89.変わりゆく者共
鍵を回し、扉を開けると、懐かしい匂いが鼻腔を満たした。
数日ぶりの我が家は、もう長いこと帰っていないかのような錯覚をもたらしている。
「ただいま」
出迎える人はいないのに、そう言ってしまう癖がついたのは、つい最近だ。誰が原因だなんて、言う必要も無いだろう。
靴を脱ぎ、キッチンを横切り、リビングに入る。
僕の部屋内装は相変わらず物らしいものがちっともなくて……。
「あの野郎……結局片付けていかなかったな」
忌々しげに、僕はそれらを見る。
綺麗に平らげられた二人分の食器は、いつかにルイが振る舞った料理の名残をそこに残していた。
トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。バジルソースのハンバーグ。こうしてみると、オリーブオイルのついたカプレーゼは、僕の分しか用意されていなかった。本当に、ここからルイの計画が始動していたのだ。……食えない奴め。
僕はため息と悪態をつきながら、食器を回収し、台所で水に浸ける。もう少しおいた方がよさそうだ。
何となくぼんやりする頭を振り、僕はコーヒーを淹れる準備をする。
スッキリとした苦味とカフェインが、今は無性に恋しかった。
コリコリコリ……と、僕愛用の手回しミルが、コーヒー豆を挽いていく。心が落ち着くようなうっとりとした芳香に酔いしれながら、僕は無意識に、本棚の方を見る。
いつもそこにもたれるように座っていた男は、もういない。僕が豆を挽いていると興味津々にガン見してくる、紅い瞳。鬱陶しくさえ感じたその視線もやはりなく。かわりに。
「あの、挽きにくいんだけど」
僕を後ろから抱き締める存在がいた。いや、前々からまとわりついて来ていた気はするが、今日はいつもと違うように思えた。
「……レイ」
「んー?」
「……よんだだけ」
「そっか」
こんな会話をする日が来るなんて思いもしなかった。
豆を挽き終わったので、僕は立ち上がり、台所へ向かう。前もって沸かしておいたお湯と、暖めた二個のマグカップ。ドリッパーの準備も万端だ。
ミルから挽いた豆を取りだし、あらかじめ湿らせた、ペーパーフィルターの中に投入する。水平になるよう二、三度ふるいうようにドリッパーを動かし、中心にお湯を少しだけ注ぎ込み、豆を蒸らしていく。
そういえば、前にルイが、「僕にもやらせておくれ」なんて言った時があった。あの時は何とも水っぽいコーヒーが出来た気がする。
そんなに古くない思い出に苦笑いしているうちに、コーヒーが完成した。
〝二人分のコーヒー〟を手に、リビングへと戻った僕は……。
「……ああ、もう一人分でいいんじゃないか」
なんて、当たり前の事実に気づいた。習慣とは恐ろしい。
何となく、いつもあいつが座っていた場所に僕が座る。マグカップの一つは床に置き、もう一つは僕が 持つ。
「……うん、うまい」
毎回やけに褒めてくる奴がいないので、僕自身が感想を漏らす。すると、怪物が僕に近づいてきて、隣に腰掛けた。僕に寄り添い、肩に顎を乗せてくる。……ちょっとこそばゆい。
そのまま沈黙が続く。ルイが死んでから、僕達は汐里の車を借りて、こっちに戻ってきた。
今になっても、あの一夜の攻防は現実のものだったのか、僕の中で曖昧だ。
「……ルイは、ちゃんと眠れたかな?」
何となく、一人言。
あの夜。ルイが眠りについた後に汐里は、どうか自分にルイの死に水を取らせて欲しい。と、僕達に頼んできたのである。
「……せめて、最期を看とるくらいはしたいんです。あの女では、やれないことですから」
憂いを含んだ視線で訴える汐里に、駄目だとは言えなかった。僕がゆっくり頷くと、汐里は少しだけ微笑みながら、そっと僕の耳元に顔を近付けて。
「後で埋葬場所は教えます。死体の場所は、出来れば〝人間〟には教えたくないので」
他にも、一言二言、誰にも聞こえないように僕に耳打ちした汐里は、大輔叔父さんと松井さんの方へと一瞬だけ冷淡な視線を向ける。害虫でも見るかのような表情を隠そうともしないまま、汐里は踵を返し、静かに立ち去っていった。
まるで宝物でも抱えるかのように、ルイの死体を胸に、夜の森に消えていく汐里。寂しげで、このまま本当にいなくなってしまうかのような後ろ姿が印象的だった。
もしかしたら、ルイが死んだ瞬間から汐里の心もまた、死んでしまったのかもしれない。その時僕は、何となくそう思った。
