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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第四章 真実の深淵
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69.血まみれの初夜

 千切れるような音がしたかと思うと、それは僕の身体から切り離された。

 痛い……痛い……痛い……。

 僕の中で何度もその言葉が繰り返される。

 生暖かくて、ねっとりとした何かが、目から――。否、目があった所から洪水のように溢れ出る。

 真っ赤な血だ。それが僕の頬を、服を、ベッドのシーツを汚していく。見るも恐ろしい光景だが、それはまだ可愛らしいものだと言えるだろう。

「あ……う……あ……」

 耐えがたい激痛と、半分しか見えなくなった視界で、僕はおぞましいものを目撃する。

「んっ……んむっ、んちゅ……」

 まるで上等な飴玉でも舐めるかのように、怪物が口の中で何かを転がしている。そして……。

 クチャリ……という音を立てて、怪物の口の中でそれが弾ける。幸せそうに、味わうように、怪物はそれを咀嚼した。白い喉がコクンと動く。僕の片目は、あっさりと怪物に飲み込まれた。

「ひぃ……っ!」

 這い上るかのような寒気が僕を襲う。自分の身体の一部が離れ、誰かの体内に取り込まれて行く。そこには、喩えようもない、悪夢のような恐ろしさがあった。

 それだけではない。眼球を抉り喰われ、痛くてたまらないのに。普通なら気を失ってもおかしくない位出血しているのに。僕は意識を失うことが出来なかった。

「レ……イ。レイぃ……」

 痙攣する僕を、怪物はしっかりと抱き止め、感極まったかのように僕の名を呼び続ける。その名を言葉で紡ぐのが嬉しくてたまらないかのように、甘え、蕩けきった声で僕の名を呼ぶ。

 気がつけば、怪物は流れる血流に舌を這わせていた。極上の蜜でも味わうかのように、顎を。頬を。そして目元へと、怪物は血塗れな僕の肌を丹念に舐め取っていく。

「んおっ!?」

 軈て、それは空っぽになった眼窩まで到達する。舌先が空洞の中で円を描き、僕のふさがった視界をねぶる。

「ん……こっち、も……」

 怪物の口が、今度は僕のもう片方の目へと迫る。顔中を血に染め、恍惚の表情を浮かべながら近づいてくる。

「やめ……ろ……」

 弱々しく怪物を突っぱねる。押し戻された怪物は、少しだけ悲しそうな顔になる。これで諦めてくれたりは……。

「レイ……ふく……じゃま」

 しなかった。目にも止まらぬ速度で怪物の手が振るわれ、僕の上着が袈裟懸けに裂かれる。

「な、なにを!」

 する! まで言い切る前に、怪物の手は、背中に広がる六本の脚は、僕の上着をみるみる剥ぎ取っていく。あれよという間に僕は上半身裸の状態にされてしまった。

「ああ……レイ。私の……(ワタシ)のレイ……!」

 肩に、鎖骨に、胸元に、腹に。怪物は何度もキスを落とす。強く吸い上げられたそこは、鬱血し、赤い花弁のような痕が残る。

 その間、六本の脚は蠢き、僕の背中をくすぐり始めた。時折引っ掻くような軽い痛みが走り、その都度に身体に甘い痺れが残る。

「あ……ぎぃ……」

 途切れぬ痛みは、恐怖は、僕の精神を削っていく。

 熱にでも冒されたかのように、身体の奥が燃えているようだ。もっとも、身体を熱くしているのは僕だけではないらしい。紅潮した顔のまま、怪物は僕の耳を甘噛みし、舐めしゃぶる。

「も……ダメ……がまん、できな……い」

 その一言が合図だった。怪物が、僕の首筋に顔を埋める。その瞬間――。

「い…がぁあぁああ!?」

 今までにないくらいの、形容しがたい快楽が僕を襲った。

 久方ぶりに思えた吸血行為に、僕の頭の中で火花が上がる。触れあった部分から、怪物が僕の血を嚥下(えんげ)するのを感じながら、僕は身体を震わせる。

 てか、長い。吸血がいつもより長い。

 僕の身体から、形容ではなく本当に血の気が引いていく。体を捻って逃れようにも、僕の身体は怪物の腕と蜘蛛の脚にがんじがらめ状態で動けない。

「し、死ぬ……」

 思わず漏れた呟きに、怪物はピクリと反応する。

 途端に、腕の締め付けが強まった。僕の意識が飛ぶのを許さないとでも言うかのように、怪物は僕にすがり付く。

 何時間にも思えた吸血が終わったのは、そこから暫く経った後だった。

 貧血でぼんやりとする視界。スパークしていた火花は、今は青い燐光となって、僕の意識をぐらつかせる。一体どれくらいの血を抜かれたのだろうか? いつもより多目だったのは明白だ。

