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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第四章 真実の深淵
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80.真の名の宿敵

 そのソプラノの声を聞いた時、僕の身体は、条件反射のように震えだす。

 トラウマを、地獄を見せた女の声。出来るなら、幻聴であって欲しい。だって……だって君は……。

「君は、死んだ筈だ? ざぁんねん。戻ってきちゃった」

 聞き間違いではなかったらしい。確かにこの声は、京子のものだ。けど、何処から……? 姿も見せずに、どうやって?

 恐る恐る、桐原を見ると、答えはすぐに見つかった。

 腕だ。桐原の元々の腕。その下から、肉を突き破って生えてきた血みどろの腕。筋肉のつきかたや、指の細さからみても、明らかに男性のものではない。そもそも……その小さな白い手に、僕は不気味な程見覚えがあった。

「京子……桐原の……中に?」

「正~解! ねぇねぇ、ビックリした? あたしもビックリしたんだよ? まさかあたしがこんな復活を遂げるなんて! 非日常だわ!」

 元気なソプラノが、桐原の口から漏れて……。次の瞬間――。桐原の首の付け根から、何かが急速に盛り上がる。

 それは肉食い破るようにして、ヌラヌラとした血と粘液を絡ませながら、まるで初めからそこにあったかのように生えてきた。風船のように急速に大きくなったそれは――。


 山城京子の、首だった。


「ひ、ヒィ……!」


 目の前のスプラッターな光景に僕は思わず後退りする。ケタケタと笑う京子の真横で、桐原もまた、満足気な表情だ。

「残念だよ。汐里。お前には、まだ躾がいるらしい。〝俺〟は、〝あいつ〟のように甘くはない。お前に騙されて箱に押し込められることも、決してないと思え」

 桐原の宣言に、僕の背後で息を飲む音がした。怯えるように立ち尽くす汐里の目は、信じられない物を見たかのように見開かれていた。

「どう……いうことだい? 肉体共有者が、もう一人? いや、それ以前に……君は……」

 地べたに倒れ、息も絶え絶えになりながら、ルイが声を絞り出す。

 生きてた――!

 一瞬の僕の安堵は、直ぐ様絶望的に叩き落とされる。桐原と京子は、ぎょろりと目玉だけを動かし、ルイを冷たく見下ろしていた。

「……まだ息があったか。しぶとい――なっ!」

 鋭い蹴りが、まともにルイの腹部に突き刺さり、ルイはくぐもった呻き声を漏らしながら宙を舞う。赤い飛沫を撒き散らし、地面に叩きつけられたルイは、今度こそ動かなくなった。

「……っ! ルイ!」

 少しの空白。気がつけば、僕の脚は、自然とルイの元へと駆け寄っていた。

 震える自分自身の腕を抑えながら、そっとルイの手を取り、抱き起こす。心臓は……まだ動いていた。だが、出血の量と、普段よりいっそう青白いルイの顔は、今の危険な状態を明確に告げている。

「愛しのアリサちゃんが待ってるんだろう? さっさと逝ってやれよ」

「見た? レイくん見たぁ? そいつボロ雑巾みたいに転がっちゃってさぁ! おもしれ~っ!」

 嘲笑うように、二人で一つの怪物が肩を震わせる。四本の腕が、まるで歓喜するかのように大袈裟に蠢いていた。

「くそが……! まず止血だ!」

 上のタンクトップをあっさり脱ぎ捨て、叔父さんもルイに駆け寄る。裂かれた黒い布地を駆使して、叔父さんはルイに処置を施していく。

「おい、唐沢! どうなってる! ありゃ何だ? お前の言うアモルなんたらは、人間二人も取り込めるのかよ?」

 近くの桐原と京子に警戒しながら、叔父さんは汐里に問いかける。

「……あり得ない。そう思いたいですが、目の前にある事実は、無視出来ません……」

 消え入るような声で、汐里は桐原達を睨む。

「アモル・アラーネオーススにとって、欲求対象者以外の人間は、等しく平等。名前はおろか、顔の認証すら怪しいです。同じように、同種や後天的な怪物も、流石に人間ではないと分かるものの、あまり区別をしようとはしません」