「心が、死ぬ。……か」
口で呟きながら、僕は、寄り添う怪物を横目に見る。どこか不安げな瞳で僕を見つめる彼女は、まるで待ちわびていたかのように僕の肩から顎を外すと、静かに微笑んだ。
『その血も。肉も。骨も。心すら、アモル・アラーネオー ススは取り込んでしまうのである』
教授のレポートに記されていた言葉だ。
「……教えてくれ。君は、米原侑子なのか? 怪物なのか?」
かねてからの疑問を、僕は口にする。ずっと、聞けなかった。大輔叔父さんが運転する車の中では、怪物は蜘蛛の姿で僕の肩にいたし、そもそも、ルイに話しかけてから、こいつは再び口を閉ざしてしまったのだ。
だから、僕の言葉に反応するかもどうかも……。
「私は……」
と、思ったが、杞憂だったらしい。たどたどしい口調で、怪物は僕の顔色をうかがうようにして見る。今までにない、少しだけ人間らしい仕草だった。
「私は、ワタシで、私。むかしから、ずっとそう。でも、〝私〟がおおきくなってきたのは、レイを、たべてから」
恥じらうように、指をもじもじさせながら、怪物は告白する。
「ワタシも、私も。レイがほしかった。ほしくて欲しくて、たまらなかった。それだけは一緒だった。だから、ともにいた。レイをてにいれるために」
たどたどしかった言葉が、少しずつではあるが、流暢になっているような気がした。潤んだ目が僕をとらえる。まるで迷子になった、子どものような瞳だった。
これが、答え。桐原や汐里が言っていた事を元にするならば、彼女は怪物であり、米原侑子は、彼女の中で生きている。〝私達〟そういうことなのだろう。子どものような口調なのは、人格が混在しているからなのか、主人格が怪物だから……。その辺が妥当だろうか。
「ルイがお父さんだとは、知ってたの?」
恐る恐る僕が訪ねると、やはり怪物は首を横に振る。そもそも、アモル・アラーネオーススに親子の概念はない。と、汐里は言っていた。それは揺るぎのない事実なのだろう。だが、そうだとしたら、解せない事がある。ルイに向けた最後の言葉。あれは――。
「おとうさん。というものが、最初ワタシはわからなかった。〝私〟は、知ってはいたけど、ふくざつだった。だって……」
怪物は、首を傾げながら、ポツリと口にした。何処までも無表情に、淡々と。
「〝私〟は。いらない子だったから」
米原侑子の境遇は分からない。けど。彼女もまた、愛を知らずに、疎まれながら育ったのだろうか? その言葉を聞きながら、僕はそう思った。
怪物の視線が、床に置かれたマグカップに注がれる。漆黒の瞳が、淹れられたコーヒーをぼんやりと眺めていた。
「白い人は、レイのてきか、味方か、わからなかった。また、レイがうらぎられたらっておもった。だから、こわかった」
「じ、じゃあ、人前で喋らなかったのは? ルイを、お父さんって呼んだのは……」
声が震えているのを自覚しながら、僕は訊ねる。
すれ違い。その事実を寂しく感じながらも、最終的にああやって対話を試みるまでに、いかなる経緯があったのだろうか?
知ることの恐怖はある。けど、僕はどうしても知りたかった。親友の死を知らないままにはしておきたくなかったのだ。
「……レイをたべる、すこし前から……私が、かわっていくのが、わかった。だから、まもらなきゃって、思った。ワタシ自身の本能が言ってる。ふつうとは、ワタシがちがってきている」
怪物は少しだけ口をつぐみ、肩を抱くようにして下を向く。少しずつ語り始めた怪物は、まるで自分自身に戸惑っているかのようで――。
その時。僕は、〝劇的な変化〟を目撃した。
それは、稲妻のような衝撃となり、僕を強かに打ち据えた。
「おとうさんって、呼んであげようって。ワタシの中の私が言った。だから、言ったの。それだけ」
突き放すかのような言葉だった。だけど、残念ながら、それに刃物のような鋭さはない。だって……。
全てを聞く必要はない。そう感じた僕は、俯く怪物をそっと抱き寄せた。
静かに涙を流す彼女を、精一杯包み込むように。
「……レイ?」
「昔の。お返しだ」
無様に泣きじゃくった、いつかの歩み寄った夜。これは、あの時と逆の構図だった。
一瞬だけ身体を硬くした怪物だったが、すぐに僕へ身体を預けてくる。肩に再び、彼女の顎が乗る。……もしかしなくても、この体勢が気に入ったのだろうか?
