2 お局様、悪役令嬢として転生する。
――あー、あのときやっぱり死んだんだな……
と、痛む頭を抱えながらベッドの上で遠い目をするのは、侯爵家令嬢セレーネ。
実は、玲子が生まれ変わった姿である。
これまでセレーネは、蝶よ花よと育てられてきた。
そして4歳の誕生日の今日、トイレですっ転んで頭を打ったのである。
もちろん、トイレの床には水がこぼれていた。
前世と同じところに因縁を感じざるを得ない。
目覚めると、自分がいるのは豪華な天蓋付のベッド。来ているのはヒラヒッラのネグリジェ。自分の身体はふくふくとした子供のもの。
そして、それらを認めた次の瞬間、斉藤玲子としての記憶が一気になだれ込んできたのである。
あまりの情報量にクラクラしつつも、セレーネは理解した。斉藤玲子はあのとき死に、そしてセレーネとして生まれ変わったのだと。
セレーネが生まれ育ったここは、ヴィクトリア侯爵家。この大陸で大きな権勢を誇るルネッサンス公国のなかでも、五指に入る名家である。
そのヴィクトリア家で、セレーネはたったひとりの女の子として、両親にも二人の兄にも可愛がられてきた。
こうして出来上がるのが、ちょっぴり我が儘で、実家の権力を自分の力だと勘違いする悪役令嬢セレーネである。
そう、悪役令嬢なのである。
玲子の記憶を引き継いだセレーネは、自分が、乙女ゲーム「魅惑の学園 ~平民乙女の夢物語~」に登場する悪役令嬢だということも思い出していた。
玲子は仕事で荒んだ仕事を乙女ゲームで癒していた。もちろん、そんなことは誰にも言えないので、玲子だけの秘密である。
なにせ乙女ゲームに登場する攻略対象たちは、ヒロインが頑張れば頑張るほど認めてくれる。努力が無になることなどないのである。会社で報われない日々を送る玲子がのめり込むのも無理はない。
「魅惑の学園 ~平民乙女の夢物語~」はその名のとおり、平民であるヒロインが、実は男爵家の落としだねであることが発覚。貴族たちだけが通える「貴族学園」に入学して、エリートイケメンと恋に落ちるという乙女ゲームである。
その中に出てくるセレーネは、攻略対象のひとり、王太子の婚約者である。
ヒロインが王太子と仲良くなると、セレーネは乙女ゲームのお約束として、嫌がらせをしてくる。嫌味を言い、ヒロインの教科書を投げ捨て、ドレスに紅茶をひっかける。
とまあ、テンプレのいじめを繰り返すのだが、なんとそれがバレてしまい、王太子に婚約破棄をつきつけられるのである。それもまたテンプレである。
その上、実家も、他国に情報を流し、不正な貿易で私腹を肥やしていたとして断罪。こうして一家離散で、ボロボロとなるのであった。
こうして改めて考えると、実家の件はともかく、セレーネがおこなっていたのは、ずいぶんと可愛い嫌がらせである。
前世で女たちの悪質ないじめを見てきた玲子からすれば、お子様の悪戯同然。その程度で王家と侯爵家との取り決めである婚約を破棄するとは恐ろしい。
セレーネは思わずぶるっと身体を震わせた。
そのとき、セレーネの部屋のドアが小さくノックされた。
セレーネが応えようか悩んでいると、ゆっくりと扉が開く。
おそらくセレーネがまだ寝ているかもしれないと懸念しているのだろう。
入ってきたのは、セレーネの乳母のアンナだった。
アンナはセレーネが起きているのに気付くと、ほっとしたように表情を緩ませた。
「セレーネお嬢様! お気づきになられたのですね! ああっ、良かった」
ふっくらとした身体を揺らしながら、急ぎ足でセレーネのもとへとやってくる。目には涙が浮かんでいた。
「化粧室で倒れられて意識を失われたと聞いて、アンナは気が気じゃありませんでした! お医者様が、頭を打ったのだろうとおっしゃって……いったい何があったのですか!?」
勢いよく言いながらも、それとは真逆のゆっくりとした動きで、そうっとセレーネの頭をなでる。心配げな瞳とその優しい手つきにアンナの愛情を感じて、セレーネはほっこりとした。
