75.悲劇の真相≪中編≫
その悲劇は、唐突に巻き起こった。
楠木教授が集めた、四人の欲求対象者が怪物の力を手にしてから、半年が過ぎた頃の事だ。欲求対象者と、怪物の間に、四体の子どもが誕生したのである。
これに歓喜した教授は、さっそく新たな肉体共有者と、欲求対象者の候補の確保へと乗り出した。
産まれたばかりの怪物や、欲求対象者らを含めるならば、第四実験棟にいた怪物はその数は教授と妻を除けば十二体。そんななかでの教授の不在は、本来ならば警戒して然りの状況の筈だった。
だが、当時実験者達は、さほど心配だとは、感じていなかったようだ。
成る程。確かに怪物は、人間の女性を襲う。が、それは肉体共有者が定められていなかった場合の話だ。産まれたばかりの子がいるにしろ、それらが襲うべき女性は、実験者達の中には一人しかいない。その一人の女性も、怪物が産まれてくる際に、安全な所に隔離してあるのだから安心だ。
また、産まれた怪物が外に出る可能性も、その親が連れ出して行く可能性もない。なぜなら、実験棟には、教授の妻――。全ての怪物の祖というべき存在がいるのだ。彼女の目が黒いうちは、いかに怪物といえど、この施設を抜け出し、勝手に肉体共有者を見つける事など不可能だ。……不可能である、筈だった。
そんな状況の中、唐沢汐里は実験棟とは真逆の場所にある隔離施設で、悠々と過ごしていた。
肉体共有者が手に入るまでは、隔離施設という限定的な場所ではあるが、休暇を言い渡されていたのである。
ティーポットから注がれる、暖かな紅い液体がカップを満たす。華やかなその香りを楽しみながらも、汐里は何処か憂鬱そうに溜め息をついた。
頭に浮かぶのは、偶然にも再会した、大学時代の同級生の顔。一度見たら、二度と忘れないであろう、アルビノの青年は、久しぶりに会ったというのに、変わらぬアルカイックスマイルを浮かべていたものだ。
もっとも。今はその表情にも、いくらかの陰りがさしているのを汐里は知っていた。
原因は、分かっている。自分達が進める、実験のせいだ。欲求対象者の候補リストを見たとき、思わず目眩を覚えた事を思い出す。あの時程、汐里は運命を呪った事はない。
柄にもなく恋焦がれた黒歴史。それに蓋をし、忘れようとした相手だった。凍りついたようなアルカイックスマイルは、汐里の手では溶かすことが出来なかったのである。
「……なんて、無様」
吐き捨てるように汐里は呟く。もう、終わったことだ。故に、気にする必要もなければ、モヤモヤとした気持ちを抱えなくてもいい。そう言い聞かせながらも、汐里の脳内には、一人の女性の姿が浮かび上がって来ていた。
その女性にルイが微笑みかける度に、汐里の中で、黒い何かが渦巻いていく。
もうこの世にいない存在なのに、その女の影は、蜘蛛糸となり、未だにルイを絡め取って離さない。それが汐里には、何とも複雑だった。
憎らしくもある。嫉妬に近いものであるとも認めよう。だが、羨ましいとは思えなかった。
仮に汐里がルイの立場だったなら? 少なくとも、人外に身を堕とすのはごめん被りたい。あの女――、霜崎有紗の立場は、もっとごめんだ。想いが引き金とはいえ、それは怪物による乗っ取りだ。羨む理由などない。
汐里は、邪心を拭い去るように、頭を横へ振る。
好奇心から引き受けた、怪物の研究。不気味ではあったが、それ以上に探求心を擽るものだ。研究を続ける為にも、多少の試練は必要だと、汐里は考えている。故に、この運命は必然で、自分にとっても有益な障害なのだ。
多少強引ながらも、汐里は自分をそう納得させた。
熱さも気にせず、紅茶を一気に飲み干す。すると、不意にけたたましいブザー音が轟いた。それは、この隔離施設に、来訪者が現れたことを意味していた。
「はて、どちら様でしょうか?」
首を傾げながら、汐里は訪れた人物を推測する。
教授……は、あり得ない。彼は外に出払っているはずだ。
では、ルイは? ……もっとあり得ない。彼はあの地下室からは逃れられない。怪物の力を使って出ることが出来ても、あの地下室。その出入り口の部屋には、〝見張り〟がいる。彼女の目を欺く事は、不可能な筈だ。そもそも、出たところで、ルイが汐里の元を訪ねてくる必要性もない。
となると、同じ実験者の誰かだろうか?