「区別しないって……桐原はさっき、アリサちゃんって……」

 説明する汐里に、僕が反論する。すると汐里は、「そこが問題なのです」と、頷いた。

「いいですか。アモル・アラーネオーススは、欲求対象者以外の人間を個性などを元に認識するのが難しい。にもかかわらず、桐原は霜崎アリサを〝知っている〟つまり……」

 畏怖を含んだ汐里の視線が、よっぽど嬉しいのか、桐原は興奮した顔で、口角を上げる。


「そうさ。お前の推測とやらが何かはわからないが、断言しよう。俺は……桐原康介だ」


 誇らしげに、その名を告げる。名前のなかった筈の怪物は、その血肉に取り込んだ者を自称する。これが何を意味するのか……。

「……どうやって、自我を?」

「ああ、こればっかりは、体験した俺にしか話せないだろうな」

 桐原は、頬を掻きながら、残りの両手を広げる。

「お前は勿論、あの楠木教授も知り得なかった事を俺が解説してやろう。まずは……」

「ねぇ、まどろっこしいわ。蜘蛛に喰われた奴は、実は体内にて意識やらがあって、蜘蛛が学習するごとにゆっくり薄らいでいく。最終的には、完全に蜘蛛の中で覚めない眠りにつく! 桐原は、そんな中で意識を取り戻し、蜘蛛を打ち破って所有権を強制的に手に入れた! はい終了!」

 待ちきれないかのように京子が早口でまくしたてる。何気に重要すぎる情報があっさり漏らされた気がするが、京子からすれば、それはさして重要な事ではないらしい。

「ま、待って下さい! 私が推測した事実と、殆ど一緒だということはわかりました! ですが……それだけでは説明がつかない!」

 汐里が慌てたように口を挟むと、桐原は恍惚としたような面持ちで、汐里にねっとりとした視線を送る。

「ああ、確かにな。普通なら、俺は目覚めることはなかった。だが、汐里と明星の争いが、俺に意外な幸運をもたらした」

「意外な……幸運?」

 叔父さんの鋭い返答に、桐原は一瞥もくれることなく、話を続ける。

「まずは、汐里の瀕死からによる回復だ。それによって、アイツ……雄の怪物は、中途半端な暴走状態に陥った。考えたくもないが、汐里が完全に絶命してしまえば、あの個体は完全な暴走状態になり、俺が成り代わる暇もなかっただろうな」

 身震いするような仕草を見せる桐原。一方の京子は、どこか不満そうだ。どうも京子自身の腕と首以外は、桐原の方に優先権があるらしい。

「中途半端な暴走状態は、本来あり得ない、人間の捕食という行動まで引き起こした。奇しくも、肉体共有者を得るときのようにな。こうして、山城京子を取り込んでしまった怪物の体内……そうだな、『内的世界』とでも名付けようか。そこは、ますます不安定な状態になってしまった。それに加えて……」

 ここまで言えば、もうお分かりだろう? そんな表情で、桐原は鼻を鳴らす。

 京子が捕食されて、その後に起きたこと……。まさか。

「ルイの……毒?」

「正解だ。あれにより、極限まで痛めつけられたアモル・アラーネオースス。そこに、自我を取り戻そうともがく俺と……取り込んだ相手が悪かったんだろうな。人一倍自我が――。いや、執念が強い山城京子が入り込み、内的世界での俺達の立場は、逆転した。その結果が、これだ」

 桐原達の四本の腕から、蜘蛛糸が迸る。周囲に張り巡らされていく銀の糸は、まるで包囲網。否、牢獄の檻のように、僕達の退路を塞いでいく。

「その生物に本来備わっていない行動。あるいは要素が追加されると、その生物に重大な欠陥をもたらす事が殆どだ。だが、稀にそのあり得ない部分が、爆発的な発展や、進化に繋がることがある。突然変異(ミュータント)とでも言うべきか、それとも、歪な異種交雑種(ハイブリッド)を作り出すアモル・アラーネオーススの真の姿か……。まだまだ研究や考察することは多いよ」

