序. 小野大輔の奔走
松井探偵事務所。小野大輔が仕事の合間を縫ってそこを訪れるのは、もはや習慣となりつつあった。
「どうも、小野さん。お勤めご苦労様です」
事務所のドアを叩くと、警察から探偵に転身した松井英明が、にこやかに大輔を出迎える。
簡素な探偵事務所は、両脇の壁を覆い尽くさんばかりの資料の棚で構成されていた。奥のブラインド付きの窓を背にして、小型テレビの乗せられた、大きめのデスクが配置され、その前に一対の来客用ソファー。長テーブルが用意されている。印刷物特有の匂いと、殺虫剤の匂いが混じりあっていた。
シンプルながら機能的な探偵事務所は、ここ最近の大輔には、馴染み深いものだった。
「お疲れさん。で、どうだ?」
「……すいません、甥っ子さんの行方は未だわからぬままです」
警察の鑑識から、探偵へ転身した英明は、ばつが悪そうに肩を竦める。もっとも、そうそう簡単に見つかるものとは思えなかった。こう言うのも難だが、甥っ子のレイは、既に常識からは外れてしまっているのだから。
「ただ、甥っ子さんを調べていく過程で、面白い事実も出てきましたよ。俺の興味というのもありますが」
「興味?」
思わず大輔は怪訝な顔になる。すると英明は、おもむろにデスクから、数枚の写真を取り出した。
写真には、焼き払われ、完全に崩れてしまった診療所や、地面を掘り返したかのような跡が撮影されていた。どの風景も、大輔には嫌と言うほど見覚えがある。
「これは……まさか」
「お察しの通り、二ヶ月前に我々が集まっていた、実験施設です。ご覧の通り、完膚なきまでに破壊されていますがね」
肩を竦める英明の横で、大輔は、思わず唾を飲み込む。いつから? 誰が? そんな疑問が次々と浮上する。
「例の地下室も、完全に瓦礫の下です。発掘は時間が掛かりそうですよ。仮に発掘し出来たとしても、果たして奴さんたちの情報が残されているかどうかも、甚だ疑問ですが」
存在の抹消。証拠隠滅。そんなキーワードが、大輔の脳裏を過っていた。だが、それ以上に大輔を戦慄させていたのは、数枚の写真の中で、唯一つ。唐沢汐里が去った後、レイと共に埋葬した、山城京子。その墓が明らかに荒らされていた。
「中身は……」
「……空でした。何者かに掘り返されたのは明白ですね」
背中を嫌な汗が伝っていた。誰かが、明確な目的をもって、あの怪物の存在をなかったことにしようとしている。
だが、それにしても、人の死体が埋まるそこを掘り返すという行為を果たして正気のままで出来るものだろうか。仮に出来たとしても、そこにはどれ程の精神力。否、狂気を宿しているというのだろうか。大輔は、それが不気味だった。
「レイか……唐沢の仕業なのか?」
そんな大輔の呟きに、英明は曖昧な顔で頭を振る。
「わかりません。ともかく、その辺は俺も全力で探します。もし甥っ子さんから連絡が来たら、私にも連絡頼みますよ。なんせ……」
英明は静かに口角を上げる。目には、ギラギラとした輝きがあった。
「分からないものを分からないままにするのは、嫌なもんでしてね。甥っ子さんにも、質問したいこといっぱいあるんですよ」
そう言って笑う英明の顔を、大輔は黙って見つめたまま、静かに頷いた。
「また何か情報が出たら頼むよ」
「合点です。……あ、小野さん」
ドアに向かって歩き出そうとした大輔を、不意に英明が呼び止める。
「……最近、ここに来ましたか?」
「……は? 質問の意味がわからんぞ?」
最近もなにも、結構な頻度でここにいるではないか。そんな表情になる大輔を、英明はどこか不安げな顔で見つめていた。
流れる沈黙。不意に、デスクに置かれた小型テレビから、ニュースの音声が流れて来た。
『十月二十七日より、確認された〝ミハイル彗星〟は、現在も蛇行しながら移動しています。専門家は、既存の彗星ではあり得ない軌道に首を傾げるばかりで……』
耳にした内容に、大輔は溜め息をついた。ここ最近は、かなりの頻度でこのヘンテコ彗星の話題がニュースに出てくる。以前の自分なら、習慣と化したニュースチェックの合間に、コラムてとして楽しんだのだろうが、生憎、今の大輔はそんな気分ではなかった。
「おかしいだろが。何で彗星が自由自在に空を動きまわってるんだよ」
