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名前のない怪物  作者: 黒木京也
エピローグ 名前のない怪物
98/221

最終話.永い前日譚の行方

「いや、おかしいだろ。何で彗星が急に爆散するんだよ」

 休憩時間。警察署に常備されているインスタントコーヒーを啜りながら、小野大輔は呆れ果てたかのようにため息をついた。

 ワンセグテレビには、一週間前。件のミハイル彗星が大気中で爆散したと報じられていた。彗星が途中で砕ける事は珍しくないが、あれだけ非常識な動きをしていた彗星である。その突然の消失には、専門家も首をかしげるばかりとの事だった。

「出現してから、四ヶ月位ですか? 大晦日も元気に飛び回ってましたからねぇ……」

 大輔のワンセグテレビを横から覗き込むようにして、同僚の女刑事、雪代(ゆきしろ)弥生(やよい)がのんびりとした口調で言う。屋上の喫煙所には二人以外の人影はない。

 これ幸いと言わんばかりに無駄に接近してくる弥生を手で押し退けつつ、大輔は額を指でほぐした。

 星の声。英明はそう言っていた。一体それがなんなのか。大輔には皆目検討がつかない。そもそも、当の英明が、二月前の一騒動から、行方不明なので、聞きようもない。レイや汐里も恐らく聞こえているのだろうが、英明と同様に、レイも汐里も姿を眩ましていた。動向も近況も、まるで分からない。

「ま、伝えるわけにはいかないか」

 残ったコーヒーを一気に飲み下しながら、大輔は一人納得する。表向きでは、目立った騒ぎはない。

 だが、水面下で各地の財団や企業が、こぞって不穏な動きを見せている事を、大輔は知っていた。信頼できる筋からの情報だから、それは間違いない。具体的には不自然な人材の抜擢。特に生物関連の学位を持つものを積極的にスカウトしているとの話だ。

 恐らくは、レイや汐里の確保を狙っているのだろう。英明の流した情報は、次々と広範囲に伝播していってるらしい。

 怪物の力を悪用する方法など、ゲスな連中ならいくらでも思い付きそうなものだ。だからこそ、レイは行き先を告げずに姿を消したのだろう。

「警部? 警部~? おーい」

「んぁ? 何だ急に?」

 思案の渦に沈んでいると、不意に白くて細い指が、何度も

目の前を行き来していた。

「あ、やっとこっち見てくれましたね。さて。そんな警部に問題です。今日は何の日でしょうか?」

「……あぁ、バレンタインか」

 少し考えてから、大輔は興味なさげに頷いた。妙に街が活気づいていると思ったが、そういったからくりらしかった。

「そのとおり! と、言うわけで、どうぞどうぞ~」

 にこやかに渡されたチョコレートを渋い顔で受け取りながら、大輔はチョコレートと弥生の顔を見比べる。

「変なもん、盛ってないだろうな」

「警部。凄い失礼です」

「冗談だよ。ありがとな」

 その手がありましたねぇ……なんて冗談を言いだした弥生にお礼を言うと、大輔は可愛らしくラッピングされたチョコレートを、スーツのポケットにしまい込む。

 弥生はそれをしっかり見届けてから、「あ、御返しは〝アトラク・ナクア〟のブラウスでお願いしまーす」などと宣いながら、そそくさと屋上を出ていってしまった。喫煙所完備のそこには、煙草をふかす大輔だけが残される。

 紫煙を燻らせながら、大輔は疲れたように肩を竦めた。こうして三倍返しを笑顔で要求してくる辺り、女は怖い。そう思いながら大輔は煙草の吸い殻を灰皿に落とす。

「そういやアトラク……何だ?」

「〝アトラク・ナクア〟つい最近突然出来た、洋服のブランドですよ。因みにネット通販のみです」

「成る程ね。チョコのお返しが服か。女ってのはなんでこう無茶ぶりが過ぎる……の、か」

 たっぷり数十秒硬直してから、大輔は油の切れたロボットのように真横へと視線を向ける。

 聞き覚えのある、鈴を鳴らしたかのような声。唐沢汐里が、そこに座っていた。

「……また染めたのか。何色だそりゃ?」

「これは亜麻色ですよ。どうも大輔さん、二ヶ月ぶりですね」

 以前の狂気に満ち満ちた雰囲気はなりをそめ、何処か理知的な笑みを浮かべながら、汐里は優雅に一礼する。明星ルイから見聞きした、『瞬間変身能力』恐らく、小さな蜘蛛になったまま、大輔が一人になるのを待ちわびていたのだろう。

