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名前のない怪物  作者: 黒木京也
エピローグ 名前のない怪物
96/221

破.最後の悲劇

 小野大輔は、死神の気配に敏感だった。経験と実戦の中で培われた物というべきそれを、なんと説明すればいいのかは分からない。だが、自らが。あるいは、近くの誰かに危機が迫っている時、奴らは音もなく忍びよってくる。

 嬉々として喉元に刃を突き付けてくる感覚。言うなれば、そこは危険だという第六感的な直感。それを大輔は死神の気配としていた。

 松井探偵事務所に辿り着き、玄関まで上がった時、大輔はそれを明確に感じ取っていた。時刻は夜の九時。大輔を呼び出した筈の英明の事務所は、どういうわけか、照明が落とされていた。

 無意識のうちに、周囲を警戒する。武器になりそうなものは、持っていない。文字通り身一つで、大輔はゆっくり事務所へ入り込む。

 照明の位置など覚えてはいない。だが、暗闇に慣れてきた目が、徐々に部屋の輪郭を鮮明にしていく。事務所のブラインドは少しだけ光が入るように、絶妙に調整されていた。だからこそ、大輔は、部屋の窓側に、人形のシルエットを確認できた。

 人間の背丈ではあり得ない位置に、それは吊るされていた。さながら磔にでもされたかのように、あるいは、壁に掛けられたマリオネットのように、その人物の身体は吊るされていた。

 その時、大輔は背筋が凍るような感覚に襲われた。

 自分と、吊るされた人物しかいない筈の空間に、誰かが突然入ってきた。否、入ってきた。は、間違いかもしれない。正しくは、何もない所から、気配が生えてきた。それが一番しっくりくるだろう。

 パチンという音がしたかと思えば、部屋の照明が上がる。思わず目が眩みながらも、大輔はそこに吊るされた人物を、はっきりと視認した。

「……っ! 松井さん……!」

 嫌な予感は、得てして当たる。銀色の、見覚えが有りすぎる糸で拘束されていたのは、この探偵事務所の主だった。


「意外と、早かったですね」


 すぐ傍から、鈴を鳴らしたかのような声がした。久方ぶりに聞く気もするが、大輔はそれが誰のものなのか、一瞬で理解する。

「お前……唐沢、なのか?」

 大輔が、一瞬だけ戸惑いの気配を見せたのは、無理もないことだろう。そこにいたのは、確かに唐沢汐里だった。スーツに白衣。ヒューヒューという独特の呼吸音。目元の隈。何より、大輔の刑事としての観察眼が、そこにいるのは汐里だと、答えを弾き出していた。そう、たとえ……。

「おや、嬉しいですね。レイ君も私を一目見て気づいてくれたんですよ。イメチェンした甲斐があるというものです」

 たとえ、そこにいる女が、見るも無残に〝変わり果てて〟いたとしてもである。

 汐里の肌は、石膏のように真っ白で、瞳は血の一滴でも落としたかのように、真っ赤だった。両手の黒い手袋を見せつけながら、汐里はクルリと、その場で一回転する。金色にも銀色にも見える髪が、ふんわり揺らめいた。

「それは……明星になったつもりか?」

 絞り出すように言う大輔に、汐里は「イメチェンだと言ったではありませんか」と、答える。冷たい口調ではあったが、一瞬だけ汐里の瞳が揺らいでいるように見えたのは、大輔の錯覚なのか。

「……呼び出したのは、お前か?」

「ええ。そうです。どうして私が貴方を呼んだのか、心当たりは?」

 こちらを探るような視線を向けてくる汐里。対する大輔は静かに首を振る。こんな状況になっていることが、大輔には未だに理解不能だった。

 何故英明が捕らえられ、自分がこうして誘き出されているのか。すると汐里は溜め息をつきながら肩を落とした。

「……ま、貴方が〝あんなこと〟をするとは思えませんし。となると、やはり拷問すべきはそこの男だけですかね~」

 吊るされた英明を見つめながら、汐里は残忍な笑みを浮かべる。手を握り、開きを繰り返すその様は、爪をとぐ獣を思わせた。

「イメチェンとやらに、レイも気づいたとか言ってたな。会ったのか?」

 背中を伝う冷たい汗を感じながら、大輔は問いかける。汐里の――。怪物の脅威は身をもって知っている。だからこそ、今は会話が重要だった。

 微かだが動く、英明の身体。呼吸をしている。生きているのだ。だがそれは、目の前の怪物の気分次第で、いとも簡単に摘み取られ。有効打のない大輔に出来る事は、時間を稼ぎ、汐里を極力刺激しないようにする事のみ。

「ええ、正確には、つい一昨日まで一緒でしたよ。あの少女の怪物も一緒にね。今ごろ慌てふためいている事でしょうね」

 クスクスと笑いを漏らす汐里。大輔は未だ、話の大筋が見えてこなかった。

 なぜ、レイは汐里と行動を共にしたのか。慌てふためく。という事は、彼の無事は保証されたという事だ。だが、そうだとしたら、今の状況は何だ? 汐里の目的は?

