88.さらば、友よ
諦めたかのような言葉を漏らしながら、ルイは弱々しく手足を開閉させ、肩を竦めた。そこを頑張れよ! なんて理不尽な台詞が喉から出かかる。うまい言葉が見つからない僕を少しだけ見つめてから、ルイの赤い瞳がゆっくりと動いた。その視線は僕らの斜め後ろ。汐里にそそがれている。
「汐里」
「嫌です」
「……だよね」
予想していたというようにルイは溜め息をつく。残念そうな溜め息をつくルイを、汐里は親の仇と言わんばかりに睨み付けた。
「……ぶっ殺してやろうと何度も誓ったのに。いざこうなってみると、震えている自分がいるんです」
「うん、だろうね。君が奴隷達を差し向け、直接僕と戦いたがらなかったのも、僕の死を目の当たりにしたくなかったから……だろう?」
「……そこまで分かってて……貴方は私に頼み事をするのですか?」
唇をワナワナと震わせながら、汐里は歯軋りする。その姿を、ルイはどこか哀しげに見ていた。
「頼れる人が、もはや君しかいない」
「……酷い男ですね。私には何もくれなかったのに! あの女しか眼中にないくせに! こんな時だけ頼るんですか!?」
「……君にあげられるだけのもの、僕はもう持ってないんだよ。頼むことしか……出来ない」
酷い。と、涙声で何度も繰り返し呟く汐里。いたたまれなくなるような、気まずい沈黙が続く。説得は不可能かと思ったのか、ルイは僕達の方へ向き直った。
「レイ君。君の力は、とても強い。鍛えれば、きっと全盛期の僕を越えられると思う。能力とかに関するものは、君の身体を借りた時、大方開花させた。後は練習あるのみだ。最初は辛いだろうけど、頑張るんだよ」
「……ルイ」
何か、話したい。けど、頭が追い付かなかった。
「それと、君の部屋に、あるものを残してきた。きっと役に立つから、活用してくれ。ヒントは、僕がいつも座っていた場所だ」
「……待てよ」
鼻が苦しい。花粉症ではないのに、鼻が詰まっているようだ。
止めてくれ。こいつ自身が言っていた事とはいえ、まだ僕だって受け入れた訳ではないのだ。
「ありがとう。君と、その子と一緒に、たとえ一時とはいえども一緒にいられて、僕は幸せだった――」
「待てって、言ってるじゃない……か……!」
歪む視界。頬を止めどなく伝う滴。顔をくしゃくしゃにして頑張ったのに、もう限界だった。親しくなった人がまた一人。僕を残して逝ってしまう。兄さんが。純也が。京子が。その上で、今度はルイまでいなくなるのか。
「泣くな、レイ君」
困ったような笑顔で、ルイは呟く。それはまるで、幼子をあやす父親そのものだった。
「何で、死んじゃうんだよ……! 君に聞きたいこと、まだまだいっぱいあるのに……!」
「アモル・アラーネオーススの真実は告げたよ。取りこぼしはない筈。あのレポートは……」
違う。そうじゃない! そんな叫びは、嗚咽に掻き消される。泣きながら首を振る。
それはもういい。そんなことよりも――。
「僕は……君の事をもっと聞きたいんだ」
赤い瞳が、少しだけ見開かれた。一緒にいたのは、二ヶ月程。だけど、僕は、彼のエピソードなんて、断片的にしか知らないのに。
もっと話がしたかったのに。
親友になれたと、互いに思えたばかりなのに。
こんな別れ方……。
「あは……君は、僕を喜ばせるのが上手いなぁ」
楽しげに笑いながらルイの手がそっと僕の頬に伸びる。涙を優しく拭う指は、どこまでも白く、死人のように冷たかった。
「一緒に守れなくてごめん。……あの子を頼むよ。大丈夫。君は強いからね。きっと大丈夫だ」
それだけ告げて、もう一度僕に笑いかけると、ルイは怪物を見る。怪物は、顔を伏せたまま、その表情は見えない。それでもいい。そう言うように、ルイは微笑むと、静かに目を閉じて……。
「待ちなさい」
冷たい声が、割って入る。汐里だった。その瞳は涙で揺らぎながらも、眼光は尚も鋭いままだった。
「最後まで。飄々と死ぬ気ですか? そうはさせません。させるもんですか」
ギリギリと歯を鳴らしながら、汐里はそう宣う。
彼女はつかつかと怪物の元へ歩み寄ると、その背中を軽く小突いた。
「爆弾を落としてやります。さぁ、隠す必要はもうないでしょう? この男は、〝脅威〟ではないのですから」
イライラしたような、汐里の声。
それに呼応するかのように、怪物はゆっくりと顔を上げ、〝まっすぐルイを見た〟
「……おとう、さん」
「…………へ?」
怪物の口が、ゆっくりと、その言葉を紡ぐ。その途端、ルイの顔が、凍りついた。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔。どんな顔だと常々思っていたのだが、それはきっと、こんな顔に違いない。
どうして? そんな顔をするルイを、怪物は戸惑ったように見つめて。そして……。
「……おとう、さん?」
首を傾げながら、また呟いた。
囁くような、綺麗な声だった。
※
満足だ。そう思っていた。
思い残すことなく、逝けると、静かに目を閉じた筈だったのだ。
