71.閑話五・小野大輔vs山城京子
「ふざけんなよ……オイ」
小野大輔は樹木を背に、一人悪態をついていた。
レイとあの少女を逃がしたまではよかった。後方では、絶えず甲高い金切り声のようなものが聞こえて来るが、これは無視。明星ルイの強さは、さっき目撃した。ならば、自分が変に加勢する必要はないだろう。問題は……。
「ねぇ、大輔叔父さん? いいかげん諦めてよ。あたしはさっさとレイ君を追いたいの。変にうろちょろされると目障りだわ」
少し離れた所で、イライラしたように溜め息をつくあの女だ。
殺人鬼、山城京子。どこで手に入れたのか、闇夜に溶け込むような黒いセーラー服を身に纏うその女は、片手に拳銃を握っていた。
「メスは使わんのか?」
「冗談言わないでよ。お互い片手を負傷しているのよ? 接近したら、あたし絶対負けるもん」
疲れたように肩を竦めながらも、京子の目は油断なく、爛々と輝いていた。互いに拳銃で牽制しあって、一体どれ程の時間が流れたのだろうか?
「大輔叔父さん? あなた、刑事さんでしょう? あたしに拳銃向けるのはともかく、発砲は不味いんじゃない? しかもこれ、正規のルートで手にいれた物じゃないけど?」
「今更だな。あんたをしょっぴけば万事解決だ。上からもお咎めは無いだろうさ。ついでに骨の一本くらい折ってやろうか?」
「……刑事さんの言葉とは思えないなぁ」
呆れたような口調になる京子に、大輔は黙れと言い放つ。
正直な話、今関わっている事柄は、とんでもなく常識外れなものだ。少なくとも、説明するのは難しいだろう。が、この女の身柄を確保し、あの実験棟に隠されているらしい情報を持ち帰れば、あらゆる事件が芋づる式に明るみに出るのは間違いない。それが、大輔が唯一手に掴んだ真実だった。
楠木教授失踪事件。
米原侑子惨殺事件。
松井英明行方不明の真相。
連続猟奇殺人事件、その実行犯の捕縛。
刑事として、この女は逃がす訳にはいかないのだ。
大輔は、頬を伝う汗を拭いもせず、その場で頭をフル回転させる。
京子との距離は、十メートル強。素人の拳銃でも、当たる可能性は充分にあり得る。京子は頭のネジは外れていても、標的であるレイが近くにいないからか、今は恐ろしく冷静だ。拳銃を向けあっている以上、下手に飛び込むのも危険だろう。
もしYシャツやスーツの上着が無事なら、目眩ましがわりに投げつける所だが、あいにく今の大輔にその手段は使えない。上着はルイとの戦いで使い物にならなくなったし、Yシャツはレイやあの少女の止血にと引き裂いてしまった。現状、タンクトップ一枚に下はパンツスーツ(ちょっと高級なベルト付き)。武器は拳銃一丁。残弾四発。これらを利用して出来ることは――。
「……やるしかないか」
危険は百も承知で、大輔は手を動かす。
隠れている場所が、大木でよかった。こちらが何をしているのか、京子は知るよしもないだろう。大輔はそう思いながら、準備を整え、二、三回深呼吸する。考え付いたのは突飛な作戦だ。だが、この極限の緊張感の中でこそ、その威力は大きい筈。
「何か、コソコソやってるみたいね? 悪いけど、時間がないの。近くじゃ化物がやり合ってるし、大輔叔父さんだってこんな所に長くは……」
焦れたように大木に向けて呼びかける京子。その言葉が最後まで言い終わらぬうちに、大輔は動いた。
大木から右側に、タンクトップを投げ捨てる。勿論囮だ。咄嗟に投げ込まれたものに反応した京子は、刹那の間それに目を奪われた。
大輔はそこへすかさず、次の罠を用意する。適当な木に向けて、拳銃を発砲。鋭い銃声と、木の幹が弾けるような音に、一瞬京子は身体を跳ね上げた。
その〝予想通り過ぎる反応〟に、大輔はほくそ笑みを浮かべながら、三手目を――。次の攻撃に移る。
「……え?」
銃声に強張った身体の硬直が解けぬうちに、京子が目撃したのは、大きく山なりに弧を描きながら飛んでくる、〝拳銃〟だった。
武器を棄てた? あり得ない光景に、京子は混乱する。
闇夜を切り裂くように、こちらへと飛来するそれ。緩やかなスピードながら、確実に京子の顔面目掛けて飛んでくる凶器を無視できる訳もなく、京子は横っ飛びで回避する。
その時。京子の視線は、意識は、完全に拳銃へと向けられていた。致命的なまでの隙。それを大輔が見逃す筈もない。
「おおおぉおおっ!!」
