1 お局様、さみしい生涯を閉じる。
玲子は、トイレの個室で歯ぎしりをしていた。
先ほどまで吐いていたので、口の中が微妙にくさい。
だが、そんなこと気にならないほどの怒りが込み上げてくる。
斉藤玲子、35歳。
とある商社の経理部に所属する彼女は、自他ともに認めるお局様である。
若くて初々しいOLが書類を提出してくれば粗を探してやり直しを命じ、就業時間を過ぎてまだ更衣室で鏡を眺めている子がいれば、「あなた、化粧ばかりに力を入れないで、さっさと仕事してくれる? いくら可愛くたって、経費計算は進んでくれないのよ?」と嫌味を言う。
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「あのオバサン、マジ勘弁。いくら自分が男日照りだからって、若い子にあたるのやめてほしいよね」
「まあまあ、ヒスババアは、若い子に八つ当たりをするぐらいしか楽しみがないんでしょ。いいじゃんか、あのババアが叫べば叫ぶだけ、男たちが同情してくれるんだからさ」
「そうそう、私らが『斉藤さん、自分の仕事を私たちに押し付けてくるんですぅ』って言っただけで、男連中が義侠心に駆られて、私らの仕事をあのオバサンにふってくれるんだからさ。オバサン、自分の首絞めてることに全然気が付いてないよ。自ら男を遠ざけちゃって、バッカだよねぇ」
化粧直しをしながら声高に話す若いOLたちに、玲子は怒りが抑えきれない。
ここ最近、やけに与えられる仕事が多く、玲子は日々終電を逃してまで残業をしていた。だましだましやってきたが、さすがに体調不良が著しい。
今も急な吐き気に襲われてトイレに駆け込んだところだ。
胃液しか吐くものがない状況で、ぜいぜいとしながら息を整えていたら、彼女たちが化粧室に入ってきたのである。
なぜ女性は、トイレで秘密話をするのか。
どうして個室のドアが閉まっているのに、そこに本人がいるかもしれない、と思えないのか。
――いや、そもそも、なぜあなたたちは帰る準備をしているの!? 今日提出の書類、まだ終わっていないでしょうが!
だが、今の話を聞いてわかった。
おそらく玲子がフロアに戻ると、男どもが「この仕事も頼むよ」と彼女たちの仕事を押し付けてくるのだろう。
玲子は肩の力を抜くと、諦めたように深々と溜息をついた。
玲子だって、別にやりたくてお局様をやっているわけではない。
けれど、この会社で、「おとなしい真面目な子」をしていたら、損をするだけなのだ。
若いころは玲子もお局様を苦手としていた。
チェックはひどく厳しいし、普通に注意をすればいいところを何故か嫌味とセットで戻してくる。雑談はしないし、目線も冷たい。
だが、ある日、気づいたのだ。お局様は何も間違ったことはしていない、と。
そのころ、玲子が真面目に仕上げた仕事が、いつのまにか他の女の子の手柄になるという事態が頻発していた。その子はふわふわとしていて、化粧がうまくて、甘え上手で――まあ、いうなれば男性受けのいい子だった。ちなみに彼女は仕事を全然やっていない。
玲子が、「それは私がやりました」と言っても、みんな「人の手柄を取るなんて最低だな」と言ってきた。
またある時は、その子がやった失敗が、いつの間にか玲子のせいになっていた。
「私は関わっていません」と言ったら、「無責任だ」と言われた。
それじゃあ、誰もが文句を言えない証拠を見せようと、自分がやった仕事のプロセスを明示し、自分が作ったことを証明したら、「さもしいやつだな」と言われた。
どんなに自分が頑張っても、誰も認めてくれないんだ――そう思った玲子を救ってくれたのは、苦手だったお局様だった。
ザマース眼鏡をキラリと光らせ、お局様はあきれたように言った。
「あなた、馬鹿ね。もっと要領よくやりなさい。仕事なんて適当にやって愛想ばっかふりまいている人間が勝つのよ。真面目にやったって要領がいい子にはかなわないんだから。愛想をふりまくことも、仕事で手を抜くこともできないなら、誰もが無視できないぐらいの戦力になって、それを誇示しなさい」
確かにお局様は、仕事がよくできた。どんなに嫌味なことを言っても、どんなに若い子に辛くあたっても、誰も彼女を無視することはできなかった。
そんなことをしてボイコットされれば、自分たちの仕事が回らなくなると、皆わかっていたのだ。
もし、お局様が大人しくしていたら、おそらく皆にいいように使いまわされて終わりだっただろう。
だから彼女は己を誇示するのだ。嫌味を言い、敵に回すと厄介な存在だと示す。その嫌味ですらも、決して間違ったことを言っているわけではないのだけれど。
お局様にそういわれたとき、玲子はすでに20代後半だった。今更愛想を振りまいても遅い。かといって、仕事に手を抜くのは、性格的に許せなかった。
ならば、玲子が目指す道はお局様のみ――
そう思いこれまでやってきたけれど……
詰めが甘かったようだ。おそらくやり方が半端なせいで、下の子に舐められている。というか、やはり要領のいい子たちには勝てないのだろうか。
とはいえ、このまま黙っていては女が廃る。
玲子は立ち上がると、トイレの水を流した。
扉を開けて颯爽と足を踏み出す。
さっきまで嘔吐で息も絶え絶えだったことは演技で隠しきる。
もちろん手は腰に当ててある。
どこから見ても嫌味なお局様である。
「ずいぶんと楽しそうなお話ね」
カツンと鳴るハイヒール。
甲高い声で話していた子たちが、ぎょっとしたように振り向く。
玲子は嫌味ったらしく口角を上げ、彼女たちを睥睨した。
「もう少し詳しく聞かせてくれるかし…………らぁっ!?」
さらに大きく一歩を踏み出した瞬間、足がずるりと滑った。
どうやら床が濡れていたようだ。
ものすごい勢いで身体が傾いていく。
彼女たちが目を見開いているのが見えた。
――あ、これ頭を打つ。
ゴンッという音が全身に響き渡ったのを最後に、玲子は35年の生涯を閉じた。