「……何の用だ?」

 警戒を切らす事なく、大輔は身を固くする。この女は油断ならない。大輔は、それを嫌というほど味わってきていた。

 一方、そんな大輔を目にしながら、汐里は何処か呆れたように肩を落とす。

「何の用とは……無粋ですねぇ大輔。だから結婚できないのでは?」

「大きなお世話だ。まさかバレンタインだから来た。なんて言わないだろうな?」

「おや、正解です。ちゃんと察する事が出来るではありませんか」

 クスクスと笑う汐里。その意外すぎた用件に、大輔は思わず口をあんぐりと開けたまま、呆然と立ち尽くした。

「と、いっても、義理という奴ですよ。先程の女刑事さんのようなものではないので悪しからず。ところで、あの人彼女さんですか?」

「アレが彼女だ? おぞましい事いうな」

 ブルリと身震いしながら、大輔は否定する。弥生は同僚とはいえ、あの蛇を思わせるしたたかさや狡猾さは、何処か危うく、油断ならない存在だと、大輔は常々思っていた。

 何度も犯罪者と対峙した大輔だからこそ分かる、独特の匂い。それが弥生からは感じられた。もっとも、今この場においては、関係のない事ではあるが。

「てか、お前がチョコとは……」

「おや、こう見えて恋に焦がれた時期もあったのですよ? まぁ、それはさておき。レイ君の近況――知りたくありませんか?」

 声を潜めるようにして告げられたその言葉に、思わず大輔は煙草を取り落とす。

 疲れた中年の空気は霧散し、その視線は狼を思わせる鋭さを含んで、汐里へと注がれた。

「聞かせてくれ」

 落ちた煙草を拾い灰皿に押し付けてから、大輔は重々しく、汐里を促す。すると、汐里は頷きながら、「時間もないので、手短に行きますよ」とだけ告げ、屋上の手摺に身を預けた。


「まず、レイ君とあの少女。お二人とも健在です。色々な連中が私やレイ君などを嗅ぎ回ってはいますが、今のところは見つかる事なく、元気にやってます」

「……そうか」

 汐里の言葉に、大輔はホッとしたように表情を緩める。無事ならばそれでいい。世間そのものが胡散臭くなりつつある今、それは大輔にとって、何よりも朗報だった。

「潜伏してる場所は……教えることは出来ません。ま、力が限られている私ならばともかく、今のレイ君がその辺の有象無象に遅れをとるとは思えませんが」

 胸を張るようにしてそう言う汐里に、大輔は苦笑いする。

「……何だか安心したよ。あんた、何だかんだ言いながらもレイを気にかけて……」

「あ、それはないです」

 少しだけ警戒を解いた大輔を、汐里は言葉の刃をもってバッサリと切り落とす。ポカンとした顔になる大輔を、汐里は楽しげに見つめながら、自らの身体を、〝片腕で〟抱き締める。その仕草をもって、大輔は初めて汐里の右腕が無くなっている事に気がついた。

「私がレイ君と一応の協力関係を結んだ瞬間には、劣化が始まりましてね。とうとう腐り落ちてしまいました。まるで見届けるかのようにね」

 本当に、腹が立つ男です。と言いながらも、汐里は何処か嬉しそうだった。

「ですが、確信しました。ルイの断片は、まだ私の中にいる。それだけ知れれば充分です。引きずり出す方法は、いくらでもある。絶対に逃がしません……」

 見るからに酷い笑いを漏らし始めた汐里に若干気圧されながらも、大輔は煙草を取りだし、火を点ける。壊れるにしても、前向きな方へと転んでくれたのだろう。そう思うことにした。

