8.シェルター(1)
帰りの道中、ずっと瑠衣に腕を掴まれていた。足下がぐらぐらしていて、ちゃんと歩いているつもりでも、よろけたりしていたようだった。急に頭がおかしくなったような感覚に、ライカは襲われている。
ふっと我に返ったときには、瑠衣にひっぱたかれ、地面に転がされていた。何がどうしてそうなったのか、ライカ自身にも説明が出来ない。ただひとつ分かるのは、部分的に頭に残っている映像から "自分が遮断機の下りた踏切から動こうとしなかった" ということだけだった。
とにかく、汗だくで気持ちが悪かった。だからシャワーを浴びたライカだったが、すっきりしたのと引き替えに、余計に気分が悪くなってしまった。彼は心から失敗した、と後悔していた。
「やだ! 頭びしょ濡れじゃないの! それで拭いたつもり?」
「え……」
いつもの場所に座り込んだところで、頭上から声が振ってくる。顔を上げると、厳しい顔をした瑠衣にタオルで頭を掴まれ、ガシガシと髪を拭かれる。
視界がグラグラしているライカは、その情け容赦ないその攻撃に、ぎゅっと目を伏せた。しかしそれを悟られたくない彼は、必死で何でもない振りをする。
「ちゃんと拭いたって。いってぇ! 痛ぇよ、ハゲる!」
「ハゲないよアホ。なんでそんなに毛根弱いのよ、若いくせに」
「将来、ハゲるんじゃない? ちょっと……自分でやるよ。いや、離してって」
「任せられませーん。私の布団が濡れちゃうもん」
「……瑠衣の布団、関係ないじゃん」
「あるよ。今日は布団で寝なさい」
散々にもみくちゃにされて、もつれた髪を両手で後ろに流した彼の目に、ドライヤーを持った瑠衣が映り込む。「もう充分」と呟いて逃げようとした彼の腕を、瑠衣が掴んだ。
「そんな酷い顔色のきみを、床で寝かせられない」
彼女の目は揺るぎなかった。面倒くさくなって目をそらすと、ドライヤーのスイッチが入り、ぶぉお、という音と共にドライヤーの温風がもろに顔に当たる。
「熱いんですが!」
以前のやり取りを思い出して、ライカはドライヤーに勝てるであろう大きめの声のまま「そこ、髪じゃない」と告げる。
「あれ?」と首を傾げた瑠衣はドライヤーをよけて彼の顔の位置を確認し、照れたように笑う。
「ごめん、ズレてた?」
「目玉に熱風浴びたの、初めてなんですけど」
「髪が長すぎるのよ。どこが顔かわからないじゃないの」
「……そういえば髪の毛、全然切ってないや」
その声は、瑠衣には届かなかったようで返事はない。ライカはどうでもよくなってきて、そのまま黙り込んだ。本当は、すぐにでも眠りたかった。眠いのとは何か違う気もしたが、とにかく静かにしていたかった。
「本当、髪伸びすぎね。切ってあげようか?」
瑠衣の言葉と共に、唸っていたドライヤーが沈黙する。確かにライカの髪は伸びきっていた。邪魔すぎて、瑠衣のヘアゴムを借りて、頭頂部で結わえることもあるほどだった。
「専用のハサミセット、去年買ったのよ。前髪を短くすることにしたから。せっかくセットにしたのに、一本しか使わないのよね。どうせなら他人の髪で試したいわ」
「瑠衣って……前髪長かったことあんの?」
「あるわよ。というより、ずっと長かったのよ? これくらいだった」
そう言って、まぶた辺りで人差し指を横にした瑠衣は、懐かしそうにふっと笑って「みんな『短い方がいい』って言うのよね」と言う。
初めからその短い方を見慣れているライカには、前髪が長い、という話はピンとこなかった。
「ずいぶん差があるじゃん。その、"これくらい" と、今と」
「手が滑ってねぇ……」
「その滑る手に髪切ってもらうの、怖ぇよ」
「いいじゃないの男は。失敗したら丸坊主っていう選択肢があるもの」
「……ひでぇな。なんのために伸ばしてんだよ、おれ」
「ん? 伸ばしたい理由があるの?」
ライカはちらりと瑠衣を見ると、また余計なことを言ってしまった、と内心思いながら目を伏せる。
どうも最近、要らないことばかりが口から漏れてしまう。