素直な感想を述べる大輔に対して、英明はどこか怯えているようにも見えた。
件のミハイル彗星は、夜になると動き出す。……星なのだからそれは当たり前なのだが、問題はその軌道だ。
西へ、東へ。時にぐるりと円を描くように。その様は、まさに生きているかのように捉えどころがなく、まるで蛇を思わせた。常識はずれにも程がある。
変なものや非日常な存在を、これ以上自分の中には留めておけそうにはない。つい最近に巻き込まれた怪物騒動。あれが、大輔の世界を、ガラリと変えてしまったのだ。
「この彗星……どうもよくないものに見えるんですよね……」
「なんでだ? 彗星が不吉の象徴何てもてはやされたのは、大分昔の話だろうに」
気味が悪いものでも見るかのように、テレビを凝視する英明に、大輔はつっけんどんに答える。すると、英明はゆっくり大輔の方へ向き直った。
「こ存じですか? この彗星が現れてから、各地で不可解な事件が多発しているんです。それこそ、人間では不可能に見えるものが」
「それは……」
否定は出来ない。事実、ここ最近も不気味な事件が多発している。数秒目を離した隙に、子どもが消えた。逆に、行方不明となっていた人物が、突然帰ってきた……など。だが、それをあの彗星と結び付けるだなんて、いささか早計と言うべきか、話が飛躍し過ぎているようにも見える。
「……とっぴな事を言っているのは分かるんですけど、俺には何となく、あれが蜘蛛の怪物と近い存在であるように見えるんです。一度襲われ、長い間アレのそばにいたからなのかは分かりませんが、こう、うなじがゾクゾクするかのような……」
そう言って目を伏せる英明の横顔を、大輔は観察する。嘘を言っているようには見えない。確証はないが、大輔にはそう思えた。大輔は、そこまで長い間、唐沢汐里の傀儡になっていた訳ではない。この感覚の違いは、それに由来するものだろうか?
「それに……夢を見るんです。二ヶ月も前から」
大輔が思考の海に沈みかけた所で、英明はポツリと呟いた。
「夢で、不思議な声がするんです。ソッチヘイクヨ。ソッチヘイクヨって……人間なようで、人間でないような声で! そう呼び掛けてくる。あれは……一体」
とうとうガタガタ震えだした英明に、大輔はかける言葉が見つからなかった。結局、大輔が事務所を出るまで、英明は姿の見えない何かに怯えたままだったのだ。
「人間なようで、人間でない。か……」
探偵事務所を後にした大輔は、移動中の車の中でそう呟く。
助手席に座る、同僚の女刑事が不思議そうな顔をしている。が、それをあっさり無視して、大輔は茜色に染まり始めた空を見る。時刻は夕方。そろそろ、何度目かになる、米原侑子の両親との事情聴取の時間になる。
甥っ子の傍らにいた、少女の怪物。大体の真相は分かっていても、それを伝えられないもどかしさに、大輔は下唇を噛む。
追っているようで追えていない。分かっているようで分かっていない。まるで幽霊と駆け引きをしているかのようだった。
「どこほっつき歩いてんだ? レイの奴……」
レイがその少女の怪物と共に失踪してから、もうすぐ二ヶ月が経とうとしていた。よりにもよって、おかしな彗星が現れた夜に、あの二人は消えた。偶然なのかは、大輔には判断しようがなかったのだ。
※
結構な豪邸に入るのは、未だに慣れない。そんなことを考えながら、大輔は同僚と連れだって、米原侑子の実家へと入っていく。手入れの行き届いた屋敷の客間に座っていると、どうにも落ち着かない。そんな中で、〝張り付けた哀しみの顔〟でこちらの質問に答える米原夫妻に、大輔は本日何度目かの溜め息をつきそうになった。
茶番だ。
大輔はそう思った。解決しようがない事件。それを追う体を見せる刑事。本当はさっさと捜査を打ち切りにして、家には関わらないで欲しい。そんな本心が見え隠れする被害者遺族。これだけならば、出来の悪い三流ドラマの悲劇にも見えてくる。
だが、問題はもう少し複雑だ。大輔は、明星ルイや、唐沢汐里から、裏の本当のことを聞かされている。だから、今日はそのカードを切ることにする。
ありきたりな質問や、必ず捕まえます。なんてお決まりのセリフを吐いた所で、大輔は深呼吸する。ここから先はいままで話題にしたこともない内容だ。これはどう出てくるだろうか?
