2.気まぐれな彼女(1)
ふたりが外に出ると、熱風が吹き付けてくる。夜だというのに一体、気温は何度あるのだろうか。ふと、先ほど聞いた言葉を思い出して、前を歩くユイにライカは声をかける。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
彼女は振り返り歩調を緩めた。風で暴れる髪を押さえながら「なに?」と投げやりに答える。
「ハシワタシって、なんだか知ってる?」
問いかけに微かに目を見開いた彼女は、何も答えずに、さっと前を向いてしまった。いつもならどんな些細な会話でも何かしら言い返すユイのその反応にライカは違和感を覚える。
「え、なんだよ……」
「なんでもないし、そんなの知らない。……なにそれ? なんの話?」
「いや、さっき "門番" が言ってたから。ユイなら知ってるかなって」
「ふうん」
ユイは唸ると、腕時計をちらりと見て、突然に立ち止まる。その背中にぶつかりそうになったライカは、すんでのところでユイの後ろ髪から、顔を反らせた。
「なんだよ、急に止まんな!」
「……よし、あっち行こう」
「あっち? ……パフェは? ファミレス、真っ直ぐじゃねぇの?」
大して財力のないはずの彼女が向かうところなんて、ファミリーレストランしかないと思っていたのに、ユイは明後日の方向を指差して歩き始める。疑問だらけのライカは無視されたままだ。
「おいってば」
「うるっさいなぁ。気が変わったの!」
「はぁ……。気まぐれですね」
ライカは呆れて呟くが、それは今に始まったことではない。思い返せば彼女は、いつだって気まぐれだった。
何も言わないユイはずんずん歩き続け、飲み屋街を抜けていく。
たまに周辺をウロウロするライカも、この辺りには来たことがなかった。とはいえ、別にどこに行くのだって構わないのだ。適当に何か食べるのに付き合ったら今日の所は帰ろうと、ライカは時間を逆算する。
昨日の今日で遊びに出たなんて知られたら、どれだけ怒られるか分からない。ユイの時計を盗み見てでも、瑠衣より早く帰らなくてはならない――そんなことを考えていると、ユイが神妙な面持ちで口を開く。
「来夏さあ……マドティのこと、どう思ってんの?」
「どう……って?」
「楽しい店だなー、とかさ」
「……別になんとも思ってないよ。まあ、楽な場所ではあるけど」
「ふうん」
ユイは再び唸ると、黙ってしまった。さすがに変だと思ったライカが問いただそうとすると、一軒の飲み屋の前で彼女は立ち止まった。そこには "居酒屋 大将" と豪快な書体で書いてある。
「空いてるかなぁ」
「……なにこの、オッサンみたいな店」
ユイは答えずに店に入っていく。仕方がなく、ライカも彼女の後からのれんをくぐった。
厨房にいる恰幅のよい男はユイを見た途端、嬉しそうに「おー! ユイちゃん!」と声を上げた。大将の "大将" だろうか。
「久々じゃねぇか、元気だったか?」
「うん、おじさんも元気そうでよかった」
にこにこと微笑み合うふたりの間で、ライカは戸惑い「知り合いなの?」とユイに囁いた。しかし彼女はライカを押し退けて、大将に問いかける。
「おじさん、上って空いてる?」
「あぁ、見ての通り今日はてんで客が来ねぇ。好きに使っていいよ! なににする?」
「んーとね、生姜焼き定食!」
「あいよ! 兄ちゃんは?」
「……」
「どうした、狐につままれたような顔しちゃって」
「えっと、いや……」
ふたりは気心が知れているようだったが、何も教えてもらえないライカは置いてけぼりだった。それに『なににする?』がメニューのことだなんて、彼には分からなかったのだ。
「この子ね、お腹空いてないんだって。焼き鳥、何本かちょうだい」
「はいよー。あ、団体さん来たら場所変わってもらうかもしんねぇよ?」
「うん、わかってる。そんなに時間かからないから」
彼女は勝手に小さな冷蔵庫のようなものからふたつ、袋に入ったおしぼりを取り出すと、「こっち」とだけ呟いて、急な階段を昇っていく。そんなユイを見上げて、頭を掻いたライカに、大将は目配せしてにやりと笑った。
「頑張りなよ、兄ちゃん」
「……はぁ、わかりました」
何を分かったのか。ライカは自分でも分からないまま、そう返事をして階段を昇る。そして、ユイはこの界隈にどれだけの知り合いがいるのだろうか、と考えた。
彼女は、一見すると人懐こい美少女だ。その裏にある破綻した性格を隠してさえいれば。そんなユイならば、いくらでも知り合いなど出来そうだった。
「あー、安らぐー」
サンダルを脱いで、先に畳に上がっていた彼女は、足を投げ出して声を上げた。
「おい、なんで無視すんだよ」
「ちゃんと話すってば。あそこでごちゃごちゃやってたら長くなっちゃうでしょ、はい」