「……あの時。レイごしに、白い人の力が流れ込むのがわかった。私とレイは、つながってるから」
そんなどうでもいいことを考えていると、怪物が静かに口を開いた。囁くような、綺麗な声。
抱き締めていると嫌でも気づく、柔らかな感触と、さっきから漂ってくるいい匂いにクラクラしながら、僕は相槌をうつ。
「あったかくて。でも、胸をしめつけるような感じがしたの。こうやって、だっこしてもらった時もそう。すごくすごく、あったかかった。あの人の肌は冷たかったのに。暖かかった」
「……そりゃ、そうだろうさ」
父娘だもの。という言葉は、口にしない。ルイの気持ちが確かに届いていた。その事実だけで充分だ。
止めどなく流れる涙を、指でやさしく拭う。怪物自身が、涙の意味も分からないかのように、不思議そうに僕の指を眺めていた。
「はじめてだって。あんな風にだっこしてもらったの。初めてって。〝私〟が言ってた。だから暖かくて。おとう、さんって、そういうものなの?」
「……そうだね。お母さんも。きっとそうさ」
僕が言っても、実体験が伴わないけど、きっとルイもアリサさんも、そんな感じなんだと思う。
いつのまにか、僕の方まで視界が滲んでくる。慌てて目元を拭い、僕はルイがしたように、怪物の頭をそっと撫でる。
進化する怪物。汐里の言っていた言葉が僕の脳裏に甦る。世代を経るごとに、アモル・アラーネオーススはより人間的になっていく。怪物を一方的に殺した桐原達に対して、彼女達は共にあろうという考えに到った。それは果たして、種族として進化しているのか。余計なノイズと見なされるのか。僕には判断がつかなかった。
けど、この胸に残る暖かさだけは、きっと本当だから。だから、これだけは否定したくなかった。
これからどうなるかはわからないけど。僕は……きっと。
「レイ……」
不意に、僕の首筋を、柔らかな指がなぞる。それはやさしくて、それでいてゾクゾクするかのような感触を僕にもたらして。
「あ、あの……ここは、余韻にひたろうよ?」
ひきつった顔になっている事を自覚しながら、僕は怪物から距離を取る。
「白い……お父さんは、暖かかった。レイもあったかい。けど、違うの。レイは、ドキドキする……から。このちがいは……なに?」
怪物が、距離を詰めてくる。僕を離すまいと、白い手が伸びてくる。
チロリと、赤い舌が彼女の唇を濡らす。
お前……絶対分かっててやってるだろ。
「レイ……おなか、すいたよね?」
怪物の瞳が、妖艶で隠微な輝きを放つ。何より、その推測が当たっているのが、ますます救いようがなかった。
抗いようもない飢えを自覚した時。僕に逃げる術はなく……。
分かってはいたことだった。これから僕は、この身体を受け入れて、彼女と共にあるしかないのだから。
怪物の白く美しい首筋に、そっと口付ける。こうしてまた少し。僕は人間だった感覚を忘れていくのだろう。
蕩けるような快楽に身を委ねながら、僕は自嘲気味に笑う。悲しくても、そんな時ですらお腹は減るのだ。
※
事が終わり、僕はベットに仰向けのまま、ぼんやりと天井を眺めていた。辺りは既に薄暗い。
互いの血を吸い合ったせいで、シーツが汚れてしまった。染みにならなきゃいいけど。
そうぼやきながら、僕は静かに、傍らで眠る怪物を見る。
穏やかな寝顔だった。眠る直前、「ありがとう。ちょっと元気でた」と、微笑む彼女。一瞬だけ見とれてしまったのは内緒だ。ただ、彼女もルイの死をまだ引きずっている。という事実が、僕に少しの安心を与えたのは確かだった。
ふと、床に置いたままの、マグカップが目に止まる。コーヒーは、完全に冷めてしまっただろう。
「ルイ……」
今は亡き、友人の名を呼ぶ。今も、油断すれば涙が出そうになる。我ながら軟弱だとは思いながらも、こればかりは仕方がなくて……。
「……っ、そうだ!」
慌てて僕は起き上がった。気配に驚いたのか、怪物がビクリと、肩を震わせる。
「あっ、ごめん。ちょっと電気つけるよ!」
謝罪もそこそこに、僕は部屋の照明を付け、マグカップの傍へ行く。思い出したことがあったのだ。
『それと、君の部屋に、あるものを残してきた。きっと役に立つから、活用してくれ。ヒントは、僕がいつも座って いた場所だ』
ルイがいつも腰掛けていた場所。間違えようがない。本棚の前だ。
「……これ。か?」
ルイが買い漁り、積み上げた書籍の中に、妙なものが混じっていた。
いかにも手作りですと言わんばかりの冊子に、『レイ君へ』と、走り書きがしてある。
流行る気持ちを抑え、僕はそれをゆっくり開く。すると――。
「何と言いますか、最後の最後まで、用意周到な男ですね」
背後から、鈴を鳴らしたような、聞き覚えのある声がした。
「……っ!」
振り向いた先に、見知らぬ女がいた。ショートボブの髪は、見事なプラチナブロンド。目は燃えるような赤。肌が異様に白いせいで、目元の隈がいやに目立っていた。
