70.予期せぬ訃報
冷たい水が、僕の身体を包みこむ。酷使を重ねた肉体が、心地よい脱力感と一緒に解されていき、僕は思わず息を吐いた。
遡ること三十分前。覚醒した僕に、ルイが勧めてきたのは、「取り敢えず身体洗ってきなよ」の一言だった。
なるほど。改めて見てみれば、地下室の床やベッドは勿論、僕の身体も血まみれだ。気の弱い人が見たら卒倒しかねない、なんともホラーチックな光景がそこにはあった。
「レイ君が逃げ込んだ森と反対方向に、大きな清流がある。そこがちょうどいいと思うな」
そう提案するルイに対して、僕は思わずストップのジェスチャーを送っていた。
今は十月。山奥とあって、当然ながら寒い。そんな中で川なんかに入ったら、間違いなく凍え死ぬ。
捕食されるという、あり得ない体験を経た僕に、これ以上の責め苦を強いるというのか!
僕がそんな風に抗議の声を上げると、ルイはいつものように、アルカイックスマイルを浮かべながら、歌うように宣った。
「論より証拠。ここは騙されたと思って入ってきてみなよ」
そうして、今に至る。血まみれも嫌だったので、渋々ながら川に入ってみたのだが、そこで僕は驚くと共に納得した。ルイが言っていた、『論より証拠』の意味を。
「そうだよな……僕はもう、人間じゃないんだっけ」
水を手で掬いながら、その事実を再認識する。
川の水は確かに冷たい。だが、少なくとも寒すぎて死ぬ。まではいかない。体感温度が変わってしまっているのか、それとも生物としての強度が上がっているのか。判断は難しそうなので、取り敢えず保留だ。
僕は身体をぐっと伸ばしながら、怪物に捕食された時を思い出す。記憶は後半に行くにつれて、目も覆いたくなるようなものばかりなので、今ここで回想するのは主に前半部分だ。
「……私達。か」
怪物が、僕に言った言葉に含まれていたもの。これが意味することは、やはり……。
視線を、少し離れた岩陰に向ける。そこに、見慣れた姿があった。
今は僕と同じように、生まれたままの姿で水浴びをしている。
清流で濡れ、いつもより色の深さが増した黒髪が、彼女のしなやかな肢体に張り付いていた。
水を弾くような珠の肌。血の汚れは残らず洗い流されている。月明かりと水面の乱反射で、その白さはいっそう際立つようだ。
それは、一枚の絵画にでも出来そうな、神秘的な光景だった。
名前のない怪物。僕を手に入れた今、彼女は何を思うのだろうか?
〝思う〟と考えたところで、僕はつい肩を竦める。以前までなら、こいつは喋れない。心なんてある筈もない。そんな考えだった。だけど……。
僕の視線を感じた怪物は、首を傾げながらも柔らかく微笑む。
どうかした? というような表情に、僕は何でもない。と言った風に首を振りながら、慌てて怪物から目を逸らす。
頬が焼けるように熱かった。思い出されるのは、あのときの言葉。
『いっしょに、いたいの……はなれたく、ない。はなれ… …ないで』
今までどんな気持ちで僕に接してきたのか。それが分かってしまった時に僕が感じたのは、どうしようもないくらいの羞恥と少しの疑問だった。
欲求対象者は、肉体共有者の感情によって選別される。米原侑子は、どうして僕なんかに興味を持ったのだろうか? 考えてもわからない。
ただ、今この場で言えそうな事も一つある。それは……。
「……取り敢えず、前隠して欲しいんだけどな」
目のやり場に困るのだ。色々と。
僕は思わずため息をつきながら、洗い流された身体を乾かすべく、怪物の手を引き、向こう岸を目指す。
手を握られて、怪物が何だか嬉しそうに見えたが、無視。
汚れは落とした。身体が変わった影響か、京子に刺された傷は既に塞がっている。痛みが引いたからなのか、頭が妙に冴え渡っているようだ。
身体を洗いながらも、僕は色々と考えた。教授の手記やレポート。それらを組み合わせて、照らし合わせ、ない知恵をしぼって思案したのだ。
そうすることで、今までの違和感や、疑念の答えが少しずつ氷解していく。怪物の事は知ることが出来た。僕の目的を省みれば、それで終わるはずだった。だが、知るべき事は怪物の事ばかりではなかったのだ。
「聞いてみないと、始まらないか」
明星ルイ。アルビノの怪物。僕の予想が正しければ、彼は……。
※
「やあ、お帰り。さっぱりしたかい?」
髪を乾かし終わり、第四実験棟に戻ってきた僕達を、ルイはにこやかに出迎えた。
「ああ、一応は……ね」
それに曖昧な返事をした僕は、思わずそこで硬直する。
そこに、信じがたい光景があった。
「おお、レイ。久しぶりだな」
合流場所は第四実験棟の二階。ごくあり触れた病室の中だ。すえた臭いと、僅かに残る消毒液のような臭い。そこまではいい。佇むアルビノの怪物は当然として、ベッドに横たわったまま、静かな寝息を立てている汐里もまぁ、いたとしても違和感はない。だが……。
「大輔叔父さん……なんでパンツ一丁なの?」
もう一人、ここにいてもおかしくない人間がいた。いたのだが、その格好が問題だった。
「……皆まで聞くな。やむを得ない事情があったんだよ」
げっそりとした顔だった。森の中での戦いで、何かあったのだろうか?
