番外編4.名も無き者共の乱心
番外編です。
時系列的には、『70.予期せぬ訃報』の途中……森で水浴びの後に、ルイ君達と合流する前のお話です。
お菓子とご一緒にどうぞ。
それは、実感がわかないながらも、僕が怪物になってからすぐの出来事だった。
人は、何かにつけて節目節目などに、記念をつけたがる。その日もまた、僕にとっては紛れもなく、記念というべき日だった。
もっとも、祝うかどうかは別として。だが。
※
実験棟裏の清流で、身体の汚れを落とした後、僕と怪物は、病棟の一室にたどり着いていた。身体が洗い終わり次第、この場所に来てくれ。と、ルイからお達しがあったのだ。
「……もはや何でもアリだな」
思わずそんな声が漏れる。風呂場の脱衣所にあたる部屋に置かれていたのは、家庭用自家発電機。それに接続されているのは、ドライヤーだ。極めつけに脱衣籠には、着替えまで入っていて、その上には手書きのメモまで残されている。
『やぁ、身体は洗えたかい? タオルで拭くだけだと、風邪をひいてしまうかもしれないからね。しっかり乾かして、着替えること。 ルイより』
お母さんかお前は。何というか、本当に用意のいい奴だ。まさかこの状況すら、予想していたのだろうか? ルイなら有り得そうだから笑えない。
「まぁ、確かに、このままだと寒いしな」
服だって、ズボンしか残ってない。着替えがあるだけありがたいと言うものだ。釈然としないものを感じながら、僕はドライヤーを手に取る。多分、ものの数分で乾くことだろう。そうしたら今度こそ、ルイから話を聞けばいい。
「さて、そうと決まれば……ん?」
いざスイッチを入れようとしたその瞬間。すぐ傍から視線を感じた。
「な、なんだよ」
正体は言うまでもない。僕を恐怖させ、魅了し、そして捕らえて喰らった怪物だ。
神々しいくらい美しい少女の姿をした怪物は、気がつけば発電機の横にちょこんと座り、期待に満ち溢れた眼差しを僕に向けていた。
「えっと……何か?」
意図が分からなくて、思わず怪物に質問する。すると、怪物は、みるみるうちに切ない表情になり、僕を上目遣いで見上げてきた。
「して……くれないの?」
「はい?」
透明感のある、囁くようなしっとりとした声で、怪物は小首を傾げる。
「いつも、してくれるのに」
「な、何を?」
「きもちいい……こと」
「…………はい?」
僕はその場で、たっぷり数秒間、硬直した。
「ちょ、ちょっと待て。何の事だ? 何を言っている?」
僕が目を白黒させていると、怪物は何故か、頬を赤らめながら、僕の方へ流し目を送ってくる。
「レイのあついの、すき」
「熱いのって? へ?」
少なくとも、怪物の言葉には、熱っぽいものが込もっていた。
「レイに。かけて、ほしい……の」
「いや、待ってよ。僕は君に何かぶっかけた記憶はないぞ!?」
血ならある。裂かれ、喰い殺された時に、いっぱいかけてしまったが……。それじゃあない……よね?
「私を……とかして? レイの、てで。きもちよくして?」
「待て待て待て待て待て!」
やっぱりそれじゃないようだ。それは分かった。が、別の意味で今の僕は追い詰められていた。
何を言い出すのだコイツは? やっぱり話せてもダメだ! 解読不可能。意思疏通なんて夢のまた夢……。
「それ、あったかいのでるやつ。かけてほしい」
「……へ?」
怪物の白い指が差していたのは、僕が手に持つドライヤーだった。
暖かな温風が、目の前の黒髪を撫でている。花のような香りが僕の鼻を擽る中で、僕はドライヤーのスイッチを切った。すると、怪物は満足気にホッと息をついた。
「きもち、よかった」
「まだ動いちゃダメだよ」
続けて、櫛を手にした僕は、怪物のお御髪を、丹念に梳かしていく。
ドライヤーをかけて、髪を梳かして欲しい。考えてみれば、ただそれだけの事だった。半ば日常と化した営みだったというのに……。
「恥ずかし過ぎる」
数秒前の僕をぶん殴って川に沈めてやりたい気分だった。
そんな僕の気持ちも知らないで、怪物は気持ちよさげに目を細めている。
「レイのて、やさしい」
「そうかい。そりゃあ、よかったよ」
僕は全然よくないけどさ。
そんな悪態を心の中でつきながら、僕は手を動かす。艶やかな髪が、更に輝きを増しているように見えた。自分のものでもないのに、少し誇らしく思ったのは内緒だ。
櫛で梳き続けていると、自然と僕の視線は、怪物の髪に固定される。
ゾワリと、何かが背筋を這い上った。
どこかで覚えのある感じに戸惑いつつも、今更ながら、本当に綺麗な黒髪だ。なんてことを、僕はぼんやりと考えていた。
女性の髪を触った事など、数えるくらいしかない。でも、そんな僕ですら、コイツ以上に綺麗な髪なんて、この世にないのではないか? そう思えてしまうくらい、怪物の髪は美しかった。
心地よい指通りと、滑らかさ。濡れ羽色の光沢。どれも一級品だ。
一房手に取り、思わず息を飲む。さらりとした感触は、黒絹を思わせた。顔をそっと近付けると、女性特有のいい香りが、僕の鼻腔を刺激した。身体に電流が走る。僕は無意識のうちに、そこに口付けを……。
そこで僕は、我に返った。身体が、ブルブルと震えだす。僕は、僕は……何をやっているんだ!?