その出来事は、明星ルイには文字通り、爆弾だった。
「おとう、さん」
たった五文字。
それだけで、ルイの中で何かが壊れた。
下手な理屈も、今は必要ない。どうして? という疑問も、捨ててしまおう。
望まなかった訳ではなかった。だが、不可能だと諦めていた。だから、一方的でもいいからと、愛した娘からのその一言は、ルイには衝撃的すぎて。
「あ……え?」
気がつけば、ルイの両目から涙が流れていた。
頬を濡らすそれに戸惑いながらも、ルイは少女を見上げる。少女自身も距離を取りあぐねているかのように、指を胸の前で組み、目をパチパチとしばたかせている。
「……ほら、何してるのさ」
そう言いながら、少女を背後から押しているのは、ついさっきまで泣きじゃくっていたレイだった。
鼻をすすり、目を潤ませながらも、レイははにかむような笑顔を見せている。笑うこと自体少なかった彼の珍しい表情。そして……。沈黙したまま、首を傾げる少女は、彼女のつがいに導かれるまま、ルイの傍に腰を下ろした。
しばし見つめ合う、父と娘。見た目は歳も近いのに、不思議だな。何て事を思いながらも、ルイは静かに口を開く。
思いの外、その言葉はあっさりと紡がれた。
「ごめん、よ。もしよかったらでいいんだ。少しだけ、抱き締めさせてはくれないかい?」
涙を拭いもせず、ルイは静かに手を伸ばす。つがい以外からは、触れられるのすら拒む少女。自分の手も、やはり弾かれてしまうだろうか? そんな懸念は一瞬で。少女の怪物は、ルイの抱擁を受け入れた。
びっくりするほど細い身体。そして何より、伝わる暖かさが、少女の命を物語るかのようで。決して触れられる筈もなかった娘の温もりを、ルイはしっかりと噛み締めていた。
「アリサは……君のお母さんは、僕をこうして抱き締めてくれたんだ。僕の寂しさを見透かしたようにね。まぁ、それ以上に僕が彼女を抱き締める機会の方が多かったけど。彼女、〝後も先も〟甘えん坊さんだったから」
確かに幸せだった時を思い出しながらルイはポツリ。ポツリと語り始める。怪物は、何も答えない。
「レイ君も、これから寂しくなるときが来るかもしれない。山城京子が言うみたいに、ズレが生じるかもしれない。けど。それでもいい。最後に仲直りできるなら。二人で幸せに笑える……なら」
頭の中を青い光が弾けた。擦りきれた映像のように、ルイの視界が暗くなっていく。
まだ。まだだ。もう少しだけもってほしい。
「だからね。レイ君が苦しいときは、抱き締めてあげてほしい。逆に君が苦しいときは、レイ君に思いっきり甘えるといい。いつも以上にね」
視界の端で、レイがひきつった顔になっている。彼も大概素直じゃないなぁ。なんて思いながらも、ルイは心配していなかった。何だかんだ言いながら、受け入れるレイが容易に想像できた。
「君は……僕の希望だった。君がいたから、僕は今日まで生きてこれたんだ。だから……」
まだまだ話していたいのに、瞼が重い。
限界を悟ったルイは、娘を抱き締めたまま、その頭をそっと撫でた。こんなにも愛しいぬくもりを、最期の瞬間まで、忘れぬように。
「産まれてきてくれて、ありが……とう」
身体の力が抜けていく。
目を閉じたルイは、迫る眠気に抗わなかった。
こうして徐々に、自分の命は消えていくのだろう。恐怖はない。未練も……ない。とは言い切れないが、ルイは概ね満足だった。
「ありが、とう。……ばいばい。おとうさん」
自分に回された、細い腕。耳元で微かに聞こえた、優しい声。ルイにとっては、それだけで充分幸せだったのだ。
真っ暗な筈の脳裏に、懐かしい姿が浮かび上がった。幻覚なのかは分からない。走馬灯とも違う気がするが、ルイにはどちらでもよかった。
そこにいたのは、小柄な女性だった。
しなやかな肢体と、外側にカールした色素の薄いショートヘア。
のんびりとした雰囲気を纏いながらも、芯が強いことをルイは知っている。
その人は、自分が愛し、愛された女性なのだから。
「やっと君に、逢いに逝けるね……アリサ」
彼の呟きを、誰かが聞くことはない。こうして、白い怪物は終焉を向かえた。
怪物でありながら愛を貫き、愛に殉じた。
酷く奇妙で。歪で。それでいて美しい愛。彼は最期までそれを胸に抱き。眠るようにして旅立ったのである。
※
生存をかけた闘争は終わり、僕らは生き残る。ただ、それにはあまりにも大きな代償を伴ったが。
「ルイ……!」
もう動かなくなった、友を見る。怪物に抱かれ、どこか安らかな寝顔を見せる彼に誓いを立てるように、僕は拳を握りしめる。
彼の最期の言葉を噛み締めながら、僕はチラリと汐里を見る。
汐里は、唇を噛み締めたまま、うつむいていた。それはどことなく、迷子の子どもを思わせた。
やがて、汐里は静かにため息をつくと、僕の方へ向き直る。
「レイ君。私から……お願いがあります」
未だにルイを抱き締める怪物と、僕を交互に見ながら、汐里は口を開いた。
深い哀しみを宿した彼女の瞳は、いつも以上に虚ろだった。




