87.それぞれの死別
院生時代。桐原康介は、唐沢汐里を一目見た時から、彼女が欲しくて堪らなかった。
顔色こそ悪いが、凛として美しい女。その目を虚ろに濁らせることが出来たら、どれ程の快感を味わえるだろうか? 細首を力一杯締め上げ、喉を破壊する寸前まで持っていけたら、どんなに気持ちがいいだろう? そんな考えばかりが頭に浮かんでいた。
インドア派の女だ。落とすのは簡単だろうと桐原は思っていた。
ところが。彼の予想に反して、汐里は桐原の誘いに乗ることは一切なかった。過去の恋を引きずっている故か。それとも別の理由か。なびく様子を見せない汐里に桐原が苛立ちを隠しきれなくなっていた頃。チャンスは訪れた。
この世の常識を越えた存在との邂逅。
その力を使えば、汐里はきっと自分のものになる。そう確信していた。だというのに……。
「この日がくるのを……どれだけ待ち望んだか。貴方を殺すこの瞬間を……」
ヒュー、ヒューと、壊れかけた汐里の喉が異音を漏らす。興奮したように目を血走らせ、汐里は倒れる桐原の脚を踏みつけた。
「よ、よせ。俺を殺せば……お前も死ぬぞ!」
「生憎ですが。貴方に食べられたあの日から、私はとっくに死んでるんですよ」
そう言いながら、汐里は懐からナイフを取り出す。
おかしい。
桐原はますます混乱する。そもそも汐里は、あの拘束から、どうやって逃れたのだろうか。今持っているナイフだって、さっきまでは持っていなかった筈……。
桐原がそこまで考えた所で、前触れもなくナイフが突き立てられた。
わざわざ桐原を仰向けにして、鎖骨の下へと潜り込ませるように。
「あぎっ! がひゅ……!」
刺された痛みと、塗り込まれたオリーブオイルによる虚脱。その相反する感覚が、桐原の意識をおかしくしていく。
グリ……グリ……と、いたぶるようにナイフを動かす汐里は、唇を舌で濡らしながら、静かに。妖艶に微笑んだ。
「あの時とは、逆ですね。貴方は泣き叫ぶ私を縛り付けて、まるで楽しむように。……ああ、あの時は、貴方であって貴方でありませんでしたか。でも、どのみちそうするつもりだったのでしょう? 貴方に犯されているとき、貴方の思念が流れ込んでくるようでした。……ああ本当に」
一度言葉を切り、汐里はもう片方の手を振り上げ、桐原の喉笛を殴りつけた。掠れた呼吸を漏らしながら、汐里は目に憎しみをたぎらせた。
「気持ち悪くて、へどが出ます」
桐原の顔から、血の気が引いていく。
どうあっても自分は助からない。その現実を突きつけられた桐原は、もはや怪物の風格はなく。その様は、復讐者に追い詰められた、哀れな人間そのものだった。
「汐里ぃ……俺は……」
「……もう、しゃべらないでくださいな」
せめて最期にと、口に出しかけた言葉は、汐里が桐原の喉笛に喰いつく事で、意味を成さなくなる。
自身の血が、命の源たる体液が吸いとられていくのを感じながら、桐原はぼやける視界の中で、一人の男を見た。
別館実験棟から歩いて来る影。それは、桐原にも見覚えがある人物だった。
松井英明。汐里が警察から情報収集する片手間で、奴隷として誘拐した男。
そういう……事か。すべてを察した桐原は、もはや笑うしかなかった。
桐原がレイと戦闘し、大輔がルイを護衛している間に、英明は汐里を救出しに行っていたのだ。
汐里はこのまま捉えられる事を良しとはしない。必然的に、レイ達の味方に回る。ルイはそれを予測。いや、期待したのだ。
身体が、痙攣し始める。対象の命を考慮しない吸血は、徐々に桐原の意識を朦朧とさせていく。
