8.シェルター(2)
あれは、現実ではなかった気がする。まるで白昼夢のようだったのだ。その中に、誰かがいたような、何かを言われたような、しかしその向こう側を見ようとすると、何だか気分が悪い。
もしもあれが本当に夢ならば、たとえぼんやりとしていたとしても、内容は覚えているはずなのに。ライカはそういう体質で、今までもほとんど、夢を忘れることはなかったのだ。それなのに、今回は何も思い出せない。
──きっと、夢じゃない──
頭痛がどんどん酷くなる。頭蓋骨を直接殴られているかのようだった。「蝉の鳴き声がうるさいから窓を閉めて欲しい」と瑠衣に言いかけたが、どうもその音の正体は蝉ではなく、耳鳴りのようだった。
カンカンカンカン──と、どんどん音は大きくなる。
「……んだよこれ……うるせぇ……」
──違う。これは、遮断機の音だ──
そう気付いた瞬間、突然に声が聞こえた。
あれは、はっきりと、自分に向けられた言葉だ。
『お前なんて、死ねばいい』
ぞっとするほどの声色──誰かの言葉がすぐ側で聞こえた気がして、グッときつく目を閉じる。しかし、耳の奥でその言葉と遮断機の音がわんわんと鳴り響いていつまでも消えなかった。ここに男はいない。
分かっていても、男の声が何度も同じことを言う。耳がおかしい。いや、耳というよりは頭の方だ。頭が変なのだ、と思う。痛い、辛い、苦しい。様々な感情が身体中をぐるぐると回る。
もう限界だ、と呻いたライカは突然、踏切の脇で遮断機の棒に身体が当たるほど強く押された。轟音と共に、顔のすぐ前を電車が走っていく──そんな情景が一瞬見えた。
「なん……で……」
何重にもかけられたレースのカーテンを引いたように、抜け落ちていた記憶が、するりと目の前に現れた。
あのとき、後ろで笑っていた男は、曲がりなりにも保護者のはずだった。父親がどこかに消え、母も死んだライカの引き取り手は、母方のよく知らない親戚しかいなかったのだ。あの "おじさん" は最初から、氷のような目をしていた。上っ面だけの優しい言葉は恐怖でしかなかった。それを察知していたライカが気に食わなかったに違いない。そんな記憶の欠片がライカの頭の中を駆け巡った。どれが本当なのか、全部間違いなのか。
しかし、あれ以降──死ねと言われてから、自分は生きていてはいけないのだと、漠然と思っていた、それだけは本当だった。そして、もう守ってくれる大人は存在しないのだ、とあの頃に悟ったのだ。
――そうだ――
男は突然に、火が点いたように怒り始めることがあった。だから、出来るだけ目立たぬように、彼の機嫌を損ねないように、部屋の隅っこで過ごした。
学校の給食が、唯一何も恐れずに腹を満たせる食事だった。
どんなに気配を消しても、邪魔だと言われた。
眠ることすら恐ろしかった。今日が早く終わって欲しいと願った。
明日もそれを繰り返すのだと分かっていても──。
「ライカってば!!」
肩を揺さぶられて、ハッと我に返る。目の前にあるその顔が瑠衣だと気付くまで、どれくらい時間が経ったのだろうか。ライカは彼女を手を振り払うと、タオルケットを頭から被って丸くなる。
自分の知っている "おじさん" は、あの男だ。それは間違いない、とライカは思う。だから嫌いだったのだ。殴りかかられたとき、反射神経で避けてしまえばもっと強く殴られた。それが理不尽だということすら、幼いライカには分からなかった。
枕をわし掴んで耳を塞ぐ。何も聞きたくなかった。触れられるのも寒気がした。
ここには瑠衣しかいない。それは分かっている。彼女が呼んでいるのは聞こえたが、しかしライカは返事が出来ない。忘れていた恐怖が、彼を支配しているのだ。
「…………ねぇ」
枕が少しだけ引き剥がされて、脳天気な声がライカの耳にはっきり入る。うるせぇ、と思うのに、なぜか少しだけ安心する。汗ばんだ手のひらにチェーンが貼り付いて、鬱陶しい。捨ててしまいたいと強く思う。