「ま、まぁお前が明星の為にあの二人を傷つけないのは、取り敢えず分かったよ。ありがとうな」

「いえいえ。情報という名の義理チョコ。喜んでいただけて何よりです。あ、御返しはアトラク・ナクアのコートでお願いします」

「……お前もかよ」

 げんなりする大輔を嘲笑うように、汐里は大輔が燻らせた紫煙を指で払う。実体のないものを掴むような行動に大輔が戸惑っていると、何処か迷ったような顔になりながら、汐里は口を開く。

「大輔。近い将来、大規模な変化があります。それは貴方の世界をガラリと変えるかもしれません。私はこの世に有り得ないものに触れて、狂い、変わっていく人を沢山見てきました」

「……何を言っている?」

 脈絡のない汐里の言葉に、大輔が首を傾げる。

「用心することです。人は、いともたやすく〝怪物〟になり得ます。これは貴方との奇縁に免じた、私からの警告です」

 謎めいた言葉だけを残し、汐里は唐突に姿を消した。視界の端で、小さな蜘蛛が小走りに去っていくのが、チラリと見えた。

 釈然としない感情をもて余すかのように、大輔は溜め息をついた。

「あ、やべ。あの星について聞くの忘れた」

 うっかりしていた自分に拳骨を飛ばしてやりたい気分になりながらも、大輔は肺に煙を吸い込んだ。

 蒼天の下で佇む大輔の傍を、乾いた風が吹き抜ける。痺れるような酩酊を感じながら、大輔は息を吐き、火を消した煙草を灰皿に放り込む。

 わからないことは、今はいい。汐里の言葉は気にはなるが、まだ、大輔の周りには何の変化も起きていない。自分はただ、その平穏の維持に努めるのみだ。

 大輔はそう結論付け、屋上の出口へと歩き出す。足取りは軽くもなく、重くもなく。ただ、願わくば。なるべくなら重くならない日々が続けばいい。

「あ、警部。戻ってきちゃいました」

 そんな大輔の細やかな願いは、早くも狂わされた。ドアノブに手をかける前に出口は開かれ、整った顔立ちの女が現れる。つい数分前に出て行った、雪代弥生だった。

「どうした? 俺はもう戻るぞ?」

 訝しげな表情になる大輔に対して、弥生もまた、彼女にしては珍しく、困惑を表情に浮かべていた。頭一つか二つ分の背丈の差もあり、自然と弥生は大輔を見上げる形になる。無意識か、意図的か。流し目を送るような弥生の仕草に少しげんなりしながらも、大輔は彼女の言葉を待つ。


「あの……警部。署長がお呼びです」


 何かやりました? といった弥生の表情に、大輔は無言で首を振る。心当たりなどまるでない。が、呼ばれている以上行かない訳にもいかないだろう。溜め息まじりに弥生に手を振り、「行ってくらぁ……」とだけ告げ、大輔は屋上を後にする。

「……警部。誰かといました? 私じゃない女の匂いがします」

 いつもより低い声で訪ねる弥生を大輔は無視して、階段を下りる。面倒事はごめんだった。

「欲求不満でしたら、私がお相手しますよ?」

「間に合ってるんだよ。バァカ」

 流石に無視出来ない台詞には、適当に返事をし、大輔は署長室へと向かっていく。足取りは、いつもより重たかった。


 ※

 

 拝啓。レイ君。お元気ですか? 元気であるなら嬉しいです。

 君がこの手紙を読んでいるという事は、僕は恐らく死んでいるのだろうね。

 でも、それは同時に、あの子と君が生き残ったということを意味している。それは僕にとって、何よりも喜ばしく、幸せな事だ。

 だから、もしも。万が一君が泣いて俯いているのだとしたら、顔を上げて、いつものレイ君でいてください。僕は何の悔いもなく、幸せに逝けたから。だから、振り返らずに進んでくれたら、僕は嬉しいです。


 さて。ここからが本題です。

 君に告げておかねばならないことが、三つある。

 まず一つ目。この手紙を挟めていた、ノートは見てくれただろうか?