駆け出す大輔。慌てて京子がそちらに注意を向けるも、もう遅い。
今の京子は、限りなく余裕のない状態だ。大輔はそういう確信があった。
拳銃による、手の負傷。奇跡的に当たりはしなかったにせよ、汐里による銃弾の雨にも晒された。
殺人鬼といえども、撃たれるという恐怖と痛みは、まだ身体に染み込んでいる筈だ。
強すぎる凶器による脅しと、それをあっさり放棄する行動。今の京子には、大輔が自棄になったようにしか思えないだろう。
焦燥と困惑に身を焼きながら、辛うじて臨戦態勢をとる京子。場を支配していた拳銃から、敵である大輔に意識を戻す。そこに、大輔の最後の罠があるとも気づかずに。
「は……へ?」
京子の口から、思わず間抜けな声が上がる。視界に飛び込んできたもの。それは……。
パンツ一丁で此方に突進してくる、筋骨隆々な中年男の姿だった。
更なる予想外な大輔の行動に、京子は完全に身体を硬直させる。大輔には、それで充分だった。
「おらぁ!」
下から掬い上げるように、黒い影が炸裂する。脱いだパンツスーツを、大輔が逆袈裟懸けに振り抜いたのだ。
付けっぱなしのベルトの金具が、京子の手と、握られた拳銃の銃身を捉える。鈍い音を立てて、京子の武器が弾きとばされた。
即席の鞭の面目躍如だ。大輔はそんな事を思いながら、更に京子へと肉薄する。近接戦闘に持ち込めば、そこは大輔の独壇場だ。京子の血の気が引くよりも速く、大輔の攻撃が始まった。
片腕を捕まれた京子の身体が、大輔の胸板へと引き寄せられ、それと同時に、大輔は片足を後ろへと振り上げる。直後。京子は右足首を走る鈍痛と共に、地面へ仰向けに叩きつけられていた。
柔道の投げ技にして、足技にも数えられる大外刈。
元は普通の女子大生である京子に、逃れる術はない。それは紛れもなく、見えざる神速の一撃だった。
「加減はしたぞ? 今度こそお縄につくんだな」
大輔はそう言いながら、そのままマウントポジションを取り、京子の両手を抑える。衝撃で昏倒してくれていれば御の字だったが、どうも加減が過ぎていたらしく、京子には意識があるようだった。
濁った瞳が、舐めるように大輔を捉える。欲情にも似たその眼光を、大輔は知っていた。
数多の犯罪者と対峙した大輔だからこそ分かる、独特の気配。そのなかでも純粋に狂った者だけが見せる、最上級に危険な香り。即ち――。
「食べるのは、レイ君とあの女だけにするつもりだったのにな」
殺意だった。
まるで、出された夕食に不満を愚痴るかのように、京子はぼやく。そのままゆっくり、邪悪な笑みを浮かべながら口を開く。首を伸ばし、京子の顔が辿り着いたのは、ナイフで突き刺された、大輔の片手。その傷口だった。
クチャリと。柔らかくて新鮮な肉を噛みちぎる音が、大輔の脳髄に直接響いた。
「ぐっ……がぁ……!」
悲鳴を堪えたのは、大輔にとって半ば意地のようなものだった。刑事の弱みは、そのまま犯罪者が付け入る隙になるからだ。
だが、再び沸き上がる激痛からは逃れようもなく、大輔がほんの一瞬拘束を緩めてしまったのを、誰が責められようか。
そんな大輔のみせた刹那の緩みを、京子は明敏に察知していた。次の瞬間。京子はまるで蛇のように身体をしならせ、あっという間に大輔の下から脱出してしまった。あまりの早業に大輔は面食らいながらも、慌てて京子を視線で追う。そこへ――。
「動かないで」
冷たい声が、大輔の少し離れた前方から響く。顔を上げた大輔の目が、拳銃を此方に向けた京子の姿を捉える。
「拳銃、投げて寄越したのは予想外だったけど、こんな形であたしに利用されるとは思わなかったでしょ?」
勝ち誇った顔で笑う京子。それを大輔は、厳しい表情のまま見据える。
「フフ……迫力満点ね。刑事っていうより、狼みたいよ? いやん、あたし襲われちゃったぁ」
ふざけたように身を捩りながら、京子は笑顔から一転。能面のような表情になる。
この場にレイがいたら、間違いなく震え、竦み上がっていた事だろう。被害者になりかけたレイだからこそ知っている顔。殺人鬼の本気が、そこにはあった。
「叔父さんを生かしておく理由もないし、ここで死んでね。大丈夫。叔父さんの死は無駄にしないわ。だって――」
茶色い瞳孔が、狂気に導かれるように開いていく。