予感は的中した。現れたのは、見覚えのある長髪の男だった。
桐原 康介。彼の研究者らしからぬ軽薄な装いや言動は、汐里には少なからず、不快感を与えるものではあった。が、そこは教授が選んだ人材。生物学の分野に置いては、桐原は他の実験者の中でも、頭一つ抜きん出ていた。故の傲慢なのか分からないが、良くも悪くも、絵にかいたような天才。それが、汐里が桐原に下していた評価だった。
「今晩は、桐原さん。何か御用ですか?」
勿論、そんな内面での印象を、露骨に顔に出すような真似はしない。そこそこ学位のある環境において、最後にものをいうのは、人脈と世渡りの上手さだ。だから汐里は、桐原に対する不快感を隠しながら、にこやかに彼を出迎える。
「……桐原さん?」
汐里の問いかけに対して、桐原は無言だった。ただ、目を伏せたまま、ゆっくりと此方に歩み寄ってくる。
おかしい……。
それは、本能的な直感ともいえた。それに素直に従っていれば、結果は違うものとなっていたのかもしれない。
だが。不幸にもそこにいたのは、曲がりなりにも、同僚というべき存在だ。その事が、汐里の判断力を鈍らせた。
桐原は、音もなく汐里に近付くと、あれよという間に、汐里の身体を両腕で抱き締めてしまったのだ。
「な……は?」
驚いたのは汐里である。突然の抱擁に、彼女が目を白黒させていると、桐原は次の行動に移った。
ゾブリ。と、嫌な音が汐里の身体の中から直接響く。途端に襲いくる酩酊感と快楽に、汐里の身体は暫し硬直する。
「あ……え?」
何が起こっているのか、汐里は理解できなかった。ただ、自分の身体から何かが吸いとられ、自分の中に何かが注ぎ込まれて行くのを、汐里は身体で感じていた。
理性が戻り、汐里は弾かれるように男を突き飛ばす。
ぞわぞわとした寒気が、背中を立ち上ぼり、汐里は両肩を抱き抱えたまま、その場に座り込む。
さっきの桐原の行為。それが何を意味するのか、汐里にも分かっていた。即ち、今この瞬間、汐里は目の前の男に囚われたのだ。
「ありえ……ません、どうして、貴方がその力を……?」
震えながら、汐里は声を絞り出す。
怪物の力を使うには、怪物とつがいになる必要がある。肉体共有者が見つかり、彼が欲求対象者に選ばれた? ありえない。怪物の子が生まれたのは、つい先日だ。怪物による欲求対象者の補食が始まるには、あまりにも早すぎる。
慌てる自分を押さえつけるように、汐里は思考を巡らす。が、考えれば考えるほど、混乱は深まっていく。そんな汐里を、桐原はじっと見つめていた。
ただそこに佇んだまま、静かに。それでいて無表情に、汐里を見る。爪先から頭のてっぺんまで、まるで観察するかのような視線に晒された時、汐里は桐原に起きた出来事を悟った。
該当しそうなものが、一つだけある。可能性は低いが、もうそれしかない。
「や、やめて……ください。いや……」
それが、汐里が漏らした最後の一言だった。
次の瞬間、バキン! という、電流を流されたかのような衝撃が、汐里に襲いかかった。
脳髄に直接響くようなその音は、汐里に恐怖と絶望を与えるには充分すぎた。
意のままに操られる屈辱。そして、これからされる汐里の運命を思えば、悲鳴の一つは許されて然りだっただろう。だが、無慈悲にも目の前の男――。いや、桐原の皮を被った怪物は、その権利すら汐里から没収した。
『身体所有権の剥奪能力』
欲求対象者を怪物から逃れられなくする力。それが今まさに汐里に行使されていた。こうなってしまえば、もはや汐里は、意識を保ったままにして、怪物の傀儡と成り果てる。
己の意思とは無関係に、汐里は静かに両手を広げた。それはまるで、愛する恋人を受け入れ、その愛撫を待つかのように。
そんな様子を見た桐原は、我慢できないと言わんばかりに、汐里を押し倒した。そのまま馬乗りにのし掛かり、汐里にゆっくりと手を伸ばしていく。そして――。
「あ……ぎぃ……」
汐里の白い喉は、桐原の手によって締め上げられていた。気道が遮断され、空気を求めて汐里の口がパクパクと動く。「ヒューヒューッ」と、喘息か過呼吸にでもなったかのように、声にならない悲鳴が漏れている。苦しげに焦点の合わない瞳を泳がせる汐里を、桐原は無表情から一転して、恍惚の表情で眺めていた。
薄れ、暗転して行く意識の中で、汐里は確信と共に人知れず涙を流していた。
やはりそうだ。自分を今襲っているのは、アモル・アラーネオーススの原種だ。
どういった経緯で桐原の肉体を得たかは分からないが、少なくとも、桐原の思慕の念は、はた迷惑な事に自分に向けられていたらしい。
汐里の頬を、首筋を、冷たい舌が這い回る。おぞましい感触を感じながら、汐里はぼんやりとした表情で、部屋の片隅を眺める。あるのは、大きめのモニター。地下の怪物達を見張るものだ。
あれをつければ、ルイの姿が見られる。だが、それは同時に、霜崎有紗の姿も見ることにを意味していた。
寄り添う二匹の怪物。その関係は酷く歪だが、汐里はこの時、今まさにこの瞬間だけは、酷く羨ましく思えた。
彼らは、まだ恵まれている。互いの想いがあったから。だが、今の自分はどうだ?