 僕らが逃げられない状態に満足したかのように、桐原は嗜虐敵な目をこちらに向ける。

「まぁ、そんなことは二の次だ。今俺が優先すべき事は、別にあるんでね……!」

 桐原が跳躍した時、僕の背中に戦慄めいた、寒気が走った。来る――! そう思った瞬間、僕の背後で悲鳴が上がった。

「い、いや! やめ、止めてください! 離して……!」

 懇願するような汐里の涙声が、すぐ上から聞こえる。僕や大輔叔父さんが慌ててそちらを向くと、空中に張り巡らされた蜘蛛の巣に、汐里が拘束されていた。

「いつの……間に!?」

 驚愕する大輔叔父さん。その横で、僕も目を見開いたまま。の前で起ころうとしている悲劇を、たただ傍観していることしか出来なかった。

「ああ……汐里、ようやく、お前が手に入る! もどかしかったぞ! アイツが、お前を蹂躙する様を見ながら……何度俺もやりたいと思っていた事か!」

 滑るように蜘蛛糸の上を移動しながら、桐原は汐里に近づき、背後から抱擁する。

 汐里は、頭から爪先まで震わせながら、桐原を睨んでいた。

「……私は、貴方のものにはなりません。決してね……!」

「お前の意志など聞いてはいない。俺がお前を支配する。その事実だけで充分だ!」

 桐原はそう叫びながら、感極まったかのように、汐里の首筋にむしゃぶりついた。「あっ……ぎぃ……!」という汐里の呻き声と、ジュルジュルと血を啜る音だけが、辺りに響き渡る。

 暫くして、桐原が汐里から口を離すと、そこには、身体を時折痙攣させながら、ぐったりと四肢を投げ出した汐里の姿があった。

「妙な動きをされても困るのでな。お前に注ぐ体液は最低限にして、血を限界まで吸わせて貰った」

 四本の腕をぐるぐると回しながら、桐原は首を振る。バキバキと骨を鳴らす音が合図となったかのように、京子がニタリと笑う。

「待ちわびたわ。シオリンの血も取り込んだし、これでようやく、全力でやれるのね?」

「ああ、約束通り、身体の所有権を少しだけ貸そう。命令の優先権があるのは俺だという事は、忘れてくれるなよ?」

「りょうかーい」

 桐原の注意に軽い返事をした後、京子は無表情のまま、こちらを見下ろした。

「レイく~ん。あたしの考えてること、わ・か・るぅ?」

 冷たい問いが、僕に投げ掛けられる。京子の右手が、桐原の服のポケットに滑り込み、銀色に光る刃物を取り出した。――メス。京子が愛用する、殺意と狂気の象徴だ。

「あたしはね。ついにあたし自身が非日常な存在になれたわ。ようやくレイくんと、同じ土台に立てたの。正真正銘の、血の芸術家よ。だから……」


 一呼吸の間をおいて、京子は恥じらうような仕草すら見せながら、口を開く。


「ねぇ、レイくん。また、あたしの物にならない? 血の芸術家の従者として、あたしのものに。その女なんか捨ててさ」


 それは、酷くおぞましく、身の毛もよだつ提案だった。

「レイくん。ねぇ~返事はぁ?」

 甘えるようなソプラノが、耳に絡み付く。誰かの声で、鳥肌が立つなんて、はじめての経験だ。

 沸き上がる嫌悪感。だが、それすら飲み込む恐怖。共にあろうという提案が、何故こんなにも殺意に満ち満ちているのだろうか?