「しんぱいをかけて、ごめんなさい、アンナ。ゆかがぬれていることにきがつかなくて、ころんでしまったの」
「まあ! なんていうことでしょう! それでドレスも濡れていらっしゃったんですね。もしかしたらそのせいで転ばれたのかもしれないとは思っていましたが……今日の化粧室の掃除係は、侍女のユーナね。あの子、いつも仕事がいい加減で……」
アンナが憤慨したように声を荒らげる。
掃除係の名前を聞いて、セレーネは小さく首をかしげた。
いまだ混乱している頭の中からユーナの情報を引っ張り出す。
ユーナはまだ若い侍女で、いつも仕事がいい加減だ。化粧室に水がこぼれていたり、浴室に汚れが残っていたりはしょっちゅうで、時にはティーカップを割ったり、セレーネの私物を傷つけたりもする。
それが発覚すると、いつも涙ながらに一生懸命謝罪をするので、セレーネはこれまでそれを咎めもせずに許したり、「自分が壊してしまった」と庇ったりしてきたのだけれど……
ちょうどその時、ノックの音とともにドアが開いた。
さっきアンナが入ってきたとは異なり、なんのためらいもないドアの開けっぷりである。
入ってきたのは、ユーナ。
水差しとコップの載ったトレイを持った彼女は、アンナとセレーネが自分を見ていることに気が付いて、ぎょっとしたように足を止めた。
どうやら部屋にはアンナがいるとも、セレーネが起きているとも思わなかったらしい。
「なんです、ユーナ! こちらの返答も待たずに勝手に入ってきて!」
「も、申し訳ありません!」
ユーナが深々と頭を下げる。
「セレーネ様がまだお休みになられているかと思いまして!」
ならばもう少し静かに入ってきていただきたい。
アンナもそう思ったのか、ただでさえ吊り上っていたまなじりを、ますます吊り上げる。眉間に刻まれた皺も深い。
「ちょうどいいわ、ユーナ。あなた、今日の化粧室の掃除当番ね」
アンナが厳かに言った。
「あなた、いい加減な掃除をして水をこぼしたままにしていたわね。お嬢様に何かあったらどうするの!? こうして意識を取り戻されたからよかったものの、打ち所が悪かったら大変なことになるのよ!」
まったくだ。何といっても前世では命を落としている。
深くうなずくセレーネには気が付かず、アンナはますます語気を荒らげる。
「あなたはいつもいい加減な仕事ばかり! 化粧室に水が零れていることもしょっちゅうじゃないの! なんど注意したと思っているの!?」
ユーナはトレイを近くのテーブルに置くと、頭を膝につけんばかりに深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません! ちゃんと拭いたつもりだったのに、こぼれていたなんて! 本当に本当に申し訳ありません! セレーネお嬢様、お許しください」
ユーナが涙声になって謝り倒す。そして縋るように、セレーネを上目づかいで見つめてきた。
これまでのセレーネならば、ユーナの涙声にほだされ「いいのよ、これからはきをつけてね」と許していただろう。
だが、今のセレーネには、玲子の記憶と知識がある。
だからわかってしまった。ユーナが、あの「可愛いOLさん」と同じ手練手管をもっていることを。
――この子、セレーネのことを甘く見てる。こうすれば許されると高をくくってるんだわ。
これが一度目ならば許しただろう。
だが、ユーナは同じことをなんども繰り返しているのだ。それはつまり反省していないということだ。
「ユーナ」
やさしい声で、彼女の名を呼ぶ。おそらく許されたと思ったのだろう、ユーナがパッと顔を輝かせた。そのわざとらしいまでの表情の変化に、イラッとする。
「あなた、おそうじのことでちゅういされたの、なんどめかしら? ごめんなさい、わたくし、おもいだせなくて。こんかいでなんどめか、おしえてくださる?」
そう、今こそ前世で手に入れたお局様の嫌味スキルを生かすべき時である。