 妙な倦怠感に苛まれていると、首元に違和感を感じた。ああ、そういえば、いつも吸血の後に、そのまま入されていたまものがあったっけ。

 まるで他人事のように考える。身体の中に何かが流れ込んできた。怪物の体液が、僕の中へと浸透していく。

 足りない血を補うかのように。それは、背徳的な快楽を伴いながら、僕を惑わせ、侵していく。

 不意に刺された方の手に、ムズムズとした感触と、痛みを覚えた。

 まるで注射針を刺されたかのような感覚は、更に深くなる。

 妙なものが見えた。幻覚なのかは分からないが、一匹の蜘蛛が、僕の傷口にその身を沈めているのだ。蜘蛛は肉を裂き、血管や筋肉を掻き分け、手の中に潜り込んでいく。むず痒い感触と熱が強まった。骨や神経が焼かれている。そんな錯覚に苛まれるようだ。

 沸き上がるような疼きは最高潮まで達してきた。僕の額は。いや、身体中は脂汗でぐっしょりと湿っている。

 痛い。熱い。怖い……! こんなに辛いなら、いっそこの手を切り落としてしまいたい……!


 僕が思わずそう思った瞬間。それは訪れた。

 ブチュリ。という嫌な音を立てて、僕の手が、文字通り弾け飛んだ。


「……え?」


 ベッドのシーツが、更なる赤で染まる。白かったそれは、鮮血で既に大惨事だった。そこに僕の手だった物がぶちまけられたことで、ますます猟奇的な構図が出来上がる。

「ハ……ハハハッ」

 思わず乾いた笑いが漏れた。

 ベッドに転がった、サイコロステーキのような僕自身の残骸を見たから? 違う。

 痛みで錯乱して? 気は狂いそうだが、違う。

 手が弾け飛んだなら、手首から先は無くなる。普通の人間ならそうなる筈だ。だが、僕はもう、違っていたらしい。


 そこにあったのは、見覚えのある黒い鉤爪。僕の恐怖の象徴だった怪物の手。それが、僕の手首から生えていた。


「なんだこれはぁああぁ!!」


 あらんかぎりの絶叫が地下室に響く。それに合わせて、僕の鉤爪が不気味に動く。

 嫌になるくらい滑らかに。蜘蛛糸の粘着質な音を立てて、それは握り、開く。


 その瞬間。僕の思考は断裂した。

 正気の度合いなんて、もうメーターが振り切れている。

 鉤爪が出現してから、突然鎌首をもたげた、強烈な飢餓感。

 混乱する頭の中。

 涙を目に溜めたまま、僕は鉤爪で怪物の肩を掴む。


「ねぇ、これ……治るよね? ずっとこのままじゃないよね?」

 思ったことをそのまま口にする。すると、怪物は掴まれていない側の手を鉤爪に変え、柔らかく微笑んだ。

「うれ、しい……レイと……おそろい」

「違うよ! そうじゃなくてさぁ!」

 ダメだ。喋れてもダメだこいつ。結局どこかズレている。喋れると意思疏通が出来るはイコールではないようだ。

 僕が内心で無念の雄叫びを上げていると、掴んだ怪物の肩口から、血が噴き出した。

「なっ!?」

 力を入れたつもりはなかった。加減が上手く出来ないのか? 思わず息を飲む僕を、怪物は優しく引き寄せる。クラクラするような甘い芳香に、思わず僕の喉がゴクリと音を鳴らした。……おかしい。何でだ? さっきから身体がおかしい。