 君の事だから、きっと盛大な突っ込みを返してくれた事だろうと思う。見れないのが残念だ。まぁ、それは置いといて、部屋に隠していたノート。アレはアモル・アラーネオーススとして生きるための、言うなれば指南書です。

 もしも、僕が死亡して。汐里が君の師匠を引き受けてくれなかった場合は、それを参考にしてくれ。

 能力の上手な使い方から、生きる上での豆知識まで、僕が知り得た事を全て記しておいた。きっと役に立つはずだ。


 本当ならば、僕の命が続く限りは、君に色々と教えたかった。けど、どうやらそれは叶わないらしい。許してくれ。


 二つ目。

 君達が生き残っている。イコール、レイ君とあの子の脅威は全て無くなっている……と思う。でも、それはあくまで、現在はだ。

 レイ君。どうか、能力の鍛練は怠らないで欲しい。出来るならば、最低限でいいから、戦う技術も研いておくんだ。

 ひとえに僕が付け焼き刃ながらボクシングをたしなんでいたのにも、理由がある。

 人間相手ならば、怪物の力だけで何とかなる。だけど、〝それ以外〟には、そうは問屋が卸さない。

 僕達は、日常からは外れた存在となった。でも、それは何も僕達だけとは限らない。


 レイ君。覚えておいてくれ。地球外生命体というべき存在は、恐らく。いや、絶対に、僕達以外にも存在する。


 事実、僕は君と出会う前。正確には実験棟を抜け出して、あの子を探す最中に、そういった外れた存在と遭遇した事がある。

 アモル・アラーネオーススとはまた違った存在だ。

 ここ数年で現れたのか、遠い昔からこの星に根を下ろしていたのかは分からない。

 だけど、これだけは言える。見えない存在。名前のない存在。そういった者共は、脅威にも、隣人にもなり得る。

 どうか肝に命じていてくれ。


 最後に。君からしたらそうとう胡散臭かったであろう僕を、ああして傍に置いていてくれてありがとう。

 短い間だったけど、君やあの子と生活出来て、僕は幸せだった。

 君を見届ける事は叶わなかったけど、僕はいつだって君とあの子の幸福を祈っています。

 

 ルイより


 追伸 そうだ。せっかくだから、これも教えておこう。アモル・アラーネオーススの――。



 何度も読み返した手紙を丁寧に折り畳み、僕はそれを『指南書』に挟み込む。見た目こそただのノートだが、一度表紙を開けば、一気に脱力すること請け合いだ。

「大体なんだよ。このふざけたタイトルは」

 ノートを開いた最初のページ。そこには……。


『出来る! 人外ライフ』


 バカにするにも程がある。ご丁寧に明星ルイ著なんてものまで記されていた。全く、コイツは死んで尚も僕をおちょくるのか。

 悪態をつきつつ、パラパラと指南書を流し読む。

 中身には全部目を通した。だが、僕は定期的にこうして内容を軽くおさらいする。

 汐里の言葉を借りるなら、僕は生まれてまだ数ヵ月。学ぶべき事は多いのだ。

 しかも、この指南書。腹が立つ事に、内容はその辺の教科書や参考書なんかより遥かに分かりやすい。挿絵やら図が絶妙なのだ。こんな変な所で無駄に高スペックをさらさなくてもいいだろうに。

「……またそれよんでるの?」

 背後からする、囁くような声と甘い香り。振り返ると、そこには見慣れた黒衣の少女の姿があった。

「うん、覚えるにこした事はないしね」

 僕がそう答えると、怪物はどこか不満そうな表情になる。多分だが、構えという事なのだろう。恨めしげな視線がルイの指南書に向けられていた。

「そうだ。周りはどうだった?」

 誤魔化すように僕が訪ねると、怪物は静かに首を横に振る。周りに何かがいる。という訳ではないらしい。

 空を見上げると、既に辺りは薄暗い。風に合わせて近くの木々がざわめいていた。

 人の気配が少ない所を目指して、僕らがたどり着いたのは、とある樹海だった。外界の様子は自分が調べ、探るから、僕達は身を隠せ。汐里は僕達にそう言ったのだ。勿論、彼女には他の目的もあるのだが。


「やっぱり……僕達以外にもいるのかな?」

「レイの肩にのって、街をあるいたとき、すごく遠くで気配がした。私たちとは、違う気配」


 ルイの手紙に記されていた事、僕達に語りかけてきた、〝星の声〟と汐里の推測……。

 つまりは、そういう事なのだろう。僕達のように、人に紛れて生きる怪物が、確かに存在するということ。

 生憎、僕はそういった気配を探るのがまだ得意ではないので、実感はないのだが。

 ひょっとしたら、怪物(こいつ)は、常日頃からそれを感じていたのだろうか?