僕はそんなことを思いながら、改めて病室をざっと見渡す。
もう長いこと使われていないからなのか、ずいぶんと簡素な部屋だった。白っぽい床や壁は、少し傷みが目立つ。硬質な印象を受けるベッドが二つ。それは今、両方とも埋まっていた。一人は汐里。もう一人は、汐里に操られていた男だった。彼も無事保護されたらしい。
「さて、じゃあ、話そうか」
僕と怪物に椅子を勧めながら、ルイはパチンと指を鳴らす。いちいち芝居がかった奴だ。とは突っ込むまい。僕は静かに頷くと、パイプ椅子に腰掛けた。
汐里のベッドに腰掛けるルイ。それと向かい合うような形で、僕。右隣に大輔叔父さん。そして……。
「いや、椅子あるだろ。なんで僕の膝の上に座るのさ」
怪物は、さも当然のように僕に座る。話せるようになっても、こういった所は変わらないらしい。
僕の問いかけもどこ吹く風とでも言うかのように、怪物は黙ったまま、僕に身体を預けてくる。
多少のズレはあるものの、ようやっと意思疏通が出来るようになったというのに、随分な仕打ちだ。
「おい、何とか言ってくれよ」
怪物は答えない。
「……なぁ、ちょっと」
無反応。
「おーい」
無言。
「……あれ?」
違和感に気づき、僕は首を傾げる。どういう事だ?
「レイ君? どうしたんだい?」
怪訝な表情のまま、ルイが此方を見てくる。いや、そんな顔したいのは僕の方だ。こいつ、話せるようになったんじゃないのか?
「なぁ、ルイ。怪物とは、意思疏通は可能なんだよね? レポートに書いてたけど」
「え? うん、そうだね。可能だよ。でも、その子が言葉が話せるようになるのは、もう少し先の筈だよ。生まれてまだ一年も経ってないしね」
「……まだ、先?」
衝撃が走る。
いや、それは……おかしい。だって僕はこいつと――。
その時、腕に軽い傷みが走る。見ると怪物が僕の腕を軽くつねっていた。
「えっと……」
どういうつもりか、怪物の方を見る。すると、怪物は、僕に何かを訴えかけるようにじっと見つめてきていた。
「レイ君?」
疑惑を含んだ視線が向けられる。こいつがさっき口をきいたと教えたら、ルイはどんな反応を見せるのだろうか? 一瞬そんな考えが頭を過る。
「……ごめん。なんでもない、よ」
が、しかし。僕は喉まで出かかった言葉を飲み込み、笑顔を取り繕う。怪物が言葉を話した事を教えるのは、ルイの話を聞いてからでも遅くない。そう思ったからだ。
何より、彼女――怪物の目。それが、彼女の心情を如実に語っていたように思えたのだ。まるで、「言わないで……」とでも言っているかのように。
「それより、話してくれるんだよね? 全部」
話題を変えるべく、僕はルイに問いかける。柔らかな怪物の感触や匂いに、思わずクラクラしそうになるが、そこは何とか押し留めた。
「ああ、勿論だ。君の疑問に全て答えるよ。それが約束だったからね」
アルカイックスマイルで応じるルイ。言質は取った。ここからは質問攻めだ。だけど、その前に、気になる事があった。
「そういえば、もう一匹の怪物はどうなったの? 京子は?」
ルイや叔父さんがここにいる以上、勝利はしたのだろう。どこかに隔離でもしているのだろうか?
すると、ルイや叔父さんは、苦虫を噛み潰したかのような微妙な表情を浮かべる。
「勝ったには勝ったよ。だけど……」
ルイがチラリと大輔叔父さんの方を見る。叔父さんは、拳を握り締めたまま、その場で項垂れていた。
「刑事には、勝利はない。刑事が動くのは、決まって事件が起こってからだ。負けていた所を、犯人逮捕によって引き分けに持ち込むのが仕事。俺はそう思っている」
ポツリポツリと、叔父さんは呟く。声に隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「そういった意味では、負けだ。あの世に逃げられちまったら、追いかけるわけにはいくまいよ」
溜め息と共に、叔父さんの言葉が重くのし掛かる。それって、つまり……。
ワナワナと震える僕の方を見ながら、叔父さんは苦々しげに頷いた。
「ああ、山城京子は……死んだ」
それは、あまりにも唐突な訃報だった。