「レ……イ」
か細い声が、すぐ前からする。恐る恐る視線を上げると、怪物は、どこかうっとりしたような表情で、こっちを見ていた。
カラン。という音を立てて、僕の手から櫛が滑り落ちる。
――見られた。
身体が熱くなる。きっと今僕は、耳まで真っ赤なことだろう。
「レイ……いま、なにを……」
「……何もしてない!」
嘘だ。
「……でも」
「気のせいだ!」
男らしくないのは、重々承知だ。だが、僕は少し時間が欲しかった。自分でも理解不能な、その行動の意味を。
だが、そんなことを許す怪物ではなかった。怪物は、そのままゆっくりと此方に向き直り、柔らかく微笑んだ。
「……うれしかったよ」
「だ、だから……!」
さっきのは、多分乱心して……。
「うれしかったの。なかったことに……しないで」
少しだけ悲しそうな顔でそう言いながら、怪物はさっき僕が触れた髪の部分に、そっと指で触れる。
同時に、熱を帯びた視線が僕に向けられて、僕は二の句が継げなくなった。目が語っている。どうしてこんなことをしたの? と。
「……綺麗だったんだ」
観念したように、僕は語る。ついさっき、彼女の髪に触れた時、僕の中で起きた異変を、正直に。
「どうしようもないくらい、触れたくなった。君に、食べられてから、おかしくなったのかな?」
もしかしたら、僕は僕じゃなくなっているのではないか? 自分でも、怖いのだ。僕は僕だと、言い切れない事が、たまらなく怖いのだ。
まるで逃げ出せない深い闇の底にいるような。そんな感覚だった。
すると、怪物は突然、僕の両頬へ手を添えてくる。ヒヤリとした感触に包まれるなか、怪物の漆黒の瞳は、真っ直ぐ僕を捉えていた。
「ちがう……よ。レイはおかしくなんか、ない。おかしいのは、私のほう。だって……」
幸せそうな表情で、怪物の唇が艶かしく動く。僕はただ、それに見とれていた。
「レイが、私を……おかしくする、から」
脳の奥が、痺れそうだった。怪物の指が、誘惑するように、僕の唇をなぞる。
「ねぇ……レイ。もういちど、して」
「は……え?」
間の抜けたような僕の声も気にせずに、怪物は妖艶に笑う。気がつけば、怪物の片手に、黒髪が乗せられていた。白く、しなやかな指に、怪物の黒がしっとりと絡み付いている。
僕の喉奥で、唾を飲み込むような音がした。
「ねぇ……して。それとも、べつのとこがいい? くちびる……とか」
少しうつむきながら、怪物は提案する。
身体は、相変わらず震えている。それは、恐怖か、それとも歓喜か。今の僕では判断がつきそうもなかった。
「レイ、こっちにきて。だきしめて、キスして。……ゆうべみたいに、たべてもいいんだよ?」
甘えるように、誘うように。怪物は僕に呼び掛ける。
退廃的な雰囲気が漂うなか、僕は辛うじて、首を横に振った。
確信があったのだ。今彼処に沈めば、確実に戻ってこれない。深みに嵌まる恐怖を、僕は本能で感じ取っていたのだ。
だが、それは、些細な抵抗に過ぎなかった。怪物になったとはいえ、所詮僕は彼女に囚われた身である事を――。この時僕は、完全に忘れていたのだ。
「……そっか」
残念そうに肩を落としながら、怪物はポツリと呟いた。そして――。
次の瞬間、バキン! という電流にも似た衝撃が、僕を貫いた。
「レイがこないなら……しかたないね」
そう言うやいなや、怪物は一気に僕を引き寄せた。
瞳には、少女の姿に似つかわしくない、淫靡な輝きを宿らせて。チロリと、舌なめずりしながら、怪物は口角を上げる。
「私が、レイを……めちゃくちゃに、しちゃうから」
その時、僕は思い出した。
ああ、言葉が話せるようになったから、どうしたというのだろう。コイツは、怪物。
意思疏通があろうがなかろうが、僕は今まで、コイツによって、好き放題に翻弄され続けてきたじゃないか。
僕の手もまた、怪物を引き寄せる。片手は彼女の顎を持ち上げ、親指で唇のふちを一撫でると、そのまま僕は、彼女にキスをする。
熱い感触がジワリと広がった時、怪物はビクン! と身体を震わせた。
『身体所有権の剥奪能力』による、久方ぶりに思える傀儡の感覚は、僕に現実を知らしめるのに、効果覿面だった。
「ん――んっ、んぅっ……!?」
「はぁっ……れ、い……んちゅ、あむっ……」
舌が絡まり、二人分のくぐもった声が漏れる。
はしたない口付けの音は、暫くの間、脱衣場に響いていた。
※
脱衣場を出た僕は、手近な壁に頭突きを開始した。
痛い。肉体的にも、精神的にも。
「レイ……すごかった……」
「やめろ。誰かが聞いたら誤解するような発言やめろ」
口内を蹂躙し合い、互いの背中に爪を立てながら交わされた、情熱的なキス。
そこから吸血、甘噛みのコンボ。極めつけは僕にあんな……。あんなことまで……!
「レイ、かわいかった。むちゅうで私の――」
「や・め・ろ」
余計なことまで口走りそうな怪物に釘を刺し、僕はずんずん前へと進む。目指すはルイ達の待つ、二階の病棟だ。
こうなれば自棄だ。意地でもルイから、真実を聞き出してやる。
「レイ」
そんな僕より少し遅れて歩いていた怪物は、不意に僕の耳元で囁いた。
「また、とかしてね。髪も……私も」
僕は、手近なドアに、再び頭突きをするより他はなかった。
僕が怪物になった記念すべき日は、こうして散々な幕開けとなった。
最も、僕に待ち受けている試練はこんなものではなかったと知るのは、ほんの少し先の話だ。
番外編 了