もはや、これまでだった。汐里を力で操る事は出来る。だが、それをすれば、桐原はレイか、あの少女の怪物に止めを刺されることだろう。
どのみち死ぬならば、恋い焦がれた者を見つめながら……。
視界が、唐突に真っ暗になる。汐里が、手で桐原の目を覆っていた。刻み付ける事すら、許さないと言うように。桐原は彼女の姿を拝むことも叶わなくなった。
汐里は最後の最期まで、屈する事はなかったのである。
全く、可愛くない女だ。
内心で苦笑いをこぼしながら、桐原は目を閉じる。浮遊するような感覚に身を委ね、だがそれでいい。と、独白を漏らす。
共に生きれないのは悲しいが、彼女が少しでも生き延びる糧となれるなら……。
そうして、牡の怪物は一人。終焉を迎えた。全てを奪い、つがいとなった女の牙で。自身の命を吸い尽くされて。
※
桐原が汐里に襲われているのを尻目に、僕は少し離れたところへ目を向けた。身体を引きずるようにしてこっちにくるのは、今や虫の息と成り果てた、京子の姿だった。
「レイ……くん」
おぞましかったソプラノも、今は弱々しい。潤んだ目で、京子は地に伏したまま、僕を見上げた。
「お願い……あたま、撫でて……」
甘えるように、京子が言う。だけど、生憎僕はそれに騙されることはなかった。背筋を伝う、ざわざわとした感触。何より、京子の片手は、この期に及んで鉤爪のままだった。
「……京子、僕は」
「……流石に学ぶかぁ。あ、私は、謝らないよ。私悪いことしてないもん」
少しだけ残念そうな顔を見せてから、僕の心を見透かしたかのように、京子が首を振る。
罪を償って欲しかった。死ぬことではなく、生きて。けど、京子が怪物になった事で、それは叶わなくなった。
「レイ君の血。飲めば多分回復すると思うな。飲ませてよ」
「飲んでどうするのさ」
「……ん。また、レイ君を追いかける」
やっぱりか。がっくりと項垂れたくなるのを押さえて、僕は溜め息をつく。
仮に京子を回復させ、警察につきだしたところで怪物の力を持ってすれば、彼女はたちまち脱獄してしまうだろう。
かといって、僕がずっと京子を抑えておく訳にもいかない。京子の標的は、僕だけではない。怪物――。彼女もまた、命を狙われる事になる。
「あたしに罪を償わせたいなら、あたしを生かしてよ。あたしにだけ、レイ君を捧げて?」
ケラケラと笑いながら、京子は焦点の合わないまま、瞳を動かし続ける。もう、目も見えていないのだ。
「ねぇ、レイ君? ねぇってばぁ……」
猫撫で声で、京子は手を伸ばす。僕は、その手を掴むわけにはいかなかった。
沈黙する僕に、何か感じるものがあったのだろうか。死の淵にいた筈の京子が、次の瞬間、突如立ち上がった。
「返事してくれないなら……あたしのものにならないなら……もうこれしかないじゃない!」
ぎらつく視線は、怪物の方へ。殺意をたぎらせ、京子は吼える。
「目が見えなくたって、匂いでわかんのよぉ! 甘ったるい香り出しやがってぇえ!」
最期の一撃とばかりに、京子は力なく、鉤爪を振るう。
スローモーションのようにも見える動きだった。そして――。肉に何かが突き刺さる、嫌な音が響き渡った。
「……君は、どこまでも君なんだね」
「……そう、よ。これがあたし。誰にも否定はさせないし、誰にも。笑わせない……わ」
そして、その時は訪れた。
僕の鉤爪に左胸を貫かれながら、京子は呻くように。囁くように呟く。自分に死を運ぶ傷痕を、どこか愛しげに眺めながら、京子は脱力するかのように息を吐いた。
そうくると、わかっていた。だからこそ、僕は怪物と京子の間に割って入れた。もしかしたら、怪物ならば、京子をいとも簡単にあしらい、殺すことが出来たかもしれない。だけど、何となくだが、それをさせるのは嫌だった。僕がやらねば。そう思った時、気がつけば身体が動いていた。