「あの星って、所謂宇宙船だったのかな?」

「うちゅうせんって何?」


 何となく口にした疑問に、怪物は首を傾げる。うん、分からないよな。何て思いながら、僕は何でもないというように首を振る。

 どうしてあの星が出てきたのかも、僕らにしか聞こえない声で語りかけてきたのかも、皆目検討はつかない。だから、今僕達に出来るのは、ある程度推測する事だけだった。


 あの彗星が散った時、唯一反応したのが怪物だけだった。地球産とはいえ、原種だからでしょうかね? 何て汐里は言っていた。

 ソッチニイクヨ。僕達にしか聞こえない声で、ただひたすら繰り返していた彗星だったが、結局消える時に一際不気味な声を漏らした以外は、何の変化もなし。それが汐里の不安と好奇心を刺激したらしく、彼女は今、西へ東へと情報を集めて回っている。彼女いわく、あの星そのものが、怪物で、地上の怪物らにコンタクトをとっていたのではないか? と、推測していた。

 因みに、僕も一つだけ予想を立ててたりする。爆発した彗星から、沢山の怪物が地球に飛来……といったものだ。

 我ながらなかなかに突飛で、ぞっとする話だと思う。アモル・アラーネオーススだけでもいっぱいいっぱいだというのに、もし仮にそうなったとしたら、地球上の生物の位置関係だっておかしく……。

「……レイ」

 そこまで考えた所で、不意に耳を湿った感触が走る。いつのまにか僕にまとわりついた怪物が、僕の耳を甘噛みしていた。

「な、なにを……」

「最近、レイがつめたい。難しそうな顔ばかりしてる」

 気がつけば、背中に柔らかな土の感触。分かりやすく今の状況を説明するならば……。

「あの、何で僕は押し倒されてるのでしょうか?」

 僕の乾いた笑いを無視して、怪物はうっとりとした様子で、僕に擦り寄ってくる。

「レイ……」

 透明感のある綺麗な声が、僕の耳を狂わせていく。近づいてくる、彼女の顔。こう近くで改めてみると、本当にぞっとするくらい綺麗で、僕は暫し見とれてしまう。そんな風に言葉に詰まる僕の唇を指でなぞりながら、怪物は妖艶に微笑んだ。

「あんな星……どうでもいいの。レイがおとうさんみたいに強くなくてもいいの。ただ……」

 唇に熱い感触が押し当てられる。差し入れられた舌に僕が翻弄され、甘やかな指遣いが、僕の身体を優しくなぞる。ああ、こりゃダメだ。と、僕は察した。

 捕らわれた僕は、已然として、怪物に魅了されたままなのだ。それこそ、どうにもならないくらいに。悲観的な考えを中断せざるをえないくらいには。


「ずぅっと……一緒にいて」


 その言葉は、まるで蜘蛛の巣を思わせた。もがけばもがくほど、糸は絡まる。かといって、身を委ねた所で、巣に掛かった獲物の運命は変わらない。

 首筋に快楽の火が点る。

 酩酊感と、強烈な飢餓感にその身を焦がしながら、僕は彼女を。自分の飢えを受け入れる。

 わずかに残った理性の断片は、どうか僕の予想は外れて欲しい。といった願いだった。

 これ以上面倒な事は、ごめん被りたい。どうか、彼女と歩む道は、平穏でありますように……。


 ※


「……これは、何ですか?」

 署長室に呼び出されるなり、配布された資料を睨み付けたまま、大輔の表情が硬直する。

「見ての通りだ。先日、ミハイル彗星が爆発したのは知っているね?」

 安楽椅子に深く座りながら、署長は額の皺を伸ばすような仕草をする。年配ながら、その眼光や迫力には、一切の衰えは見えない。古武士のような彼の前に立つのは、大輔ですら未だに緊張があった。

「彗星が消失した同日、北海道の山中に飛来物が不時着してね。現地の調査員が撮影したのが、その写真だ」

 どこか困ったように笑う署長。笑いでもしなければ、やっていられないという事だろうか?