「あたしがあんたを喰ってあげるんだから。血も。肉も。脳髄も。骨も。ぜぇええんぶ食べてあげる。光栄に思ってね。あ、で・も。ちょっと男性器は切り落とさせて。あとであの女に突っ込むか、くわえさせるかするから。出来れば勃起したまま死んで欲しいんだよね~……おっぱい見せる? 修一郎はそれだけで、もう色々と大変になってたよ?」
仮面のような無表情の中に、愉悦を滲ませながら、京子は銃にキスをする。
絶対的な優位。約束された勝利に、京子はうち震えているようだった。
そのうち京子は、銃を持ったまま、器用に片手でスカートを脱ぎ始める。どうやら、本気で実行するつもりらしく、誘惑するように京子は腰をくねらせていた。それを見た大輔は、まるで祈るかのように空を仰いだ。
こうなってしまえば、どうしようもない。この距離では、立ち上がった瞬間、発砲されて決着はつく。将棋やチェスで言えば詰みだ。
後はこの殺人鬼の気の向くまま弄ばれて蹂躙されるのだろう。ただし。
「なぁ、山城よ」
大輔は、視線を空から京子に向け、盛大な溜め息をついた後、おもむろに京子に向けて唾を吐きかける。
「お前は、何をそんなに勝ち誇ってるんだ?」
ただしそれは、捕らえたのがか弱い一般人だった場合だ。
京子が捕らえたのは刑事。それも、幾多の修羅場を潜り抜けた、歴戦の猛者だということを、京子は失念していた。
「……大輔叔父さ~ん、状況わかってる?」
侮蔑の唾は、京子の元に届きはしなかったものの、それは本人の表情を変えるだけの威力はあったらしい。
京子の能面の顔が、みるみるうちに不快げなものへと変わっていく。それを鼻で笑いながら、大輔は心底つまらなそうな表情になる。視線の先は、スカートを脱ぎ捨てた京子――。その下着に向けられていた。
「大体、なんだその子どもっぽい下着は? てか、脱ぎ方からして色気がないな。絶望的に色気がない。パンツ見せてる今のお前より、レイの隣にいた娘の方が、断然色気あるってどういうことだ? 仮にも大学生だろうが」
ビキリと。空気が凍り付いた。
ワナワナと震える京子を置き去りに大輔の攻撃は続く。
「悪いがチェンジだ。俺を誘惑したいなら、下着は赤か紫にして、大人っぽいデザインで来るべきだったな。てか……」
大輔の視線が上へと移り、京子の一部分を目に留める。
再びの溜め息。
「てか、おっぱい見せる……だ? 寝言は寝て言いやがれ。そんなもんどこにある?」
止めが刺された。
大輔に向けられた拳銃は、今や強風の中で構えているのかと見紛う程、落ち着きなく。揺れていた。
ウフ、ウフフフフ……という圧し殺したような笑い声が京子から漏れている。
「変態……死んで」
直後、死の宣告と共に、京子が持つ拳銃の引き金が引かれた。
破裂するような音と共に放たれた銃弾が、立て続けに三発、大輔の身体に撃ち込まれる。慈悲も、一欠片の容赦もなく。鉛の塊は大輔の身体を破壊し、その命を刈り取っていった。
「え……嘘? 何で?」
少なくとも、京子の中ではそうなる筈だった。
だが、京子の目の前の男は、血の海に沈むことなく、してやったりな表情で笑っている。
歯を食い縛りながら、京子は再び引き金を引く。が、拳銃から弾丸が撃ち出されることはなく、響いたのは、カチンという間抜けな音だけだった。
「弾入りの拳銃を、犯人にぶん投げる刑事がどこにいる? 最後の一発以外は弾は抜いていたんだよ」
手の中で三発の銃弾を転がしながら、大輔は立ち上がる。京子がすかさずメスを取り出すが、大輔は気にも留めないかのように、一歩前に出る。
「脅しのつもりか? 武器を持つだけなら、クソガキでも出来る。ナイフでも銃でも。持つだけなら……な」
独特の構えを取りながら、大輔は男臭く笑う。
「自分の保身や欲望の為の武器なんざ、怖くもなんともねぇんだよ。仮にお前が弾入りの拳銃を持っていても関係ない。怯まず。臆せず。諦めず。それが俺の刑事としての流儀だ!」
雄叫びを上げながら、大輔は大きく踏み込む。
勝敗は決した。
泥臭い刑事の技が、血の芸術家を見事打ち破ったのだ。
※
「女の子をズボンで縛るとか……」
捕らえられて尚、ブツブツと文句を述べる京子を無視し、大輔は黙々と作業を続けていた。
メスを取り上げ、ベルトで手だけ封じるのでは生ぬるい。この女は手足の捕縛だけでなく、猿轡でも噛ませて、初めて安全になった言えるだろう。
