83.女の戦い
山城京子は、メスを構えたまま、ジリジリとドアのへ方へ歩み寄る。
間合いまで、あと数メートルという所で、京子は一気にドアに接近。開きざまにメスをそこへ――。何者かがいたと思われる場所へ突き刺した。
「……あっれ~?」
が、彼女の凶刃は、なんの手応えを得ることもなく、ただ空を突く。
そこには何もいなかった。
「気のせいだろう、京子」
桐原が横から口を挟むが、京子は黙れと言わんばかりに、その顔を手で遮った。
目を細めながら、京子は玄関と、リビングへと繋がる道を睨む。
廊下による一本道。隠れ場所は、ない。急に現れ、急に消えた? 一瞬そんな考えが脳裏を過るが、京子はそれをすぐさま否定する。あの気配は、本物だ。それに、そんな幽霊みたいな芸当が出来る存在を、京子はよく知っている。
「ふ……うふ、ふ……」
「……京子?」
不意に小さな笑いを漏らし始めた彼女に、桐原は訝しげな視線を向けた……――その時だ。
桐原と京子のすぐ前に、黒い何かがポトリと。落ちてきた。
「なん、だ……!?」
落ちてきた何かを目に留めた桐原は、そのまま数秒間硬直した。
驚愕で目を見開く桐原が見たものは、黒と黄色の模様が入った、親指の爪ほどもある、蜘蛛だったのだ。
開いた口の塞がらない桐原の前に、黒い雨が降り注ぐ。ポトリ……ポトリと落ちてくるそれらは、大小様々な、八脚の虫。あるものは桐原や京子の髪に落ち、その上を徘徊し。またあるものは、肩や腕を掠めながら、雪が降り積もるような音を立てて、茶色いフローリングを黒に染めていく。
そこからの桐原と京子の反応は早かった。一気に廊下からリビングへと、後ろ向きに飛び退く。二人が共有する脚がリビングの絨毯を踏み締めた時。先程まで二人がいた場所は、蜘蛛によるカーペットが完成していた。
「お前に肉体所有権を渡していて正解だったな。俺だったならば、硬直したまま、蜘蛛の鬘を被る羽目になっただろう」
ブルリと首を震わせる桐原。その横で、京子はおもむろに、髪についた蜘蛛を指で摘まむ。ギリギリと力を込められ、蜘蛛は苦しげに脚をばたつかせていた。
「レイ君……じゃ、ないよねぇ。山道歩いて来るなら、そこそこ時間かかるしぃ……あとこんな真似できるといったら……もう一人しかないよねぇ?」
ハァハァと、肩で息をしながら、京子はその場所を睨む。
窓からは、外に安置した、繭がよく見える。だが、そこにさっきまであったものは、何もない。
刹那、リビングと庭のベランダを隔てる窓ガラスが、何の前触れもなく割れていった。否――。何者かの手によって、〝外から破壊された〟
甲高い音を立てて、リビングの床や絨毯にガラスの破片が撒き散らされる。月の光を浴びて、それらが乱反射する中へ滑り込むように。それでいて、何処か優雅に、黒い影が舞い降りた。
「……嬉しいわ。こんなに早く出てきてくれるなんて……!」
その影は、まるでそこにいる者を威圧するかのように、静かに一歩を踏み出す。
パキリと、ガラスが砕ける音がした。
それに呼応するように、京子は手に掴んだ蜘蛛をその影へと掲げ、見せつけるように口に放り込む。
グチャリと。何かが潰れるような音がした。
そこにいたのは、眠りについた筈の少女。黒いセーラー服を身に纏った、『名前のない怪物』だった。
「レイ君……食べちゃうね。レイ君の大事な人……グチャグチャに擂り潰して、メチャメチャに犯して、ただの肉の塊にして……」
溢れ出る歓喜と狂気を隠そうともせずに、京子は蜘蛛を飲み込んだ。ニタリと笑いながら、ねっとりとした毒を吐く。
「クッテヤル……!」
それは、殺人予告。三日月の形に裂けた口元は、よりいっそう不気味さを増している。それも当然だ。彼女もまた、異形の者――。悪意と殺意が生み出した、怪物なのだから。
二匹の怪物の手が、禍々しい鉤爪に変わる。片や無表情な。片や殺意を込めた眼差しが交差し、そして――。
鉤爪がぶつかり合う、鈍い音が轟いた。
※
背中を何かが立ち上るかのような、ざわりとした感触が走った。
「どうしたんだい?」
今も僕に背負われたまま、心配そうに問い掛けるルイ。それになんと返事すればいいか分からないまま、僕はその場に立ち止まり、辺りを見渡した。
「何か、背中がザワザワってした」
怪しいものは見当たらず、僕が感じたままに答えると、背後のルイの身体が、少しだけ強張ったのを感じた。
「恐らく、あの子が目を覚ましたんだ。あるいは……考えたくはないけど、繭から引きずり出されてしまったか」
緊張をはらんだルイの声色に、自然と僕の足も再び前に進み始めた。
「もっと急いだ方がいい……か」
「足元、気を付けて。この辺り滑りやすいからね」
注意を促すルイに頷きながら、僕は足早に先へ進む。ルイを背負ってから、結構な時間が経つが、未だ疲れらしい疲れは来ない。怪物になった事で、常人以上の膂力を得たからなのか。はっきりとは判断できないが、今この場において、それはありがたかった。これなら、もう少しペースを上げても大丈夫かもしれない。
滑らぬようにしっかり地面を踏み締めながら、僕達は暗い森を行く。
「そう言えばさ」
「なんだい?」
ふとした疑問が浮かんだ。今だに分からない事がある。
「怪物、何で繭になんかなったんだろ?」
身を守るため? いや、それにしたってこんなに早く出てくるなら、力の無駄な気がする。切羽詰まった行動だった? なら、あの微笑みの意味は?