幾度も僕達を追い詰め、牙を剥いてきた京子。それが今は、僕の腕に寄りかかるようにして、借りてきた猫のように大人しくしている。
手のひらの中で、微かに感じる拍動。京子の心臓は、捕らえられて尚、生きようと動いていた。
「あの女を選ぶのね」
「……うん、もう決めた」
「……じゃあ、呪ってやるわ」
地の底から沸き上がるような声で、京子は宣言する。悪意に満ちた目の光が、不気味に揺らめいた。
「レイ君は、もういない。だってもう、怪物になっちゃった。あの白い人は死ぬ。キリィが死んじゃった以上、シオリンもきっと長くは持たないわ。貴方は、一人よ。大輔叔父さんの元にだってもういられない。残るのは、あの女だけ」
嘲笑を交えながら、京子は虚空をあおぐ。
「二人で何とかなるなんて、幻想よ。レイ君は元々人間。その女は怪物。同じようで、違うのよ。いつかきっと、ズレが生じるわ。楽しみね」
僕の肩を掴もうとしているのか、京子の手が、僕の身体をまさぐる。
背後で怪物が動く気配がした。多分不機嫌そうな顔で、鉤爪を構えているのだろう。僕はそれを、片手で制する。
「もう。止まらないわ。この爪を引き抜いた時、レイ君は終わる。本当の意味で怪物になるの。だから……」
京子はチロリと、唇を舌で濡らしながら、淫靡な表情でこう告げた。
「思いっきり、痛くして。銃や他の人の手なんか借りないで。レイ君は、私を殺す感触を、その手に残すのよ。そうすれば、レイ君は嫌でもあたしの事、忘れないでしょう?」
それは、まさに呪いだった。死が確定した京子の、最後の芸術。それは、最期まで僕を否定することだったのか。それとも……。
「……そうだね」
頭にチラリと過った考えを、放棄する。それを今考えても、多分仕方がないし、どうにもならないだろうから。
目をそらさず、京子を見つめる。僕の手が、弱々しく鼓動を刻む京子の心臓を、しっかりと握りしめた。
「きっと、僕は……君を忘れない。忘れられないんだろうね」
数秒後。僕の手の中で、柔らかなものが弾けた。
結局。僕は彼女に、一度も勝てなかったのだ。最期まで自身を貫き通した京子。
あの弱々しい一撃は、本当に僕の全てを奪うためだったのか。僕に終わらせて欲しくて、それでいて、僕に文字通り取り憑くためだったのか。今となっては分からない。ただ。
「卑怯だ……畜生」
唇を噛み締めながら、僕は悪態をつく。
僕が心臓を握り潰す瞬間――。京子は、まるで憑き物が落ちたかのように、微笑んでいたのだ。どこか穏やかで、満足気に。
皮肉にもそれは、殺人鬼や怪物としての悪辣な笑みではなく。かつて僕が大好きだった、太陽のような笑顔だった。
※
ゆっくり、京子の身体から手を引き抜き、僕は脱力したかのように溜め息をつく。手が、服が、血塗れだった。鼻につくその臭いに、顔をしかめようとは思わない。寧ろ……。
一瞬浮かびかけたおぞましい考えに、僕は慌てて首を振る。それは……ダメだ。
何故か渇く喉。立て続けの戦闘という名の非日常は、僕の精神を確実に蝕んでいたらしい。
ふらつく脚を何とか支え、僕は後ろを見る。
怪物は、無表情のまま、僕の血染めの手を見つめていた。心なしか、目が冷たい。何故だかは分からないが。
「貴方の手に、他の女の血がこびりついているのが、気に入らないのでは?」
鈴を鳴らすような声。視線の先には汐里と……。
「う……わ」
思わず息を飲むような光景があった。