 突然な身体の変調に僕が戸惑っていると、怪物がそっと僕の耳元で囁いた。。

「レイなら、へいき。(ワタシ)をきずつけていいのは……レイだけ。だから――」

 静かで消え入りそうな、透明感のある声。それはまるで魔法のように、僕をおかしくさせていく。


「がまん……しないで。レイ。(ワタシ)をきずつけて」


 ブチンという。音がした。


 吸血と、体液の注入が終わってから、喉がカラカラだ。

 迸る衝動にその身を焦がされるままに、僕は怪物の首筋にむしゃぶりついた。

 怪物の白い首に、僕の歯が食い込んだ。

 口の中に、生暖かいものがこびりつく。喉につっかえそうなそれは、本来なら人が飲めるものではないだろう。だが、今の僕にはそれが酷く美味なものに感じた。感じてしまった。

 何年も寝かせた極上のワイン。そんな喩えがしっくりくる。

 甘美で。まろやかで。それでいて蕩けるような味。血を啜る僕のすぐそばで、怪物の艶やかな喘ぎが聞こえる。圧し殺すように自分の手で自分の口を塞ぐ怪物。それがますます、僕の脳をおかしくさせる。


 ああ、終わった。

 なんとなくそう思った。


 それは人としてか。それとも、他の大事なものを失った瞬間故か。


 互いの鉤爪が、互いを引き裂く。

 血飛沫が舞う中で、口づけを結ぶ。

 穢れた指先が絡み合い、熱情を含んだ視線が交差する。

 痛みはない。いや、鈍くなっているが、正しいのかもしれない。毒でも回っているのだろうか? 随分と甘い毒があったものだ。

 口内に舌が入ってくる。当然のごとく鉄の味がした。

 いつの間にか、怪物のセーラー服が無くなっている。黒い下着だけを身に纏い、柔らかな指が僕の身体を這う。酔ってしまいそうだ。

 僕の腹部が裂かれ、臓物が引きずりだされた。美しい少女の手に鷲掴みにされたそれ。なんともアンバランスで蠱惑的な絵面に、思わず身の毛がよだつ。

 うっとりとした表情で、それに流し目を向ける怪物に、僕はしばし見とれていた。こんな状況だというのにだ。


「ああ、やっぱり、こんなの……あんまりだ」


 それが、最期の呟きだった。


 ※


 そこから先は、語るまでもない。

 僕は彼女に補食された。身も、心も。

 この瞬間から、僕は彼女のものとなり、彼女は僕のものになった。

 そして……。


「アモル・アラーネオーススによる欲求対象者の捕食の際、対象者には身体に害のない、一種の麻酔に近い毒が注入される。この毒は、最初のうちはフグの毒に似て、対象者の意識を保ったまま、痛みなどの感覚を残す。その上でアモル・アラーネオーススは対象者の血液を限界近くまで吸いとった上で、自身の体液を、同様に限界近くまで分け与える。これによって、感覚に揺さぶりをかけられた対象者の身体は、完全に変質してしまうのである。

 変化した対象者の肉体は、アモル・アラーネオーススに捕食されては、再生を繰り返す。この時、対象者は強烈な飢餓感に襲われ、無意識のうちにアモル・アラーネオーススの血を求める。いうなればこれは、血液を取り込み、己の糧とするための、いわば練習である……」

 聞き覚えのある、よく通った声。別れたのはほんの少し前だというのに、妙な懐かしさを感じながら、僕は静かに目を開けた。

「こうして、欲求対象者は新人類として目覚めるのである……」

 そいつは、教授の机に腰掛けて、レポートを読んでいた。僕がくしゃくしゃにして壁に叩きつけたそれの皺を丁寧に伸ばして、まるで作文を朗読するかのように。そんな仕草でも、映画のワンシーンのようになるのだから、色々と反則な奴だと思う。

 僕の視線に気づいたその人物は、静かにこちらに向き直る。そこにいたのは、少年のような若々しい男だった。

 金色にも、銀色にも見える髪。異様に整った顔立ちと、白い肌。血色の双眸。


「おはよう、レイ君。気分はどうだい?」


 相変わらずな彫像の笑みを浮かべながら、その男――。明星ルイは小さく手を振ってくる。

 僕は二、三回瞬きをしてから、溜め息を漏らす。

「そうだね……」

 視線を下にずらすと、怪物が僕に寄り添うようにして眠っていた。……眠らないと思ってたけど、ちゃんと寝るんだな。何て事を思いながら、僕は天井を見上げる。


「最悪だよ……色んな意味で」


 それは、僕の偽らざる本心だった。

 



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