「……ごめん、そればっかりは、僕にも分からないよ」
何か今になって発覚する事実がありそうで怖いな……。なんてぼやきながら、背中のルイは力なく笑った。
※
何十にも及ぶ鉤爪の応酬。蜘蛛糸による、陣取り合戦。そこからの空中戦。怪物同士の闘争は、決着がつかぬまま、既に半刻程の時が流れていた。山城京子は、苛立ちを隠せぬまま、現れた敵を睨み付けた。
「……ざけんじゃないわよぉ。さっきからちょこまかちょこまか……」
吐き捨てるように呻く京子。それを見る怪物の目は、どこまでも無表情だ。
戦いの場は、室内から直ぐ様屋外に移っていた。周りを木々で囲まれたこの地は既に巨大な蜘蛛の巣が至るところに張り巡らされ、この世のものとは思えない雰囲気を醸し出している。
そんな中を怪物は、ひらり、ひらりと。空中を浮遊するように移動し、京子と桐原から充分に間合いをとった位置へ着地した。
「……やる気ないように見せかけて、こっちが隙を見たら全力で殺しにかかってくるのがムカつくわ」
「恐ろしい娘だ。だがやはり、力は不安定らしいな。原種ながら、動きが鈍い。あれならば、全開のスピードで翻弄すれば、簡単に捕らえられるだろうな。回避も蜘蛛の巣を移動するのみ。次は行けるだろう?」
冷静に分析する桐原。その横で静かに頷いた京子の目が、爛々とした光を帯びる。それは紛れもなく、狩りに興奮する獣のものだった。
攻撃しても逃れられ続け、愛用のメスは糸でぐるぐる巻きにされたお陰で、使い物にならなくなってしまった。京子はとうにしびれを切らしていたのだ。
「月夜に輝く、蜘蛛糸だらけの森……そこに磔にされた女の死体とか、凄く幻想的だと思うわけなんだけど……なっ!」
嘲るように笑いながら、京子は軽やかに前へと躍り出る。二、三歩の踏み込みで怪物の元へと接近した京子は、二対計四本の鉤爪を振るう。が、それらは怪物が跳躍することにより、あっさりとかわされた。
「逃げんなクソアマァ!」
空中の蜘蛛の巣へと逃れた怪物へ、京子は追撃とばかりに蜘蛛糸を発射する。
網状で絡めとるような糸ではなく、サッカーボール大に固めた、糸の礫。それらが京子の二本の腕から、まるで、ガトリング砲のように次々と発射された。
「おいおい、ちゃんと狙え。当たってないぞ?」
思わず自分の腕も動かし、搦め手の巣を張る桐原。しかし、飛来する礫を、怪物は無表情のまま、蜘蛛の巣から蜘蛛の巣へと飛び移り、またもや簡単に回避してしまう。ご丁寧に桐原の糸を鉤爪で切り裂きながらである。
「ちょっとお。何勝手に避けてんのよぉ……あんたを捕まえないと、レイ君がいつまでもあたしのものにならないじゃない!」
激昂したように叫びながら、京子もまた、空中に躍り出る。四本の腕を駆使しながら、恐るべき早さで怪物へと迫る。
驚異的なスピードに面食らったのか、無表情を貫いていた怪物が、ここにきて初めて、驚愕したかのように目を見開いた。単調な回避を続けていたことが仇となっていた。その飛び移り先すら予測した京子は、ついに怪物を殺せる距離まで到達した。
「死ねやぁああ!」
怪物の真上まで跳躍し、そのまま振り下ろされた、京子の二本腕は、瞬時に鉤爪の形態となる。対する怪物もまた、自分の鉤爪でそれを受け止めた。が、京子の一撃を怪物自身が受け止めきれても、体重の乗った衝撃を、足場の方は耐えられない。
「……っ!」
足場の蜘蛛糸が、急速に沈んで行く。苦悶の表情を浮かべる怪物。それを見た京子は、ますますサディスティックな表情になる。