「いや、そんな。バカな」

 何と表現すればいいのか、大輔には判断がつかなかった。その写真には、ミハイル彗星等が可愛く見えてしまうほどの、とびっきりな非常識が撮影されていた。

 アリクイのような頭。だが、その口にあたる部分には、赤いヒダのような器官がある。大輔が真っ先に連想したのは、イソギンチャクだった。

 白い体毛の生えた小柄な体躯は、手足が長く、オラウータンを思わせる。

 見るからに地球上では有り得ない姿だった。だが、大輔を戦慄させたのはそんな見かけの問題ではなかった。

 写真の化け物には、目が存在していない。いや、それ以前に、顔と呼べそうなものが確認できないのである。にもかかわらず、写真の怪物は、こちらに頭を向けていた。

 目や表情が無くても分かる。この怪物は、撮影者を見つめているのだ。

「この写真の撮影者は……?」

 恐る恐る大輔が尋ねると、署長は静かに首を横に振る。

「これは、彼の上着に仕舞われていたデジタルカメラの画像をプリントしたものだ。彼自身は、既に無惨な姿で発見されている。そう……」

 署長の探るような目線が、大輔に向けられる。何となく、〝彼〟の末路が分かる気がしたが、大輔は努めて冷静に、署長の話に耳を傾けた。


「脳を含めた、全ての内臓が、喰い荒らされた状態でね」


 その事実は、つい最近知った非日常を連想させるには、充分過ぎる威力を持っていた。

 神妙な顔のまま、大輔は拳を握る。何故自分がここに呼ばれたのか。それが分かる気がしたのだ。


「やはり知っているね。小野大輔君」


 署長の瞳が、一際鋭くなる。その仕草で、大輔は確信した。情報が……漏れている。

「……松井さんですか?」

 大輔の質問に、署長は静かに頷いた。

「彼のもたらした情報を元に、今上層部で会議を行っている。事は警察だけの問題ではなくなってきたのだ。人を襲う謎の生物。既に各地で起きている、不可解な事件も、奴らの仕業かもしれん。マスコミが嗅ぎ付けるのも、時間の問題だ。故に……」

「俺に情報提供を……と?」

 渋い顔をする大輔に、署長は神妙な顔のままで頷く。

「松井英明がもたらしたのは、地球外生命体の存在と、その死骸。実験に使われていたという研究施設の場所のみ。詳しい情報はあまり集まっていないのだ。君を抜擢することは、彼の推薦でもある。聞くところによると、君は地球外生命体と交戦経験もあるのだろう? ともかく今は、情報が必要だ」

 怪物に翻弄される人間。それを大輔は、身近に感じていた。

 汐里の言っていた変化とは、これを指していたのだ。新たな生命体の襲来による、環境の激変。英明の言っていた星の声とやらも、奴らの事なのかもしれない。

「その、条件が……」

「分かっている。君の甥っ子だろう。もし見つけた場合は保護だ。手荒なマネはさせないと約束する」

「ありがとうございます」

 どこまで信用できるかは分からないが、今はそれでいい。大輔は頷き、再び資料に目を通す。

 これからどうなるかは分からない。

 だが、今までの常識は、間違いなく崩れ、覆されるのだろう。

 あの実験棟での生存戦は、言わば前哨戦。前日譚に過ぎなかったのだ。

「逃がしちゃ、くれないのか」

 運命の糸というやつがあるならば、それはきっと蜘蛛糸のようなやつに違いない。そんな詩的な事を思いながら、大輔はため息をついた。


 その後、そう遠くない未来に警察組織内にて、地球外生命体対策課なる部署が設置される事となる。ミハイル彗星爆発が切っ掛けなのかは定かではないが、世界各地で、未確認の生物。及び、超人的な能力をもつ人間が確認されたのである。それらへの対策にと置かれたのが、その部署だった。大輔もまた、そこへ配置される事となるなど、この時の彼には知るよしもなかったのではあるが。