ユイは、とん、とおしぼりをテーブルの上に置くと、さっさと座れと言わんばかりにライカを見上げる。
「……わけわかんねぇよな、ユイって」
「ごめんね?」
「絶対、悪いと思ってねぇだろ。ユイの "ごめん" は軽い」
「バイトしてたの、前」
「あ?」
ユイとライカの会話はいつもこうだった。彼は言われたことに対して返事をするが、ユイはそうではない。好きなタイミングで好きなことを言う。噛み合わないはず話を、無理やりに合わせて何とかしているのはいつだってライカなのだ。
「だからね、ここでバイトしてたの、少し前まで」
「あぁ……そうなの」
「そうなの」
懐かしそうに部屋を見回しながら、彼女は陽気なメロディで鼻歌を歌い出す。ユイは確かにライカの質問に答えたのかもしれないが、タイミング的にやはり強引だった。ふんふんじゃねぇよ、と内心思いながら、ライカはおしぼりのビニールを開けて顔を押し当てる。
「顔なんか拭いちゃって、来夏の方がよっぽどオジサンじゃない。まあいいや、ねぇ。ここ、いい店でしょ? バイト先だったから言うわけじゃないけど、好きなの」
「……まあね」
暑いのだから仕方ない、という言葉を飲み込んで、ライカは同意した。
ここに来るまでのやり取りだけで既に疲れてしまって、不機嫌なライカでもここがよい店だということは否定出来なかった。
落ち着く佇まいは、何となく心をほっとさせた。外は騒がしいが、のれんをくぐった瞬間からなぜか、都会の喧噪と無関係になったように思えた。ユイの言うことになど頷きたくはなかったが、それは事実だった。
「いやー、暑いね。クーラーの温度勝手に変えていいよ」
大きな声で言いながらやってきた大将が、にこりと笑うと、ふたりの前に水を置いた。彼にお礼を言いながら、エアコンのリモコンを手にしたユイが「あれ? おばさんは?」と不思議そうな顔をする。
「今日はもう帰ったよ。暇だし、頭痛ぇって言うから。残念がるなあ、ユイちゃん来たってったらさぁ」
「え、風邪? 大丈夫?」
「だいじょうぶだいじょぶ! 明日には治ってるよ。定食、待っててなー」
言い終わる前に彼は階段を降りていく。その口振りから、急いでユイの夕食を用意しようとしているのが分かった。そんな彼を見送りながら、ユイは小さくため息をついた。そして「ねぇ……来夏」と、鬱々とした声で呼びかけられ、ライカは眉を上げる。
「なんで、ああいうひとの家に生まれなかったんだろうね、あたし」
伏し目がちのユイを顔を見て、ライカはスッと視線を外した。どう答えるべきか分からなかったのだ。エアコンの風が顔に当たるように身体を傾けながら、ライカは唸る。
「ああいう感じの優しい親、欲しかったなぁ」
考えている最中のライカのことなど、一切気にしていない様子のユイが真面目な顔のまま重ねて呟く。
こんな風にユイは、ときどきふざけるのを止めるときがある。ここのところ、ふたりきりでいるときは特にそうだった。
彼女がこのモードに入ったと気付いたら、ライカも茶化して答えるのを止めることにしていた。
彼女は "来夏" に固執すると同時に、時折、本音のようなものを漏らす。どんなに彼女の乱暴さに腹を立てていても、ライカはあしらえなかった。そう思わせるのは、ユイの特性なのかもしれない。
そんなことを考えながら、ライカはやっと思いついた言うべきであろう言葉を口にした。
「なんだろうな……。普通でいいんだけどな」
「うん、そう。普通がいいよね」
しかし、ライカにはぶつかり合って揉める相手がいない。親と上手くいかない、と嘆くユイですら、少し眩しく見えた。生まれ育ち、帰る家があることが羨ましく思える。
ふと、ユイはどんな家で育ったのか、という疑問が湧いた。彼女はことあるごとに、『家が嫌いだ』『親が嫌いだ』と呟いていたからだ。しかし、それは聞いてはいけないことなのだ。マドティでの暗黙の了解のように。
「でもさ? 普通ってなんだろうね?」
ユイにそう言われて、ライカは空を睨んだ。確かに "普通" というのはどういうものなんだろうか。自分にとっての普通は誰かにとっては普通ではないかもしれない。そう思うと何だかよく分からなくなってくる。
「とか言ったけどさあ。人殺しとかじゃなければいっかな、あたしは」
「また……ずいぶんとぶっ飛んだ話で」
「そんなことより来夏、ちょっと突然だけど、言いたいことがあるの」
「ユイの話が突然じゃないことなんか、あったっけ?」
「言いたいことがあるの!!」
ユイの話を最後まで聞かずに話し始めると、彼女はいつだって怒るのだ。酷い話だ、そう思いつつ、ライカは笑いそうになってしまう。
「なに? その酸っぱいもの食べたみたいな顔。真面目に聞いて」
「酸っぱいのか……」
笑いをこらえた自分がそんな表情になるとは知りもしなかった。知ったところで何かの役に立つとも思えなかった。