脱いだパンツスーツで、京子の足を確りと封じ込め、大輔は取り敢えず一息つく。猿轡は……後で手頃な物を口に噛ませよう。確か実験棟とやらにリネン庫があった筈だ。
そんな事を考えながら、大輔は己を省みて、つい苦笑いを漏らす。
大輔が身に纏うのは、今やパンツとタンクトップ一枚のみ。捕縛出来る手頃な物がないからとはいえ、パンツスーツまで使ったせいで、随分と肌寒くなってしまった。レイが見たらビックリするかもしれない。
「レイ君……あの女と一緒かぁ」
そんな大輔の憂鬱を置き去りに、京子は憎々しげに此方を睨む。清々しいくらいに、目が「あんたのせいよ」と、語っていた。
「だったらどうした? これ以上ちょっかいだしてたら、馬に蹴られるぞ?」
そういった色っぽい関係かどうかはわからない。少女の見た目は高校生なので、もし仮にそうだとしたら叔父として、刑事として色々と思うところがあるのだが、今は保留。
殺人鬼に付け狙われる方が、大輔にはよっぽど心配だった。
「蹴られるのはあの女よ。ま、いいわ。いずれ二人とも……ウフフ……私の作品に……」
「一人盛り上がっているとこ悪いが、お前はもう、日の光は浴びれんぞ。あまりに殺し過ぎた」
狂った笑いを浮かべる京子に、大輔は冷たく言い放つ。すると、京子は楽しげに。ますます大笑いしだした。
「どうかなぁ……死んだ女も化け物になって一人歩きしてるのよ? あたしが処刑されたとしても、幽霊になる可能性も無きにしもあらず。下手したら脱獄のチャンスもあるかもね?」
全く懲りた様子も、諦めた様子も見せず、「幽霊になってだなんて、非日常だわ!」などと宣いながら、京子は目を輝かせる。逃亡中に、元々壊れていた思考回路などが、更に酷くなってしまったのだろうか? 大輔がそう考察していると、不意に背後から、身を切るような断末魔が聞こえてきた。
どうやら、あっちも終わったらしい。
肩を竦めながらも、大輔はそちらに顔を向ける。森の向こう側から、アルビノの少年――。実際は青年らしいが、ともかく見知った顔。明星ルイが駆けてくる所だった。
何やら慌てているようにも見える。一体どうしたというのだろうか? 大輔は首を傾げながらも、ヒラヒラと手を振ってみた。
「おおい。どうし……」
「逃げろ! 大輔さん!」
切羽詰まったかのような、ルイの叫び声に、大輔の言葉は遮られた。
――直後。
すぐ近くの木から、牛程の巨大な塊が、低い音を立てて着地した。
「……は?」
大輔の思考が停止する。
無理もない話だ。そこにいたのは、つい先程断末魔を上げていた筈の、大蜘蛛の怪物だったのだから。
避けろ!
大輔の本能がそう叫んだのと、目の前の蜘蛛が大顎を鳴らしたのは、殆ど同時だった。
緊急回避に右斜め前へと跳んだ大輔。蜘蛛とのすれ違い様に、頬と腕が切り裂かれた。幸い、致命傷には至らない。が、後数秒遅かったら、今頃どうなっていたか。本当に紙一重だった。
そこにルイが到着し、鉤爪が振るわれる。が、大蜘蛛はそれを予期していたかのように、悠々と跳んで避けてしまう。その着地場所は……。
「ひっ! い、やぁあぁああ!」
京子の上だった。小さな女の身体にのし掛かった蜘蛛は、八本の脚を絡み付ける。京子は悲鳴を上げながら、なんとか逃れようとするが、それは出来ない相談だった。彼女の身体は、ついさっき大輔の手で拘束されたのだから。
大輔の顔から、血の気が引いていく。これから起こるであろう悲劇が、嫌でも予想できる。
ついさっき、とっさに回避行動をとった大輔は、確かにその声を聞いたのだ。撃ち鳴らすような大顎の音に混じった、怨念混じりのくぐもった声。
「モット血ヲ……肉ヲ……報イヲ……」
その瞬間、大蜘蛛の顎がゆっくりと開いていく。それはまるで、ご馳走を前にして歓喜する、無邪気な子どものようだった。
「……よ、よせ」
乾いた懇願の声が大輔から漏れる。だが
そんなものは、怪物に対して無意味だった。
「やめろおぉおおぉお!」
大輔の無念の叫びが、森を揺るがす。
それも虚しく、怪物の大口は、無抵抗の女へ――、その柔らかな腹部にかぶりついた。
湿った音に続けて、何かが引きちぎれるようなブチブチという嫌な響き。それは、おぞましい光景の衝撃と共に、大輔やルイ。そして、京子の目や耳へと焼き付き、こびりついていく。
暗く陰惨な世界の中。じめじめとした土の上で、蹂躙が始まろうとしていた。




