8.閑話・ある男の考察
「松井さん、入るよ。検死の結果どうだった?」
陰鬱な雰囲気が漂う鑑識室で、声が響く。徹夜で作業をしていた松井英明は、その声にゆっくりと振り向いた。
視線の先には、上等そうなスーツを着込んだ中年の男が立っている。捜査課の小野大輔刑事だった。
「や、小野さん。ご苦労様。どうもこうもないですよ。こんな不可解な仏さんは初めて見ました」
英明は挨拶と共に肩を竦めながら、昨日の女子高生の死体を思い出し、顔を顰める。
死体は、殆んど原型を留めておらず、加えて、内臓がそっくりそのまま無くなっていた。
ニュースでは持ち去られたとだけ報道されたが、実際の現場は凄惨そのもの。周りは血の海で、手足は薄い皮でつながっているのみ。内臓だけでなく、一部の骨も削ぎとられており、まるで、獣が食い散らかした跡のような惨状だった。
鑑識の経験上、死体はたくさん見てきたが、あんなにも不気味な死体を見たのは、英明も初めてだった。
「死因は恐らく出血多量による失血死。凶器の痕跡はもの見事に潰されている上、その下の内臓まで無いんじゃ断定は出来ないですけど、まず間違い無いでしょう」
英明は一呼吸いれ、ペットボトルのお茶で喉を潤すと、大輔は訝しげな顔で此方を見る。
「現場では、殺害した後に、何らかの獣に死体の傷口を食べさせたのでは、なんて声まであがっていたが……」
「う〜ん、突飛な話ですけど、一番現実的な推測ですね」
英明は写真を一瞥した後、改めて大輔の方へ向き直る。
「まず、現場の路地裏に残された血の量からして、別の場所で殺害、内臓を抜き取り、あの場所に遺棄した。と、いう線は低いでしょうね。あの女子高生は、十中八九、あの場所で殺されたんです」
「やはりか……」
「ええ。ただ、ここで問題になってくるのは、どうやって全ての内臓を引きずり出し、挙げ句、脳まで取り出したのか。いくら手際のいい殺人者でも、一人で全ての内臓を取り出し、持ち去るだなんて不可能です」
「となると……複数犯?」
「ええ、そう考えるのが一番自然です。後は凶器の特定を防ぐため、大型犬でも用意して、傷口を潰した」
英明は指を鳴らしながらいかにもな推理を披露した後、鼻を鳴らす。
「ただ……残念ながら、この推理はありえません」
「何……?」
不思議そうな顔をする大輔に英明は肩を竦める。
「そう思って調べたんですよ。けど、現場にも、死体からも、そういった動物らしき痕跡は見つかりませんでした。かといって、あの獣が食い荒らした跡のような傷口を、どうやって作ったのか。仮に出来たとして、内臓を持ち去った理由は? あの女学生に、どうしてそれだけの人間が群がったのか? 目撃者は?」
「オイオイ……なら……」
「はい。恥ずかしながら、分からない事だらけなんです。いたいけな女学生を、こんな無惨な状態にした方法も、動機も何もね。幽霊か怪物にでも襲われたんですかね?」
冗談まじりで英明は笑い、検死結果の資料を大輔に手渡す。
大輔はそれを無言で受け取ると、
「取り敢えず身辺を洗おうかと思う。何か分かったら、また連絡してくれ」
とだけ言い残し、部屋を後にしていった。
一人部屋に残った英明は煙草に火を点け、天井を仰ぐ。
「……ホント。人間技じゃないよな」
女学生の死体を思い出しながら、英明は身震いした。アレは不可解すぎる。と、英明自身の経験が警報を鳴らしている。
ともかく、他の証拠が出揃うまで座して待つのが適切だろうか。
「必ず尻尾は掴むぜ……ん?」
何の気なしにそう呟きながら、真っ白な天井を見ていると、ふと、何か虫のようなものが、そこを動いているように見えた。
「……蜘蛛か?」
そういえば、作業中も何度か見かけたな……と、思いながら、英明は目を細めてそこを凝視する。が、不思議なことにさっきまで蜘蛛らしきものが這いずっていた場所には、それらしき姿は何もなかった。どうやら気のせいだったらしい。
まぁ、そこまで気にする必要はないだろう。英明はそう結論づけ、小さく欠伸を漏らす。
それよりも、やけに眠い。考えてみれば、徹夜明けだったことを思い出し、英明は苦笑いを浮かべる。仕事に身が入ると、自分の身を省みなくなる。と、先日先輩に怒られたばかりだったというのに、もう無茶をしてしまった。
「……少し寝ますかね。疲れたわ」
英明はぐっ、と背筋を伸ばしながら立ち上がり、仮眠室へ向けて歩き出した。
「……ん? また蜘蛛か? やけによく見るな」
廊下を横切っている小さな蜘蛛を見ながら、英明は首を傾げる。こんなに出てくると、不気味さすら感じてしまう。虫は好きでもなく嫌いでもない。故にそこまで不快さは感じないが、もし女性の職員がこいつらを見かけたなら、きっとうるさいに違いない。
「どっか窓でも開いてるのか? 全く、迷惑な話だ」
不快な気分を抱えながら、英明は仮眠室のドアを開ける。
まあ、知ったこっちゃ無いよな。なんてわりとドライな意見を浮かべながら、英明はその扉を開けてしまった。
「へ?」
その瞬間、視界が何かで覆い尽くされた。
モゾモゾと、顔を、身体を這いずり回る、無数の嫌な感触。
何千、いや、何億。下手すれば、それの何倍もの数のそれは、英明がついさっき、何度も見かけた生き物だった。
「く……も……?」
それが最期の言葉だった。悲鳴をあげる間もなく、松井英明の意識は刈り取られた。