くなと言わんばかりの表情だった。しかし、その瞳を淡々と見つめ返しながら口を開く。
「なんだか、さっき店を出てから急に、そういう話になったように思えるんだけど。おれ、なにか言った?」
「あー、もう。めんどくさいなー」
「そりゃ、おれはただの通りすがりなんだろうけど。……あの店がなんかおかしいことは、おれだってわかってるよ」
ユイは分が悪そうにそっぽを向いているが、ライカはそれに構わず話し続けた。
分かっている。気まぐれは彼女の代名詞だ。だからといって、何を言ってもいいわけではない。理由くらい聞いたっていいはずだ、それがライカの言い分なのは変わらない。
「前から不思議だったんだ。……なんでおれらさ、金払わないのに食い放題、飲み放題なの? とか。泊まってるヤツらだっているだろ? 光熱費は? 店の儲けにもなんないのになんで? とか。あとおまえ、必ず十時過ぎにおれを引きずり回すだろ? それもよくわかんないし、他にも──」
「わかった! ……わかった、もういい」
両手を挙げてライカの言葉を遮ったユイは膝を崩して後ろに手をつき、天井を見上げた。いつも即座に言い返す彼女が、何かを悩んでいるようだった。そんな姿を見慣れないライカは訝しげにユイを見つめる。
「まあうん……そうよね。そんな簡単に終わる話だとは思ってなかった」
「だから、なにが」
「ちょっと待ってよ。考えてるんだから急かさないで」
それは、普段ならライカがユイに言っているセリフだった。
いつだって反射的に言葉を吐き出すユイが考えているというのは、何だかおかしかった。「ユイも考えるんだ……」と呟くと、憤慨したように「失礼ね」と彼女は言い捨てた。
「だから……最初はね、利用しようと思ってたのよ。だけど、今はもう関わらせたくないの。出来るだけ早くどっか行って欲しい……危ないから」
「……危ない?」
「危ないのよ」
「……なにが?」
「それは言いたくない」
「……利用って?」
「それも言いたくない」
「いやそんなんじゃ……全然、意味わかんねぇんだけど?」
「わかんなくていいの」
「でも──」
「わかんなくていいんだってば!」
言い放ったユイの剣幕が思っていたより激しく、ライカは黙って焼き鳥を口に運んだ。それは美味しいはずだったが、味がしないように思えた。まるで砂を噛んでいるような気分だ。
彼女がここまで強く言うなら、このまま黙っていた方がいいのかもしれない。そう思いつつ、心がモヤモヤした。一体何にモヤモヤしているのか分かりもしないのに。
「あのね」
永遠に続くかと思えた沈黙を破ったユイの言葉に、ライカは顔を上げる。彼女はいつの間にか箸を持ち直していた。そして、例のしおらしい表情を浮かべながら、キャベツをふたつの山に分けながら先ほどとは違い、申し訳なさそうに「ごめんね」と呟いた。
「……いや、別に謝って欲しいわけじゃなくて」
「うん、わかってる。だけど……ごめんね」
「……うん」
そう答えつつ、何が『うん』なのだろうか、と思う。しかし、ユイが求めているのは、ただの承諾なのだろうということは理解出来る。
でも、ライカは頷きたくなかった。この感情がどういったものなのかが分からないままだ。困っていると、ユイが再び口を開く。
「アンタもさ、他のヤツらと一緒かと思ったの。最初はね。男ってみんなそうだから。でも、来夏は違った。だから……」
「おれが違うってなんなの? なんかそれ、よく言ってるけどさ」
「だって、気持ち悪いくらい優しいでしょ?」
「いや、知らんわ。ひでぇな、気持ち悪いって……」
「気持ち悪いよ。なんか裏があるのかと思ったけど、なんもなさそうなんだもん」
「突然、店ん中に引きずり込まれて、一体どんな裏を発生させんだよ。っていうか……全然、褒められてるのか貶されてるのか、わかんないんだけど」
「わかんないの? 褒めてるの。……だから、守らなきゃって」
「……守る?」
「だからね? 一度引き込んじゃったらさ。あたしに責任があるわけ」
言い切ったユイの発言に、ライカは笑ってしまった。確かに自分はひ弱な部類だろう。しかし、こんな華奢な女の子の保護対象だとは思っていなかったのだ。
「……そんな責任感とかいらないよ。どうとだって出来る。強くはないのは認めるけど」
「だって、来夏って生まれたてのヒヨコみたいじゃん。どうにも出来ないでしょ?」
「なに言ってんだよ、おれよりちょっと早く生まれただけだろ?? ユイだって、どう見たって親鳥って感じでもないじゃん、大差なさすぎる」
話の深刻さを一瞬忘れて、ライカは吹き出した。ユイもつられて「なんで鶏の話になってんの、意味わかんない」と言いながら笑い出す。
その笑顔を見たライカは少しほっとした。店を出てから、ずっと引きつった表情だったユイが、やっと笑ったからだ。
「いまいちよくわかんないけど……ユイはそのヤバいとこにいるままでいいのかよ?」
「……他に行くとこないもん」
家に帰れば? と言いかけて、ライカは口を閉じた。他人には気軽に言えるのだ、と気付く。ユイは一度も、ライカに『家に帰れば?』と言わなかった。ここで、そう言うのは反則なのだ。いくらそれが現実でも。
「……高校出たら、働けばいいじゃん、普通に。卒業まで、我慢すれば終わる……っつうか。いや……なんていうか……」
結局『家に帰れば?』と同じことを言ってしまったライカの言葉は途切れ途切れになる。
しかし、告げられた側のユイは気にしてないようで「うーん」と唸るとため息をついた。
「高校かぁ……。あたし、もう退学になるんじゃないかな。どう考えたって、日数足りてないもん。必修単位落ちまくりで、補講とかでどうにかなるレベルじゃない」
「日数? ……単位。へぇ」
「なに、その ”初めて気づいた” みたいな言い方。変なの。で、来夏はそうすんの? 我慢するの?」
「……まあ……そうかもしれない」
「ふーん。じゃあ来夏、家に帰るんだ?」
すっかり冷めているであろう味噌汁をすすりながら、ユイは冷笑を浮かべて、これまで敢えて言わなかったであろう一言を口にした。