 油断なく対峙したまま、大輔は思考を巡らせる。

 すると、汐里は微笑んだまま、つかつかと英明の方へ歩み寄る。黒い手袋ごしに、汐里の指が英明の頬をなぞる。滑るような指使いに、英明はうっすらと瞼を広げ、やがて、目の前の汐里に気がついた。

「私は、レイ君に稽古をつけていたんですよ。未だ不完全なレイ君の力を安定させる為に。そしてあわよくば、それによって〝私自身の目的〟を完遂出来れば。そう期待したんです」

 捕らえられた恐怖が甦ったのか、英明はガタガタと、小刻みに震えだす。見開かれた英明の瞳孔を、汐里は目を細めながら睨み付ける。

「松井さんを捕らえることが、その目的の一部とでも言うのか?」

「違いますね。松井さんを捕らえることは、〝目的〟には直接関係ありません。まぁ、個人的に聞きたいことがありますが、それは後回しとしましょうか。彼はね、餌なんですよ。貴方をここへおびき寄せるためのね。私が捕らえたかったのは、大輔、他ならぬ貴方だったのですから……」

 チロリと、舌舐めずりしながら、汐里は爛々と目を輝かせる。紅い双眸から放たれた視線が、大輔に絡み付いた。どこか昆虫的なそれに、思わず大輔は嫌悪を顕にするが、汐里はさして気にする素振りは見せない。。

「貴方が、レイ君を探すのは分かっていました。松井が探偵になるのは予想外でしたが、事は面白い位に上手く進んでいます。こうして大輔は、来てくださいました。到底助けも望めなければ、逃げ場もないこの室内に……!」

 殺気に敏感なのは、大輔の幾重にもよる、犯罪者達との戦いによる賜物だ。ビリリと、神経を高ぶらせる感覚が駆け抜けた瞬間、大輔は迷わなかった。

 刹那――汐里の手が振り抜かれる。それに合わせて、大輔は手近のソファーを素早く蹴り上げた。

 粘着質な音を立てて、銀色の蜘蛛糸が、革製のソファーに受け止められる。

 間一髪の防御。だが、それは二度も通じない。気がつけば、汐里は大輔の背後に音もなく舞い降りていた。

「お忘れですか? 私の跳躍力を。瞬間的な三次元の動きなら、最速だと自負してましてね。だから、逃れられはしませんよ……」

 汐里がそう囁いたのと、大輔の身体が拘束され、うつ伏せに地面に転がされたのは、殆ど同時だった。

「く……そ、が……!」

 悪態をつく大輔。それを足蹴にし、汐里は何処か興奮したような笑みを浮かべていた。

「言い残すことは?」

「……レイは元気なのか? 今どこにいる? 実験施設を燃やしたのはお前か? あの彗星は何だ?」

 会話の中で活路を見出だすべく、大輔は思い付く限りの質問をする。

「レイ君は元気ですよ。今はどこにいるかはわかりません。施設を燃やしたのは私ですが、山城京子の墓を暴いたのは、私ではありません。彗星は……正直な話、私もまだ確証を得た訳では無いので、解答を控えさせて貰います」

 一瞬だけ面食らったかのような表情の後、汐里はよどみなく答えていく。確信を固めながら、大輔は何度か拘束からの脱出を試みる。が、糸や汐里はびくともしなかった。

 怪物と人間の絶対的な力の差。大輔は、僅かなやり取りの中でいやと言うほど痛感していた。遺言はもうないと察したのか、歯軋りする大輔の上で、汐里は高らかに、その宣告をもたらした。嗜虐的な光を放つ瞳に、隠しきれぬ愉悦が宿る。