服装は、スーツに白衣。首から下は理科の先生と言っても差し支えのない出で立ちだった。
「もしかして……汐里、なの?」
恐る恐る僕が訪ねると、、女は歪な笑みを浮かべる。
「おや、イメチェンに気付いていただけるなんて感激ですね。カラーコンタクトに、白粉もしてるんです。似合いますか?」
黒い手袋を嵌めた両手を広げ、汐里は首を傾げる。
似合うも何も、その姿は、特定の誰かを意識しているようにしか見えなくて……。
「……なんの用?」
怪物が、あからさまに不機嫌そうな顔で汐里を睨む。手は既に鉤爪に変化している。剣呑な視線を、汐里は〝彫像のような笑み〟で受け流す。「随分と人間らしくなったではありませんか」と、痛烈な皮肉を挟みながら、汐里はいつかのルイのように、本棚の傍に腰掛けた。
「少し、挨拶に。それから、ある提案をしに来ました。これは、ルイの遺言でもあります」
僕が手に持つ冊子を見つめながら、汐里は目を細める。一瞬考え込むような仕草をみせてから、汐里は言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「レイ君。私としばらく、行動を共にしませんか?」
刹那の空白。頭の中で、何度か言われた事を繰り返す。なるほど。わからない。
「……どうして、そんな提案が出てくる?」
「遺言だと。言ったではありませんか。ああ、変に警戒しなくていいですよ。つれていくのは貴方だけではありません。当然、その子も一緒です」
未だに不満げな顔を隠さない怪物を一別してから、汐里は微笑んだ。
「レイ君。怪物の力はルイによって開花しましたが、まだ上手く扱える訳ではないでしょう? ですから、私が貴方に使い方を教えて差し上げます。勿論、条件付きですが」
妖しげな光が、血色の瞳に宿っている。何を企んでいるのかは、読む事は出来なかった。
怪物の方に、視線を向ける。漆黒の瞳は、今は僕だけを映していた。
「……条件を、聞きたい。それ次第で考える」
「いいですよ。信頼は大事です」
物凄く胡散臭い返答に、思わず額に皺がよるが、今は置いておこう。どのみち、今のままではダメだというのは、僕にだって分かる。能力を分からないままにしておくのは、あまりにも危険だ。
「さて、何から話しましょうか……」
両手を合わせながら、汐里は呟く。その表情はどこか楽しげで。さっきから僕の後ろで無言の圧力をかけてくる怪物の存在も相まって、僕は思わず溜め息をついた。
「……大丈夫かな」
※
結論だけを述べるなら、僕は汐里の条件を飲み、彼女の元に師事することとなった。
彼女の条件は、逆に疑いたくなるくらい単純で。僕は終始警戒し続ける事になるのだが、ここで語る必要はないだろう。
彫像のようでいて、どこか壊れたような笑みを浮かべる汐里。彼女の真の目的を知ることになるのは、意外と近い未来だったのだ。
その出来事は、怪物として生きる僕の道が、本当の意味で決まった瞬間となった。それだけは確かだ。
それは、今までに比べたら小規模で、命の危険はないものだった。
だけど、何よりも歪で、陰惨で。救いようもない狂気に満ちた、恐ろしいものだったことは紛れもない事実で……。
そうして、厳しい冬がやってきた。鍛練の冬。ある意味では、試練の連続とも言えるだろう。
準備があるからと、一度汐里が姿を消してから、一週間後。
世間を賑わした、〝あるニュース〟に隠れるようにして。僕こと遠坂黎真は、その日を境に表舞台から姿を消すことになる。
箒星が空を這う夜。僕達は旅立ったのだ。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!
謎めいた幕引きとなりましたが、第四章は、これにて終幕となります。
残るはエピローグ。『名前のない怪物』へと入っていきます。が、その前に番外編を一話挟んでからとなります。本日深夜、更新予定です。それも楽しみにして頂ければ幸いです。
エピローグは、
序『小野大輔の奔走』
破『最後の悲劇』
急『本当の怪物』
最終話『永い前日譚の行方』
の、計四話と、なります。最後までお付き合い頂ければ幸いです。
第四章は、全ての謎の解答と、レイと怪物――その 行く末をテーマに執筆しておりました。
エピローグでは、つがいとして落ち着いたレイ君たち。そのこれから。つまりは『未来』をテーマに書き、物語の幕とさせて頂きます。楽しみにして頂ければ幸いです。
最後に。いつも読みに来ていただいている皆さん! 評価・感想をくれた皆さん! お気に入り登録やレビューを書いてくださった方々! 本当にありがとうございました! 応援して頂いている全ての皆さんに特大の感謝を!
今後もどうぞ宜しくお願いいたします!
ではまた……。




