84.対峙の時
沈黙が流れる中、『名前のない怪物』は、目の前の対象を睨んでいた。問い掛けの意味は分からない。ただ、前にいる自身と起源を同じくするものは、どうやら自分達は同じだと主張しているらしい。
同じ……彼らからは起源の気配はしない。既に彼らの手によって、喰い殺されてしまったのだろう。
そこに何の感慨も浮かばぬまま、怪物はそう思った。
だとしたら、彼らの問い掛けは検討違いだ。前提からして違うのもあるが、そもそも自分を米原侑子の名前で呼ぶのは間違っている。その名前は、怪物であって怪物でないのだから。
「ちがう。私とあなたたちは、にている……かもしれない。でも、おなじじゃない」
怪物の言葉に、彼女の前にいた存在――。山城京子と桐原康介は、同時に目を見開いた。
首が二つ。面白い。なんて感想を抱きながらも、怪物は全身に力を込める。
叩きつけられ、砕けて折れた骨が、悲鳴をあげている。もしかしたら、身体のどこかに突き刺さっているかもしれない。
両肩に虫ピンのように貫かれていた、桐原の鉤爪が、ますます深く食い込んでいく。
激痛に苛まれながらも、怪物はこの状況で、あろうことか微笑んだ。鮮血が迸るのも構わずに、怪物は上体を起こした。肩を動かすのに合わせて、ブチブチブチと、嫌な音が響き――。
「あなたたちは……じゃま」
殺意をみなぎらせた鋭利な鉤爪が、京子と桐原の喉笛に向けて、ゆっくり。手招きするかのように伸ばされる。
「――っ! このぉ!」
肝を冷やしたかのような表情で、京子はその凶爪を受け止める。咄嗟の判断で、よく反応できたというべきだろう。だが、怪物は自身の目的を阻んだ京子の手を、そのまま握り潰した。
「あ、ぎ……ぎゃああぁああ!?」
たまらず悲痛な叫びを上げる京子。逃れようともがく京子を逃さぬよう、怪物は更に京子の指を握り込む。ベギ、バギ、ボギと、おぞましい破壊音が響く。鳴き声を上げる京子の横で、桐原は怪物の肩に突き立てていた爪を引き抜いた。
「お痛が過ぎるぞ! お嬢さん!」
振り抜かれた爪は、怪物の手首から先を、いとも簡単に切り落とした。拘束を解いた桐原と京子は、一先ず飛び退き、怪物から距離を取る。
逃がした……。怪物は、少しだけ苦々しく思った。切り落とされた手。当然ながら痛みもある。だが、怪物にとっては些末な問題だった。身体はどうせ元に戻る。いまはそんな事よりも、優先すべきものがあるのだ。
「おい。京子、大丈夫……」
一先ず安全圏まで逃れた桐原は、京子の調子を伺い……。
「お、おい」
思わず、頬をひきつらせた。
「許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない……! 殺してやる殺してやるコロシテヤル……」
顔を伏せているので、怪物からはその表情は見えない。ただ、地の底から這い上がるような声が、ひたすら漏れていた。
それを見た怪物は、無くなってしまった手をもどかしげに振る。再生には、まだ時間が掛かりそうだ。
「……お前、どうやってあの繭から出た? 分からないことはそのままにしない性分なんでね。一応蜘蛛の監視は付けてたんだが?」
互いに牽制しあうような対峙の中、未だ恨み節を唱える京子を無視して、桐原は怪物に話しかける。
すると、怪物は突然何をいうのだと言わんばかりに首を傾げた。
「あとでみんなであそぼう。っていったら、どいてくれた」
「……あのクソ虫共が」
あまりにもあっさりとした裏切りに、桐原は思わず頭を抱える。怪物の心を喰い潰し、屈服させた弊害が、こんな所に現れていた。より怪物に近い方に蜘蛛達が惹かれたのか、はたまた桐原の人望の無さか。
「次の質問だ。俺達とは違うの意味がわからん。お前、何が目的だ?」
どうしてこの人は、さっきから私に話しかけて来るのだろう? 怪物は答えるのも億劫になってきた。まだレイと少ししかお話し出来ていないというのに。
だんまりを決め込む怪物に、桐原はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「……まさかとは思うが。俺達の命か?」
探るような目線を向けてくる桐原に、怪物は答えることなく、ただ微笑んでいた。
純粋なまでに向けられる殺意に、桐原は思わず天を仰いだ。
「やはりわからん。そんな感情がある時点で、お前は俺達と同じ筈だ。違うなどとなぜ言える」
鉤爪を弄りながら、桐原は呟く。それを聞き流しながら、怪物は目を細めた。