愛に幻想を抱いていた訳ではない。だが、このままいけば、汐里は桐原としか結ばれなくなる。好きでもない男の姿をした、人間でもない存在に、何もかも奪われて。あんまりではないか。
バキン! という開放の音がした。だが、既に汐里は、動けないほどに弱りきっていた。
それを、満足気に眺める桐原を、汐里は純粋に殺してやりたい。と、願った。
これから自分は、この怪物にいいようにされてしまう。汐里にとって、それは拷問以外の何物でもないのだ。
ああ、私は間違っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、汐里は独白する。
こんなものを増やそうだなんて、どうかしている。これらは、人類にとって、明確な敵だ。駆逐すべき存在だ。だから……。
「抹消……してやります。この世から、一匹残らず。肉片も、細胞の一欠片も残さず。完全に……!」
かくして、最初の抹消者は生まれ落ちる。悲劇の序章が静かに幕をあげた瞬間だった。
※
「と、まぁ……ざっくりと経緯を話してしまえばこんな感じです。怪物の子どもが生まれた関係上、私は一時的に隔離された。しかし……」
「生まれた怪物の中に、牡の個体が混じっていて、実験者の男性が取り込まれた。そして……汐里が欲求対象者に選ばれた?」
何とか声を絞り出す僕。それを眺めながら、汐里は「概ねその通りですね」と、小さく頷いた。
これが、真実? これが……。
「ですが、ね。真実とはもっとドロドロしたものでした。そもそも、アモル・アラーネオーススの幼生は、肉体共有者になりうるものが近くに来ない限り、あまりその場を動かないものなんですよ。つまり、人間。ないし、生物自らが近付くか、誰かが幼生をその人物の近くに連れていかない限り、肉体共有者が決まる事はない。成熟していないアモル・アラーネオーススの肉体共有者は、例外も多々ありますが、大抵はその親が人間等の生物の近くに運ぶ筈なんです」
例外を強調しながら、汐里は一瞬だけ僕の膝に陣取る、怪物を見る。
親。本来ならばルイやアリサさんの役目であるそれ。でも、こいつは違うというのだろうか。
「更に言ってしまえば、あの場には教授の妻もいた。生まれてきた怪物の子どもも、彼女はチェックしている。牡の個体が生まれたならば、彼女が気づかない訳がないんです。にもかかわらず、警告はされなかった……」
「……まさか」
嫌な音を立てながら、僕の中でパズルが組上がっていく。真実と悪意が入り雑じった、おぞましいものが。
「そう、汐里達実験者もまた、怪物となる候補だった。協力者であると同時に、極めて出生率の低い牡の個体が生まれた時の為の、所謂保険というべきものだったんだ」
もちろん、汐里達には伏せられていただろうけどね。と、付け足しながら、ルイはその事実を告げた。
「次の世代が生まれたことを喜びながらも、教授は警戒していました。一通りの実験を、こなし、怪物の知識を得た実験者達。これだけの力の可能性を秘めた存在が生まれた。となると、持ち出しを考える者もいるかもしれない……とね」
汐里は皮肉を込めた笑みを浮かべながら、拳を握り締める。
「案の定、教授の予感は的中した。これは、後に他の実験者から聞いたことですが、その持ち出しを企てた男こそが、実験者の一人にして、牡のアモル・アラーネオーススの肉体共有者。桐原康介だったのです」
「……なんのために?」
桐原の意図が分からず、僕は思わず質問する。一匹連れ出した所で、一体なにを……。
「知れた事です。なまじ頭のいい人物でしたからね。人智を越えた存在に惹かれたのでしょう。彼は怪物の力を、手に入れよう考えた」
「……それって」