「申し訳ありませんが……大輔。私の為に、死んでくださりませんか?」


 ゾッとするような声色で、汐里は片手を振り上げる。獲物に止めを刺す獅子のように。その爪を、今まさに大輔の喉笛へと――。

 その時、弾けるような破裂音が、事務所内に轟いた。


「悪いけど、叔父さんを傷付けさせるわけにはいかないな……」


 死神の一撃は、もたらされる事はなかった。代わりに、大輔の耳に、懐かしい声が届いた。


 拘束された状態のまま、大輔は何とか顔を上げる。木っ端微塵に破壊された、事務所の大窓とブラインド。その残骸の上に、人影が一つ。

 それはどこにでもいそうな青年だった。

 だが、身に纏う空気は、何処か異質で、重苦しい雰囲気を醸し出す。

 幽霊。その単語が一番しっくりくるような男だった。

 生きているようで、死んでいる。そんな気配をもつ青年は紛れもなく、二ヶ月前に行方を眩ました、遠坂黎真――。大輔の甥っ子だった。

「久しぶり、叔父さん。汐里は……二日ぶりかな?」

 軽い散歩から帰って来たかのような調子で、レイは片手を振る。もう片方の手は、怪物の鉤爪となり、その爪先から、銀色の糸が飛び出していた。

「……糸を絡めるのも、随分上手になったではありませんか。」

「誰かさんの教えかたが上手だったからね」

 腕を振り上げた状態のままで、汐里はレイを賞賛する。が、当のレイはすましたような顔のまま、大輔、英明へと視線を動かす。

 ほんの一瞬だけ、安堵したかのような表情を見せた後、再び汐里の方に向き直る。

「説明してくれ。二ヶ月くらい君と行動を共にしたけど、君の目的はてんで見えて来なかった」

「説明なんかいりませんよ。今に分かります。ところで、あの子はどうしました?」

 レイの問いを受け流しつつ、汐里は探るように辺りを見回す。

「……アイツなら、今頃全力でこっちに向かってるよ。大輔叔父さんの方と、松井英明さん。どっちに君が来るか分からなかったからね」

「二手に分かれたんですか? 彼女、渋ったでしょう?」

「怒って、拗ねられて、色々あった後に噛まれたよ」

「……色々の中に、どれ程の攻防が含まれているんでしょうね?」

「……聞かないでくれ」

 茶化すような汐里に、レイは理不尽だ。と、肩を竦める。

 柔らかな空気。だが、大輔はその中で、互いの腹を喰い破らんとする、二匹の大蜘蛛の幻影を見た。

「叔父さんを殺す気か?」

「必要あれば、貴方も。ずぅっとそのつもりでしたので」

「意味がわからない。僕を殺すつもりだったなら、どうして稽古なんかつけたんだ?」

「知れたこと。貴方を。何よりあの子に害をなす気を出していれば、〝彼〟はきっと現れる。鍛えたのは、一応遺言でしたのでね。大輔を狙ったのは、貴方とあの子を分断させるため……」

 腹の探りあいのような会話の中で、汐里は拘束された右手を無理矢理引っ張った。布が擦れる音と共に、汐里の手が、黒い手袋からあらわになる。


「全ては……この為です。さぁ、〝ルイ〟。出てきて下さいな。さもないと、レイ君が――。貴方の娘が傷付いてしまいますよ?」


 それを見た時、大輔は純粋に、この女が、唐沢汐里が怖いと感じた。

 そこにあったのは、汐里の手ではなかった。拳を交えた大輔だからこそわかる。

 色白で、ピアニストのように細い。だが、骨がうっすらと浮き出た、男の手。

 見間違えようもない。それは、明星ルイの手だった。

「君が、絶対に手袋を外さなかった理由が、今分かったよ。それは……ルイの手を移植したのか?」

 声色に怒気を含ませながら、レイは問いかける。すると、汐里は恍惚に微笑みながら、うっとりとした表情で、その手に頬擦りする。やがて、半分正解です。といった答えが返ってきた。

「もう、察しているでしょう? 山城京子が、生まれ変わった時を思い出してみてください」

「……まさか」

 レイの顔が、唖然としたものになる。考えたくもない事実が、大輔の中で持ち上がってきた。

 嘘であって欲しい。そう願うような大輔やレイを嘲笑うように、汐里は自身の腹部を撫でる。まるでそこに、何かが宿っているのかのように。

「だって、不公平でしょう? ルイがあの女だけのものだなんて。だから私も……」

 紅い瞳。まやかしの色を宿す汐里の眼窩から、透明な滴が流れ落ちた。


「食べちゃいました」


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