――こんなものを、いつまでも持っているから――
――いらないんだよ、思い出なんか――
「役にも立たねぇのに……」
口の中で呟くが、ライカの腕は動かなかった。結局捨てることなど出来ないのだ。思い出なんかいらない、などと思ったが、記憶にない思い出なんてものは存在するのだろうか。とはいえ、全く記憶がないわけではなかった。父と母は仲が良く、よく笑った。楽しく過ごしていたことは、ぼんやり覚えている。
だが、それが正しい思い出なのかどうかすら、疑わしかった。一体、自分は両親の何を知っているというのだろう。
己という存在すら本物なのか、信用が出来ないほどなのに。
「もしもし!?」
瑠衣の大きな声とともに、枕が完全に奪い取られてしまった。ライカは眉間にしわを寄せたまま、不安げな彼女を見上げる。しつこい女だと思う。
「ああ……生きてた……。全然動かなくなったから、死んじゃったかと……」
それほど時間が経った感覚はないライカだったが、不安げな彼女の様子からして一瞬意識がなくなっていたのかもしれない、と思う。
「……悪かったね、生きてて」
「そんなこと、言ってないでしょう?!」
思わず出てしまった憎まれ口に憤慨した瑠衣が勢いに任せて枕を振り下ろし、それは顔面を直撃して転がっていく。痛くはなかったが、少し驚いてライカは目を開いた。憔悴したように呟いた瑠衣は、ため息をついて「……怖いじゃないの」と、ライカから目をそらした。
剥がれかけた彼女の目尻のアイメイクが、黒く滲んでいる。何だかピエロみたいだ、とライカは思う。
「ごめんね。映画なんか、行かなきゃよかった……」
突然に、思いもよらなかったことを瑠衣が言う。ごめんなどと言われても、ライカは困ってしまう。謝らなければならないのは、彼女ではないからだった。
「ごめんって、おかしくない……? おれがの方が、ごめん……じゃん」
呟いても、瑠衣は視線を合わせなかった。思い返してみれば、彼女はいつもライカの目を見ていた。どんなに無視をしても、淡泊な返事をしても、瑠衣はライカと会話をしようとしていた。
その瑠衣がこちらを見ないのは、明らかに自分のせいだと不安になっている自分に気付く。これまで、こんなことはなかったのに。去って行く人間を、死んだような目で見送るだけだった彼だが、寂しいと思っているのだ。彼女に失望されることを。
「……ごめん、なさい。こんな……変になるなんて、おれも思ってなかったんだ」
「私が謝ってるんだけど、なんで謝るの?」
「……おれが謝ってるんだよ」
噛み合わない会話に、ふたりは困惑の色を浮かべる。どうやら瑠衣は、本当に自分が悪いと思っているようだった。
「……お人好し」
「もういいから、寝なよ。顔が怖いって言ってるじゃない」
「だから……普通にしてるだけなんだって」
映画からの帰り道で言われたことを思い出して、同じ言葉を繰り返す。ライカは本当に、顔を怖くしようと思っているわけではなかったのだ。「怖いとか言われても、困る」と付け足すと、瑠衣は、返事の代わりなのか、恐る恐るといった風にライカの髪を撫でる。何だか気持ちがよくて、彼はずっとこうしていて欲しいと思う。
「おれ……楽しかったんだけどな、映画」
瑠衣を勘違いさせたままでいたくなかった。楽しかったのは本当だ。いつだってひとりで部屋でじっとしていることが多かった。誰かと外で映画を観るなんて初めてだったのだ。
もっと何か言いたいと思い口を動かそうとしたライカだが、突然やってきた眠気から、意識がぐらついて自分でも何を言いたいのか分からない有り様だった。
このままずっとこの安心出来る場所で眠っていたい。目を覚ますこともなく、眠り続けたい。そんな馬鹿げたことを頭の片隅で考えながら、ライカはいつの間にか眠ってしまった。