「あら? あらあらあら~ん? どしたの? 苦しそうだね。そんな顔も出来たんだぁ?」
愉快そうに笑う京子の横で、桐原もまた、皮肉気な笑みを浮かべる。
「悪いが、腕はもう二本残ってるぞ? このまま仲良く地面にダイブするか? お前の父親のように、串刺しになるか?」
二人分の重さと重力で、怪物の身体は仰向けのまま、落ちていく。逃げようにも腕は京子に封じられて逃げられない。
「ダイブにしようよ! キリィ! コイツの身体押さえてて!」
「了解だ」
嬉々として提案する京子に応え、桐原の両手が、怪物の腰を掴む。徐々に加速していく落下スピードに、京子はまるで絶叫アトラクションでも楽しむかのように、「キャ~」と、黄色い声を上げる。
直後、轟音が鳴り響いた。
京子は、自分の身体の下で、骨が砕ける鈍い音を聞きながら、身体が熱くなるのを感じていた。自分の身体も少なからず衝撃と痛みは受けている。だが、人外である自分には、些末な問題だ。こんな風に、自分のすぐそばで人体が豪快に破壊される瞬間など、そうそう味わえるものではない。
これ……普通の人間にやったら楽しそう! そんな事を考えながら、京子はゆっくり起き上がる。怪物は……起き上がれない。
「アハ」
下でぐったりと四肢を投げ出す怪物を見て、京子は口を歪ませる。
「アハハハハ! やった! やった! やってやったわぁ!」
狂喜乱舞する京子。それを横目に見ていた桐原は、まだ苦い顔をしている。
「気を抜くな。ただ地面に叩きつけただけだぞ。この調子じゃあ、すぐに復活する。少し替われ」
そう言うなり、桐原はゴキリと首を動かす。それが合図だったのか、京子の腕が一瞬だけ、ダラリと垂れ下がる。
「ちょ、キリィ! あたしまだ痛め付け足りないよ!?」
「拷問なら後でいくらでもさせてやる。コイツには、〝聞きたいこと〟があるんでな」
そう言いながら、桐原は怪物に馬乗りになり、両方の鉤爪を、怪物の肩に突き刺した。
「……はぐっ!」
貫かれる激痛を感じたのか、ぐったりとしていた怪物は、短い悲鳴を上げながら、苦しげに呻く。その様子を見た京子は、思わず目を丸くした。
「え? コイツ喋れるの?」
「ゆくゆくは……な。だが、コイツが生まれた時期と、京子の記憶を頼りに肉体共有者を得た時期等を逆算しても、辻褄が合わない。コイツが喋れるようになるまでにはもう少し時間がかかる筈なのだ」
京子の疑問に、鋭い声で答えながら、桐原は目の前の怪物を観察する。
「おかしいと思った。力が不安定とはいえ、欲求対象者と引き離されるような事態になれば、アモル・アラーネオーススは必死で抵抗する筈なのだ。だが、コイツはそれをしなかった。あの状況の中で繭に引き籠り、あまつさえ、俺達に攻撃まで加えてきた。俺はな。コイツが何らかの〝意図〟があって行動したと踏んだ」
桐原の視線を、怪物は肩で息をしながら、無表情で睨み返していた。
「意図……? コイツ、レイ君しか眼中にないんでしょう? そんな人間的な……え?」
反論しようとした京子は、途端に息を飲む。気づいてしまった。桐原の言っている意味に。京子は唇を濡らしながら、桐原と怪物を見比べる。それを見た桐原は、意味ありげな表情で頷いてから、再び怪物に目を向ける。
「京子の想像、多分当たってるだろうな。……なぁ、お前は、俺達と同じ。そうだろう? 怪物――、いや」
一呼吸おいてから、桐原は呼び掛ける。
「……米原侑子」
それは、喰い殺された筈の少女の名だった。




