踏み外した気持ち
「バイセクシャル」
男性と女性いずれの性に対しても性的な魅力を感じる性的指向を持つ人。
またそういうライフスタイルを送ること。
両性愛者。
入社してもう10年以上。
若い女性スタッフが多いこの職場で、ついに“お局”にまで上り詰めてしまった。
それでも新人指導は性に合っていたらしく、やり甲斐も感じていた。
「若い子に飲ミニケーションは死語」なんて言われるこのご時世に、
後輩達から飲みに誘われてそれはそれは舞い上がった。
それがこの恋の始まり。
うちの事務所は少人数で、1人1人の責任が重いのが難点だけど、
その分スタッフ同士の連携が必須なので、コミュニケーションも多い。
入社当初は大きなプロジェクトが終わる度に、よく同期と飲みに行ってたけど、
その同期達も結婚だなんだと次々に辞めていった。
ここ数年は10歳近く離れた後輩達飲みに誘うのもなんだか気が引けて、
1人行き慣れた居酒屋で仕事の鬱憤を晴らすのが日常になりつつある。
「南先輩、聞いてくださいよ〜。
この間大川さんと飲みに行ったらめちゃくちゃペース早いんですよー。
でも大川さん飲み過ぎでその日の記憶無いらしくて」
「でもちゃんと家には自力で帰りましたよ!
片桐さんこそ、帰りタクシー乗る前、吐きそうになってたでしょー!」
昼休みの後輩達の会話はいつもテンション高めで、やや気後れしてしまう。
記憶無くすまで飲むなんて何年も前に卒業した自分には、
彼女達の若さがちょっとだけ羨ましかった。
「南先輩ってお酒強そうですよね。今度飲み行きましょうよ!」
「じゃあその時は幹事は片桐さんがやってね。」
きっといつもの社交辞令…かと思いきや、
あっという間に皆のスケジュールが纏められ、
次の週末にはちょっとした女子会が催されることが決まった。
今まで誘うタイミングを逃していた新人さん達も集まって、
とりあえず都合のつく6人で、居酒屋に飲みに行くことに。
職場メンバーで飲みに行くなんて数年ぶりで、
しかも年下ばかりだから話合うかな…なんて変に緊張してたけど、
でもやっぱり楽しみが勝って、前日の夜は年甲斐もなく
テンションが上がって寝付けなかった。
飲み会当日は非番のスタッフもいたので、
いつもの仕事着とは明らかに違う後輩達が揃っていた。
ショート丈の可愛らしい装飾が施されたジャケット
歩くたびにふわふわと揺れるスカンツ
いつもより高めのヒール
シンプルながらも存在感のあるアクセサリー
それらを纏った姿は、まだ彼女達が“女子”である事を再認識させた。
「「「カンパーイ!!!」」」
それからは思い思いに趣味の話や上司の愚痴などで花を咲かせ、
気づけば全員どんどんお酒が進んでいた。
「太田さんグラス空いてるよー、次何飲む?」
「カシオレかなぁ、谷さんは?」
「この期間限定のカクテル飲んでみようかな。」
(…カクテルなんてここ数年飲んでないなぁ。)
幼馴染とも頻繁に飲みには行くけど、ビールか日本酒が最近は飲みやすく感じる。
甘いのを飲むと悪酔いしやすい気がして、
量を飲んで飲まれて、酔って忘れてしまいたいことが増えたからかもしれない。
「南先輩は何にします?」
「私熱燗同じので。」
「先輩やっぱりお酒強いじゃないですかー。」
「皆より飲んで無いだけだよ。井上さんは大丈夫?お茶かお水頼む?」
「カルアミルクにします。」
「「「可愛い〜〜〜」」」
「ッッ別なのにします!!」
井上さんは今日のメンバーの中では最年少で、職場でも可愛がられている。
いつもクールで入社時は掴み所の無い印象だったが、
仕事もソツなくこなすので、最近では同僚達とも仲良くしているみたい。
ベリーショートの髪やボーイッシュなファッションだから、
女ばかりの職場では弟のようなポジションでもあるのかもしれない。
(お酒入ると仕事中とは違う顔見えるのは皆もだけど、
井上さんは普段表情に出さない分、こういう必死な感じは新鮮だなぁ。)
そんな姿をふと可愛いと感じてしまったのは、きっと10コも歳下なせいだろう。
私もいよいよおばさんになったもんだ…
酔った頭で必死によぎった感情を隠す。
(この気持ちだけは気づいちゃいけない。)
可愛いなんて皆も言ってることだし、特別な意味なんてない。
(昔あれだけ後悔したことをもう忘れたの。)
きっと酔いすぎて思考回路が短絡的になってるだけ。
(職場の子達にこれを知られるのだけは避けないと。)
でもこの感情を私は知ってる。
30過ぎて大人になれたなんて錯覚をして、
こんなにも簡単に、足を踏み外したような感覚になるとは思ってもみなかった。
私がバイである事は、もう2度と口にしないって決めたんだから。