「あ……い……」

 声が、うまく出せない。いやだという一言がうまく言えない。僕は完全に、京子に気圧されていた。

 その時――。僕の肩に、優しい重みが加わった。

「え……?」

 驚いて、身を固くする僕に、柔らかい腕が回される。怪物だった。

「……だいじょうぶ。(ワタシ)は、レイのもの。レイは……(ワタシ)のものだから」

 誰にも聞こえないような小さな声で、怪物は囁く。案の定、京子はおろか、大輔叔父さんにすら聞こえていないようだ。だが……。

「ふぅ~ん。そっかぁ。レイくん、結局そっち選ぶのね。ふぅ~ん……!」

 彼女を挑発するのには、充分すぎたらしい。地の底から沸き上がるような憎悪の声を上げながら、京子は目を細めた。


「いいわ……! あたし今、レイくんとその女を引き裂く、最高のシチュエーションを思い付いたの。とびっきり絶望的な破局にしてあげるわぁ!」


 狂った雄叫びを上げながら、京子と桐原はその身で宙を舞う。名前のなかった怪物が、二つの悪意を胸に僕達に襲いかかってくる。そして――。


 ※ 


 決着がついたのは、時間にして、五分もかからなかった。

 大輔叔父さんは、怪物化した京子に、一撃で昏倒させられ、無惨にも蜘蛛糸で宙づりにされている。

 拳銃を手に応戦した叔父さんだったが、小さな銃と、鍛えぬかれたとはいえども、生身の人間だ。本気になった怪物に、敵う道理もなかったのだ。

 地に伏したルイの身体には、蜘蛛糸と土埃が降り積もり、意識を取り戻した汐里は、血の気の引いた虚ろな表情のまま、その姿を悲しげに見つめていた。

 目を背けたくなるような、絶望的な光景。その中で僕と怪物は……。今まさに、京子達の手によって引き離されていた。

 僕は地面に打ち捨てられ、怪物は、空中の蜘蛛の巣にて、桐原と京子の手によって捕らえられている。


「よっわ~い。え? 終わり?」


 傷だらけになった僕達を見比べながら、京子は拍子抜けしたかのように、目をしばたかせる。

「仕方ないだろうな。そこのレイとかいう男は、欲求対象者として覚醒して、まだ一日しかたっていないのだ。能力など、使える筈もない。一方、こっちの原種もまた、その男を作り替えたばかりだ。力の殆どが、まだ回復していないのだろう」

 冷静に分析しながら、桐原は腕に抱えた少女を見る。ボロボロになったセーラー服が、酷く痛々しい。身体を蜘蛛糸で拘束されて尚、怪物は僕の方を心配そうに見てくる。

 自分が痛め付けられているのに。今まさに京子達の手に落ちようとしているのに。

 なす術なく、無様に叩きのめされた僕を案じていた。何も出来ない。何もしてやれない……僕を。

「……違う。何か違うなぁ……。もっと絶望的なシチュエーションが欲しいわ。痛め付けるだけじゃダメ。そんなんじゃ足りないのよ……!」

 苛立たしげに振るわれた京子の鉤爪が、怪物の肩に叩きつけられる。骨が砕けるような嫌な音と一緒に、怪物の肩から血が吹き出す。それでも、怪物は京子に見向きもしなかった。その様子を見てとった京子は、最初は不機嫌そうに顔を真っ赤にしていたものの、不意に何かを閃いたかのような表情になる。


「桐原ぁ……。シオリンは連れていくんでしょう? こいつも連れてかない?」


 正直に告白するならば、京子のその提案が、僕にとっての、最上級の恐怖を掻き立てたことは、疑いようもない。現に僕は、脳天をハンマーでぶん殴られたかのような衝撃を受けていた。


「や……やめ、ろ……!」

 身体中をぼろ雑巾のように切り裂かれ、踏み抜かれた僕は、身体を何とか動かす。流石は怪物の身体というべきか、僕の身体は少しずつ回復している。もっとも、そのせいでさっきから、幾度も京子に打ちのめされているのだが。

「あっ、いいわ。その表情! あたし好みよ!」

 歓喜する京子の横で、桐原の首はどこか苦い顔で怪物を見る。

「こいつをつれていくのは、百害あって、一利なしだと思うがな?」

「いいじゃない。定期的に痛め付ければいいのよ。桐原、あんたがこうして自我を得たのは、半分はあたしのおかげよ? それともあんた、女の子の我が儘一つ容認できない、小さい男だったの?」