「楠木正剛」
その名前が呼ばれた時の、米原夫妻の劇的な変化を、大輔は見逃さなかった。
何故その名を? 何を知っている? そんな青ざめた表情が、全てを物語っている。その時、大輔は胃に重石を投げ入れられたかのような錯覚に陥った。米原家は、楠木教授のパトロンだった。これは大輔がルイ達を通して得た、極秘の情報だ。恐らくは、表舞台に出ることのない、知るものだけが知る事実。
「いえ、ね。彼も今、行方不明でして。鷲尾大学といえば、確か奥さまの出身大学でしたでしょう? 侑子ちゃんの事件には関係ないかもしれないですが、今何となく思い出しまして」
唯の偶然を装い、大輔は自ら踏み込むのを止める。すると、夫妻の表情はみるみるうちに軟らかくなっていく。
「ええ、私の恩師と言える人でして。その報せを聞いた時は、胸が潰れる思いでした……」
両手で顔を覆う米原夫人。その肩を抱く米原氏。その様を内心で冷やかに見つめながら、大輔は不確かだった疑惑が、確信になりつつある事に、握り拳を握り締めた。
米原侑子は、恐らく本人も知らぬまに、教授に実験体として引き渡されたのだろう。そもそも、あの蜘蛛の怪物が女性を標的としているならば、この屋敷はあり得ない。米原夫人に、使用人数名。候補が多すぎるし、万が一夫人が選ばれでもしたら、教授はパトロンの一人を失う事になる。
つまりは、両者の間で、明確な取り引きがあったのだ。
「すいません、お時間を取らせました。今日はこの辺りで失礼させていただきます」
一秒でも早くここから出たくて、大輔は一礼しながら立ち上がる。ドロドロしたものが、胸を満たしていく。帰る途中の屋敷の廊下で、大輔は高校生位の少年とすれ違った。米原侑子の弟。非の打ち所のない少年は、礼儀正しく大輔に会釈した。
無意識のうちに、大輔はレイと、その兄を思い出す。米原侑子もまた、劣等感の中で生きてきたのだろうか? その重圧のなかで、暗い瞳をしながら。その果てが、あの結末だ。
それも、もしかしたら両親の手で用意されたかもしれない、処刑台によって。
「……どっちが、怪物だよ」
目的すら見えない悪意に向けられたのは、やり場のない怒りと、無力な悪態だった。
米原侑子。彼女は、少しでも愛を感じたのだろうか。幸せだったのか? 大輔には確かめようもない。ただ、未だにこの家を訪れる大輔に、捜査の動向すら尋ねない弟や、使用人達に、物寂しさを感じずにはいられなかった。
「署に戻るぞ」
「はぁい。わかりましたぁ」
間延びした声で答える同僚に眉をひそめながら、大輔は米原邸を後にした。
※
署に戻り、雑務を終わらせた頃には、既にとっぷりと日がくれていた。同僚の女刑事による、「警部、今夜空いてますか?」という、笑えないジョークを間に合ってるの一言で受け流し、大輔は帰路につく。知ったのは、吐き気すら覚える真実の裏側。その一欠片だ。だが、その衝撃はあまりにも大きすぎた。
運転の傍らで空を見上げると、今日もあの彗星が、夜空に軌跡を描く。趣味の悪い芸術家の、絵筆のようだ。
芸術家。その言葉のせいで、消えた山城京子の死体が思い起こされる。あんなもの、一体何の為に掘り出したというのだろうか。山積みの謎に、大輔は思わず苦い顔になる。
「やってられるか……クソが」
今日は悪態が多い。そう感じながら、大輔は気を落ち着けるため、フロントのラックに常備している、煙草のパッケージに手を伸ばす。その最中、懐で、携帯電話が鳴動した。メールらしい。差出人は、松井英明だった。瞬間、大輔の両目が、大きく見開かれる。
『レイ君が見つかった』
メールには、短くそう告げられていた。
その文面を目にした途端、大輔はハンドルを切り直ちに来た道をUターンする。
はやる気持ちを抑えて、大輔は矢のように車を飛ばす。他の車を抜き去り、松井探偵事務所へと。
この時、大輔がいつもの冷静さを少しでも発揮していれば、メールの違和感に気がつけたかもしれない。
だが、甥っ子の所在の判明。その吉報が、皮肉にも大輔の判断を鈍らせた。
悲劇は、まさにすぐそこへと近づいてきていた。
忍び寄るように。ゆっくりと……。