同じにされるのは……少し嫌だった。さっき思わず反論してしまったのも、そんな背景があったからかもしれない。
〝私〟は〝ワタシ〟でもあり、〝私〟なのだと。
「キリィ。キリィキリィキリィィイ! いいから! もういいから所有権よこしてよ! 今から殺すの! 半殺しにしてレイ君のとこに持っていくんだからぁあ!」
目を血走らせ、荒々しい息遣いを隠しもせず、京子は唸る。「同志になれるかと期待したんだがなぁ……」などとぼやきながら、桐原は再び首を一捻りする。その瞬間、京子はますます残忍な笑みを浮かべた。
「手……使えないのよねぇ? 好都合だわぁ」
そう言いながら、京子は力強く地を蹴った。握り潰された鉤爪は、殆んど再生していた。一方で、怪物の手首から先は、まだ生えきっていない。白い骨が、うっすらと手の形をとってきたのみ。当然ながら、鉤爪など使えない。
「……っ!」
苦々しげな表情のまま、怪物は跳躍しようとする。しかし――。
「遅いわよぉ!」
怪物が空中を舞う瞬間、京子の手が怪物の脚を鷲掴みにし、力任せにそのまま地面に叩きつけた。
一時的な呼吸困難に陥った怪物は、その場に倒れ伏す。再生しかけている身体に、その衝撃はまさに追い討ちとなり、怪物の身体を蝕んだ。
確かな手応えに気を良くしたのだろうか。京子は獰猛な眼光で、舐め回すように怪物の肢体をねめつけた。
「綺麗な脚じゃない。これでレイ君を誘惑したの? ……曲げちゃいけない方に、曲げちゃおうかぁあ!?」
言うが早いか、京子の両腕に力が込められる。嫌な音を立てながら、怪物の右足が歪められていく。軈て、一際甲高い音を立てて、それはへし折られた。
「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げる怪物。加害者たる京子は、歓喜の表情を隠そうともせず、続けて怪物の腹部へと手を伸ばしていく。
「内臓掻き出してやろうかしら? レイ君と二度と愛し合えないように、あんたの性器に鉤爪突っ込んで、スダズタにするのもいいわね! あ、再生するんだっけ? オリーブオイル爪に塗ればいい……げぽっ!」
機関銃のように話続ける京子の口を、怪物の片足が無理矢理塞ぐ。顔面を足蹴にされた京子は、ますます憤怒の形相で歯軋りする。
「調子に乗ってんじゃないわよぉ!」
京子の鉤爪が、再び怪物の肩に突き立てられる。指を動かす度に傷口に塩を塗り込むかのような粘着質な音が発生し、怪物は苦しげにもがいた。
「あぎっ……ああああああ!」
脚は潰され、動く事もままならない怪物は、未だ再生の終わらぬ手を武器に、桐原や京子の身体を滅茶苦茶に打ち据える。剥き出しの骨による殴打は、怪物自身も激痛で追い詰めていくのだが、彼女は止まらない。
「くっ、往生際が悪いぞ! 地力じゃ俺達が上! お前の欲求対象者は役立たず! 助けはこない! 諦めろ!」
怪物の腕から頭を守りながら、桐原は吠える。最早泥臭い取っ組みあいの戦いだが、それは純粋な怪物による殴り合い。常人が近付くことはままならない。
そんな中、ついに京子の鉤爪が、怪物の首を捉えた。
「捕まえたぁ……! もう動けないでしょ?」
ねっとりした声色で、京子は怪物を見る。見るからにボロボロな、美しい少女を眺め、京子は満足気に鼻を鳴らす。
「殴る力も弱々しいもの。でも安心してぇ。もっと素敵に加工してあげるんだからぁ!」
ゼェゼェと喘ぎながら、京子は勝利宣言し、怪物の首を締め上げはじめた。この場で落とす腹ずもりなのだ。
身体が、重い。
思うように動けない歯痒ささえ、今は意識の外へ追いやられた。呼吸を遮断せしめる攻撃に、怪物の身体から、徐々に力が抜けていく。
薄れかけた意識の中で怪物が思い描くのは、とある青年の顔だった。
一緒にいたかった。愛して欲しかった。守りたかった。全ての行動は、欲望は、彼の為にあった。あと少しで、自分の望みは叶うのに。こんな所で……。
「レ……イ……」
か細く、切ない声が、怪物の口から漏れる。怪物同士の戦いは……。
「うおぉおわあああぁあ!」
突如躍り出た謎の咆哮者によって、水が差された。
轟く叫びに、京子も、桐原も。怪物さえ、全ての時間を静止させた。
「……あ」
いつの間にか涙に濡れた怪物の瞳は、こちらに向かって疾走してくる影をはっきりとらえていた。見間違えるはずもない、愛しい姿。
「レ……イ」
彼は怪物にとっては幸福の象徴でもあり、今この場に限っては絶望の象徴でもあった。
どうして……来てしまったの?