自ら欲求対象者になることを望んだとでもいうのだろうか? すると、僕の考えを見透かしたかのように、汐里は曖昧に頷いた。
「そうです。彼は、欲求対象者を目指していた。後天的な怪物は、しっかり自分の理性を保った上で、怪物の力を得る。彼はそこに着目したのでしょう。考えても見てください。強力な再生力に、人間や蜘蛛へと瞬時に行える肉体変化。加えて、一咬みすれば、他者を思いのままに操れる。使う人が使えば、完全犯罪すら可能なものですからね」
自身の手を見つめながら、汐里はポツリと呟く。
「桐原は、女性関係に奔放な男だったらしい。自分に惚れた女性に怪物をあてがい、利用するつもりだったんだろうね。もしかしたら、もっと俗っぽい事を考えていたのかも。例えば、その力で汐里を意のままに操る……とか」
「ああ、それは有るかもしれませんね。『欲求行動』から省みるに、相当なサディストでしたから。私が屈服する所を楽しみながら見るつもりだったのでしょうね」
「欲求……行動?」
聞き慣れない単語に、僕は思わず首を傾げる。教授のレポートに、そんな単語があったようななかったような……。
「欲求行動は、アモル・アラーネオーススなりの愛情表現。というべきものらしい。その形は、個体によって多種多様。というか、取り込んだ肉体共有者に依存する。桐原のように対象を痛め付けることだったり、アリサやその子ように、恋人への愛情表現を形にしたようなものだったり。あと、特殊な例だけど、欲求対象者に痛め付けてもらうという、被虐体質な個体もいたな」
……要するに、取り込んだ人の趣味嗜好やらが浮き彫りになるということだろうか? 殺された上に、そういったものまで暴露されるなんて……。
思わず、すぐ目の前に座る怪物を見る。僕の視線を敏感に感じ取ったのか、怪物はどこか嬉しそうに微笑んでいた。
艶やかで、柔らかそうな唇に目が行きそうになり、僕は慌てて目をそらす。
「さて、話を戻しましょう。計画を企てた桐原は、教授からの指示だという事で、生まれた子どもを引き取りに行った。そこに牡の個体が紛れているとも知らずに……ね」
嘲るような口調で、汐里は再び話し始めた。
「桐原の性格を、教授もよく理解していたのでしょうね。偶然にも牡の個体が生まれた事は、教授にとって都合がよかったんです。だからこそ、実験棟から離れ、わざと隙を見せた。桐原が子どもを持ち去るであろうことを予測していたんです。そして……桐原は、教授の罠に絡め取られた」
部屋全体を、重苦しい沈黙が支配していた。想像以上に根深い、汐里の過去。その時に彼女が落とされた絶望は、一体どれ程のものだったのだろうか。
「後は、お決まりのパターンです。私は桐原の姿をした怪物に捕らえられ、屈辱にまみれた数ヵ月間を過ごしました。今にして思えば、隔離施設は私を守る盾であると同時に、私達を収容する、檻の役目も果たしていたのでしょうね。私が欲求対象者になってからですら、教授はそのまま研究を続けていましたから」
忌々しげに吐き捨て、汐里は脚を組み替える。
「実験者が、怪物に身を落とす。これが最初の悲劇でした。ですが、まだ序の口。始まりに過ぎなかった。本当の悲劇は、ここから先――」
汐里の絡み付くような視線が、ルイや僕、怪物を捕らえた。身震いしたくなるような眼光に、僕は無意識に唾を飲む。
「ルイと霜崎有紗の姿をした怪物との間に子どもが生まれた時。第二の悲劇が起こったのです」
その時に見せた、ルイの表情を、僕は一生忘れることはないだろう。
男である僕から見ても、美しいと思えるその顔。それは今、悲愴な面持ちで、血色の瞳を揺らしている。
アルカイックスマイルが消えたルイの顔は、まるで氷の仮面を思わせた。
決して溶けることのない、冷たく物悲しい、氷の仮面を。