ズタズタにされた四肢。ぶちまけられた腸。そして、踏み砕かれた頭部と、その残骸に混じった……あれは、脳みそだろうか。割られた頭骨に、ベットリとそれらしきものがこびりついている。
無惨にも破壊し尽くされた残骸が、誰の成れの果てなのかは、考えなくてもいいだろう。さっきまでいた人が、一人消えていた。つまりは、そういう事だ。
「流石に撃ち抜いてやりたかったが……。直線上にレイ達がいたからな」
「俺としてもこの女には言いたいことや聞きたい事がたくさんあるんですけどね。流石に近づけませんでしたよ。命は惜しい」
消え入るような声で、ショットガンを担いだ叔父さんと、拳銃を握る松井さんが言う。二人分の批難混じりの視線を受けながらも、当事者たる汐里は涼しい顔のまま、歪な笑みを浮かべる。
血の他にも、色々な液体で汚れた白衣を着る女。……流石に近寄りたくなかった。
「ふぅ……何だか柄にもなく、はしゃいでしまいました。まだ女の子な部分が、私にも残っていたんですね」
「男一人を丸々解体する女の子がいてたまるか」
汐里のズレた発言に、僕は思わず反論する。
体液を根こそぎ抜いて、その上で木っ端微塵にするなんて。悪魔の所業としか思えない。
いや、僕も人の事は言えないか。理由はどうあれ、僕は……。
「何かを得るために人は何かを犠牲にします。綺麗事を並べて取り返しのつかないことをするよりは、自らの手を汚せる人の方が、よっぽど好感が持てますよ?」
僕の心中を察したかのように、汐里は肩を竦めながらそう言った。慰めてくれている? いや、違う。目が、愉悦で輝いていた。僕が葛藤する様を見て、喜んでいるのだ。
「レイ……」
ふと。太く、重たい声がした。どこか厳しい顔をした、大輔叔父さんだ。視線の先には、京子の死体があった。
「人として逮捕は出来なかったが……あれが人里に解き放れていたら、それこそ大混乱だ。そういう意味では未然に事件を防げた訳だが……何とも複雑だ」
僕の手が汚れた事を言っているのだろうか。それとも、それに加担せざるを得なくなった事か。叔父さんとしては両方あり得そうだ。
「後で……埋葬してあげてもいい?」
それくらいしかしてやれない、僕の情けない提案に、少しだけ渋った様子を見せた叔父さんだったが、やがて、ゆっくりと頷いた。が、すぐにまた、難しい顔になる。
「まぁ、山城もそうだが、今はお前にとって、無視できないであろうものが、もう一つあるが……な」
そう言いながら、叔父さんは「小難しい議論は後回しだ。今は……行ってやれ」と、僕の背中を軽く叩く。
静かに頷きながら、僕は進む。
ジロジロと、僕と怪物を交互に見る松井さんの視線。それを潜り抜け、汐里の前を通りすぎる。
汐里は、顔を伏せていて、その表情は見えない。
怪物は、さも当然のように、僕の後ろをついてくる。
たどり着いたのは、最初で最後の、共闘を演じた男の前。
僕が来たのを確認すると、そこで木にもたれ掛かっていた人物は、ゆっくりと顔を上げた。
「勝ったよ。色々失ったけど」
「……うん」
「生き残れた」
「……ああ、安心したよ。これで、思い残すことはない……かな」
「……っ」
白い怪物が弱々しく答える。そのあまりにもらしくない様を見て、ツンとした何かが、喉をせり上がっていく。僕の顔は、きっと今、くしゃくしゃになっている事だろう。
そんな僕の様子を見て見ぬふりしているのか、おどけるように笑いながら、そいつは、僕と怪物を交互に見る。優しい、眼差しだった。
「わがままを言うならば、もう少しだけ、君とその子を見守っていたかったんだけど……どうやら無理みたいだ」
そう告げた白い怪物――。明星ルイは、力なくも、確かに〝微笑んだ〟