 長い前日譚は、こうして一先ずは幕を下ろした。大輔は勿論、消えた怪物達の戦いも、まだ終わることはなく……。


 ※


 身体に、ほどよい圧力がかかっている。事が終わり、僕が身体を起こした時には、もう真夜中だった。

 満たされた飢えへの背徳感。それに蓋をするかのように、僕は手の甲で口を拭う。赤い雫が僕の手を汚していた。川が近くにあった筈だし、後で顔を洗おうか。

「……レイの……熱い」

「そりゃあ血だし。生きてるし」

 僕の返答に怪物は幸せそうに僕に身を寄せた。猫のような仕草に、思わず苦笑いが漏れた。

「そういえば、君の名前、どうしよう」

 いつまでも君だの怪物だのじゃあ、不便だろう。そう思っての提案だった。が、怪物は、暫く考えるような仕草をした後にやがてゆっくりと首を振る。


「名前はいらない。レイがいてくれるなら、(ワタシ)はそれだけでいいの。だから、別にいい」


 そう言って、怪物は僕の頬へ口づける。啄むような軽いキス。からの甘噛み。まるで匂いでもつけるかのようなそれに、僕は思わず身震いする。

 漆黒の瞳が、全てを物語っていた。貴方はもう、(ワタシ)のものだと。

「大丈夫だよ。レイは(ワタシ)がまもるから」

 柔らかく微笑む彼女。日に日に人間らしさが増している……ような気がするのは、気のせいではないだろう。護る……ね。でもそれじゃあ、僕がルイに顔向け出来ないんだけどな。

「それで君がまた拐われたり、撃たれたりするの? そんなのもうごめんだよ」

 僕の言葉が心底意外だったのか、怪物は目を丸くする。……今日だけは、サービスだ。たまには素直な気持ちを言うのも、悪くない筈だ。

「レイ……」

 潤んだ目から放たれる、情熱的な視線が、僕を捕らえる。

 火傷しそうなそれから逃れるように、僕は立ち上がり、前を向いたまま、彼女に手を差しのべた。

 おずおずと、怪物の手が僕の手を掴む。普段あんなに大胆な癖に、僕の方から何かをすると戸惑うんだから、おかしな奴だ。

「どこ行くの?」

 怪物が問いに今は答えずに、ゆっくりと歩き出す。静寂に満たされた樹海の奥へと。そこに安らぎがあることを信じて。

 不意に、ルイの手紙にあった、追伸の言葉を思い出す。


『そうだ。せっかくだから、これも教えておこう。アモル・アラーネオーススの、名前の意味さ。通常、生物の学名は、ラテン語を用いるんだ。その種特有の名付けかたという奴らがあるんだけど、僕らにはそんなものない。だから教授は、そのまんま分かりやすい形で名を付けた。その意味は――』


「〝蜘蛛の巣だらけの愛〟……か」


 なかなか洒落てるだろう? と、ルイなら笑うだろうか? 彼の声を頭の中でクリアに再生出来てしまう自分に驚きながら、僕は静かに怪物を見る。彼女もまた、僕を見つめていた。なんだかドラマのワンシーンみたいだ。なんて柄にもなく思ったからだろうか。何となく、芝居がかった台詞が頭に浮かんできて……。どうしたの? といった顔になる怪物に、何でもないよと微笑み返し、僕は再び前を見る。

 どこへ行くのか。それに対する答えは出た。


「どこまでも行けるさ。僕らはもう、怪物だからね」


 たとえ何が来ようとも、きっとこの手を離す事はないのだろう。というか、離してはくれないだろうし、離さなくていい。

 張られた蜘蛛の巣の虜となった僕には、それがたった一つの冴えた生き方に違いないのだ。



~fin~


ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました!

『名前のない怪物』は、一先ずはこれにて終幕となります。

先に困難の気配はあれど、レイ君と怪物ちゃんはきっと仲良くやっていくと思います。



解説やら、番外編の予告やらは活動報告にてやるとして、この場においては読んで下さり、支えて下さった方々に感謝を捧げつつ、終わりにしたいと思います。

約一年半。本当にありがとうございました!

また何処かでお逢い出来ることを願いつつ。

ではまた……。

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[良い点] アトラクナクア好き。 怪物は初期から初音ねえさまでイメージしてたから
[一言] とりあえずここまで一気に読んでしまいました!!! 最初は超常的な感じでSFかな?と思ったのですが、読んでいくにつれ しっかりと背景などが分かっていき滅茶苦茶面白かったです!!!!
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