「……わかったわかった」

 小さい男が勘に触ったのか、桐原は一瞬ムッとした後、ぐったりとした汐里を糸で回収し、怪物と一緒に抱えこむ。

「やめろ……! これ以上、そいつを……!」

 無意識のうちに、懇願の声を上げる。京子に彼女が囚われたら、その悲惨な末路など、想像もしたくない。

「レイくんは、ボロボロな身体を引きずりながら、お姫様を追いかけました。ですが、何という事でしょう。お姫様は既に吸血鬼によって、身も心もスタボロにされ、汚され、見るも耐えない姿にされてしまっていたのです。レイくんは泣きながら、身体を掻きむしります。哀れに思った吸血鬼は、レイくんをお姫様と同じようにしてあげました。ぐちゃぐちゃにされたレイくんとお姫様は、牢屋の中で手を繋ぎます。もうだれも、二人を呼ぶことはありません。綺麗になることもありません。だって二人は……」

 早口で、恐らく即興の物語を紡ぐ京子。目を輝かせ、血の芸術家は、物語を締め括る。


「名前のない怪物となり、地獄の底に溶けていくのですから……!」


 乾いた高笑いを上げながら、「あたし天才!」と、自画自賛する京子。その横で呆れた表情になりながら、桐原は僕を見る。

「……悪く思うなよ。お前とこの怪物を痛め付ける事が、俺の共有者の望みなんだ。だから、まぁ……精々足掻け」

 桐原の鉤爪が振るわれる。次の瞬間、僕の手足を銀色の槍が貫いた。

「ぐぎゃあぁああ!」

 走る激痛に、溜まらず悲鳴を上げる。立ち上がろうとした僕の身体は、地面に縫い付けられた。

 ジクジクと痛む手足。それに突き刺さっているのは……。

「い……と?」

「正解だ。能力にはこんな使い方もあるんだよ。今のお前じゃ、鉤爪や燃費の少ない能力すら、まともに扱えないだろうがな」

 嘲るように鼻を鳴らし、桐原は怪物と汐里を抱えたまま、空を見上げる。

「さて、ではお別れだ。明星によろしくな。まぁ、後はそこで朽ち果てていくだけだろうが」

「レイくん。ちゃんと追いかけて来てね。じゃないと……この娘。酷いことになるよぉ?」

 挑発するように、京子は怪物の背中に、鉤爪を突き刺す。彼女の――。怪物の白い肌が、また赤く染まっていき……。

「たの……む。その子を……その子……は……!」

 返してくれ。連れていかないで。それ以上手を出すな。そう叫びをあげたかった。

 何より、その子の名前を呼びたくて。けど、その時、当たり前な事に気づく。怪物に、名前が無いことを。

「あ……ああ……!」

 声にならない慟哭を漏らす僕は、必死に手を伸ばす。硬化した蜘蛛糸の槍で、手が裂けるのも構わずに。届かないと分かっていても、手を上げる。

 その時僕は、再び恐怖で背筋が凍りそうになるものを見た。

「レイくん。待ってるよ」

 それは、勝ち誇った京子と桐原の顔でも、全てを諦めたかのような、汐里の様子でもなかった。


 僕がゾッとしたのは、怪物の目。その色が、変貌している事だった。

 それは、いつもの闇の深淵を覗いたかのような、引き込まれるような黒ではない。

 赤だ。それも、ただ赤などではない。血の一滴を落としたかのような、鮮やかなのに暗く、深い、それでいて、ハッとするような紅色。

 その真紅の瞳が悲しげに揺らぎながら、僕を見つめている。


「なにを――!?」

 思わず僕が声を上げる寸前、それは起こった。

 京子も桐原も、まだ気づいていない。ただ、僕だけがその瞬間を見つめていた。

 いつかのように、妖艶で。それでいて幸せそうな、怪物の微笑みを。

 

 その時、劇的な変化が訪れる。桐原が張り巡らせ、支配した蜘蛛糸の領域の中。銀色の嵐が巻き起こった。

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