声は出なかった。
再三にもわたる京子との対峙。それは、明確な敵の認識として、怪物の中に深く刻まれた。
レイとつがいになった夜を経てからもそれは変わらない。寧ろ、言葉を、曖昧ながらも感情を得てからは、更に危険視するようになっていたのである。
アレが生きている限り、レイと自分は今後も脅かされる。と。
そんな中、宿敵たる京子は、怪物の肉体を得て、またしてもレイを狙ってきた。よりにもよって、レイをつがいとしたため、怪物の力が不安定となっていた時に。
襲い来る京子。勝てるかどうかは、今の時点では五分五分だった。だからこそ、怪物はレイの近くで思うように戦う事が出来なかった。
京子の執念は、何をしでかすかわからない。下手をすれば、苦し紛れにレイを道連れにしようとするかもしれないのである。彼はまだ、身を守る手段など持ち合わせていないのに。
だからこそ、京子が気紛れを起こした時、怪物はそれを好機と捉えた。ここから離れたところなら、レイが危険な目にあうこともない。不安定な力ながら、自分も戦える。彼らを排除すれば、恐れるものなく、レイと共にいられるのだ。
それは、怪物らしい重たく、どこか一直線過ぎる愛情表現だった。
「あら、レイ君、意外と早かっ……」
京子の嬉しげな声は、途中で遮られた。走り込んできた彼の飛び蹴りによって。
「たべぁあ!?」
驚愕と苦痛の混じりあった悲鳴が響き、京子はそのまま後方に吹き飛ばされる。一方、馴れない喧嘩技を使った弊害か、レイもまた、怪物の横で尻餅をつく。もんどりを打って、そのまま後ろに倒れるレイ。とばっちりで、その背におぶられていた白い青年――明星ルイが、彼の下で地面とサンドされ、「ぐえっ」と潰れた蛙のような声を漏らした。
慌て体勢を立て直したレイは、怪物とルイを小脇に抱え、未だ倒れている京子と桐原から距離を取る。ひとまずの安全圏まで移動したレイは、息を切らしながら、静かに怪物を見る。一瞬だけ、目に哀しげな光が宿りながらも、レイは、はにかむように顔を綻ばせ、怪物の髪に手を触れる。
絶望の中に弱々しい光が射す。そんな錯覚に怪物は陥っていた。
どうして……と思う反面、また触れられて嬉しい。と、感じる自分がいることに、怪物は戸惑いながらもレイの顔を見る。
「よかった……間に合って」
安堵のため息をつくレイ。疲れたように。自分の立場を嘆くかのように。それでいて、いつもの暗い瞳の中に確かな優しさを宿らせて。
それは、怪物が大好きな、レイの不器用な微笑みだった。
※
今度は、間に合った。安堵するレイの背中からそっと降りながら、ルイもまた、同じように胸を撫で下ろす。
見つめ合う二人を眩しげに眺めながら、ルイはふらつく足腰をどうにか自力で支える。
ここからだ。
ルイの血色の瞳が、ノロノロと起き上がる桐原達を捉える。
今更だ。虫の息なお前達に何が出来る? わざわざ死にに来たのか?
そんな二人の罵詈雑言が浴びせられるが、ルイは特に気にも止めなかった。
怪物と呼ばれる存在と、これまで何度対峙した事だろう。
アリサを。友人達を。その忘れ形見を。道行く細やかながら知り合いとなった人を。ルイは戦う度に、尽く喪っていた。
そうしてまた。いつかと同じ。いや、それ以上に最悪といえる敵が目の前にいる。ルイの最後の希望を消し去らんとばかりに。だが。ルイは今回、少しも恐れてはいなかった。
後ろに、もうこれ以上傷付けてはいけない存在がいる。それがルイを奮い立たせる。
隣には、共にその存在を守ろうと、勇気を振り絞ってくれた青年がいる。それがルイには、何より頼もしかった。
だからこそ、何一つ守れなかった不甲斐ない自分を、二人のために捧げられる。大切な存在を託すことが出来るのだ。
怪物を庇うように、レイとルイは並んで立つ。
「さて、それじゃあ行こうか。レイ君」
「……分かった」
ルイのすぐ横で、レイは声を絞り出す。
レイの頬を、一筋の涙が伝っていた。こんな状況の中だというのに、ルイは少しだけ、嬉しいと感じてしまった。
その涙は、紛れもなく、自分の為に流されていると、分かってしまうが故に。
密やかに微笑みながら、ルイは力を開放した。
※
京子と桐原が、襲いかかってくる。その前に何やら京子がわめき散らしていたが、桐原が抑えたのだろうか。今はどうでもよかった。
ただ、この瞬間に、様々な感情が、僕の中で巡っていた。
長いようで短い、三人での共同生活。よもやうち二人が親子で、僕がその娘に捕まえられるとは思わなかったけど。その父親が、陰ながら。だけど全力で娘の恋路を支援していたなんて想像もつかなかったけど。
怪物から離れ、ルイの隣に立つ。集中しなきゃいけないのに、僕はどうしても出来なかった。
彼自身がそれを望んだ。僕も、了解した。だけど、他に方法はなかったのか? そう考えざるを得なくて、気がつけば、僕は涙を流していた。
ルイがすぐとなりで、クスリと笑いを漏らす。
「泣くな。レイ君」と、声が聞こえたような気がした。
ルイが合図し、僕は静かに頷く。
その瞬間、僕の周りの時間がやけに遅くなった気がした。一分一秒を忘れまいとするかのように。銀色の青年の生き様を、全て見届けよとでも言うかのように。
刹那の空白の後。僕の身体に、あるいは骨の髄まで、慣れ親しんだ感覚が走り抜けた。
バキン! という、電撃を思わせる衝撃が。容赦なく。