「……って、そんなの明日! とりあえず寝て。布団貸すから。具合悪いの、自覚しなさいよ」
促されて仕方なく布団に這っていき、横になる。ここのところ、ほぼ床の毛布の上で寝ていたせいで、そこは特別にふわふわに思えた。
瑠衣の布団に何となく寝転ぶことはあっても、ぐっすり眠るのは悪いと思い、彼女が不在のときでも避けていた。
「……布団だ。すげぇ、布団」
「たかが布団に感動するくらいなら、もうその布団あげようか」
「……瑠衣ってさ」
何でもないことのように告げる彼女に、ライカは思わず声を漏らした。一瞬、間を置くが、前々から思っていたことを言ってしまうことにした。
「瑠衣って、人が好すぎやしない?」
「……はは」
「笑いごとじゃなくて。損してない? それ」
「……ははは」
「それしか言えねぇのかよ」
「口は元気よね……」
「……おれ、なにもかもが元気だよ」
「ウソつきなさいよ……。本当にね、一歩間違ってたら死んでたわよ、あれ」
彼女が言う "あれ" が、先ほど踏切での出来事だと気付き、ライカはしまったと密かに顔をしかめる。
「ねぇ……。あれ、なんだったの?」
瑠衣の問いかけに答えずに寝返りを打つと、こちらを見ていたらしい彼女のため息が聞こえる。立ち去るふたつの踝を見送りながら、ライカは何とも言えない気持ちになる。何かを伝えたいとは思うが、どう言ったらいいのかが分からないのだ。
まぶたを開くと、タンスの上のレターケースを掻き回している瑠衣の後ろ姿か目に入った。何かを探しているように見えるその背中に向かって、ライカは語りかける。
「なんか、怒ってるよね」
「怒ってないわよ。……ただ、呆れてはいるわね」
怒ってない、というのは嘘だ、とライカは静かに思う。瑠衣の表情や声色はいつだってとても正直で、見ていれば大概の感情は透けて見えた。
彼女がなぜ怒っているのか、考え続けていたライカはやっと気が付いた。危険な目に遭ったのは自分だけではないということに。少しタイミングがずれていたのなら、瑠衣も巻き込んでいた。
「わざとじゃ、ない……と思う。だけど、危ない目に遭わせちゃってごめん」
「……なに言ってるのよ、そういうことじゃないわ」
その返事が意外だったライカは、目を丸くする。恐らく表情はそうはなっていないであろうが、彼はそういう気持ちになる。
「あのね、私が人が好すぎるっていうんなら……ライカは自分に優しくなさすぎると思う」
「……は?」
「あのね? 『は?』じゃないでしょ! 何でもかんでも他人ごとみたいに! 私が行かなかったらどうなってたと思ってるの?」
眉を釣り上げた瑠衣は、乱暴に引き出しをしまうと、ライカに歩み寄る。反射的に "殴られる" と思った彼は頭を抱える。
「これだって、大事なものなのに、諦めようとしたでしょ? あんな他人ごとみたいな言い方して」
思っていたよりも優しい声が降ってきて、腕を解いて片目を開けると、ライカの指輪がボールチェーンに通され、差し出されていた。
起き上がって、膝をついている瑠衣を見上げると、いつもと同じように、控えめな笑顔がそこにある。なぜ、この瑠衣に対して "殴られる" などと思ってしまったのか、とライカは頭痛なのか痛み始めたこめかみを押しながら、密かに首を傾げる。
「私が持ってるものの中で一番丈夫そうなのに付けたわよ。多分これならそう簡単には切れないと思う」
「……わざわざ?」
「大事なんでしょ?? だからね、簡単に諦めるの、やめなさい」
「……うん」
「どうせ最初から感じ悪いんだから、その感じの悪さを貫きなさいよ」
ライカは無言で頷く。瑠衣から指輪をチェーンごと受け取ると、そのまま見下ろした。ぎゅっと握りしめると、金属が擦れる音がする。
「ねぇ……ライカ。きみ、死ぬところだったのよ。わかってる?」
「……うん」
「わかってるのね……」
ライカも分かってはいるのだ。あのとき、どれくらいの時間ぼんやりしていたのだろう、とライカは考える。