68.最期の愛撫
唐沢汐里は、死の淵をさ迷っていた。傷は深い。何より、凶器が問題だった。どうやら自分はここまでのようだ。薄れそうになる意識の中、汐里は他人事のように直感した。
諦めも交えて溜め息をつこうとするが、呼吸がうまくいかない。緩やかに死へと向かうのを感じながら、汐里は薄れる視界の端に銀色を見た。
ルイと、もう一匹の怪物。その死闘は、まだ続いているらしい。
馬鹿馬鹿しい戦いだと思う。あの人外同士の戦いではなく、ルイが今も臨む、〝真の戦いの方〟だ。
最初から、勝ち目などない。そういう風に出来ているのだ。遅かれ早かれ、自分が手をださなくとも、近い将来、きっと誰の手で怪物は駆逐される。教授が繁殖を試みても、原種が二体しか生き残っていないという事実が、それを如実に表している。
出来るなら、その駆逐の鉄槌は自分の手で下したかったが、こんな状態ではそれも叶いそうにない。
結局、事はルイが思い描いた通りの流れで進んでいる。そう思うと、汐里は地に倒れたまま、自嘲気味に笑う。
「ああ。全く……うまくいきませんね。何もかも……」
悔しげな呟きは、誰にも聞かれることなく消えていく。瞼が重たくなる感覚に身を委ね、汐里は意識を完全に失った。
最後に浮かんだのは、レイとあの、少女の怪物だった。
お互いに庇い合う、あの姿。あれを思い出せば思い出すほど、レイの下す結論が分からないのが少し残念だった。もっとも、どうなるかなんて大体予想はつくのだが。
それは、汐里にとっては珍しい、ただなんとなくの、漠然とした興味だった。
※
ナイフの切っ先が虚空を泳ぐ。意を決してナイフを振り上げたが、そこから進めない。
想像の中では、何度もこいつにナイフを突き立てている。
簡単だ。ただ、この手を振り下ろせばいいのだ。それで僕は、人間に戻れる。人間として生きていける。なのに――。
「どうしてだ……」
僕は衝動のままに声を絞り出す。
どうしてお前は、何の抵抗もしないのか。
どうして僕は、こんなにも迷っているのか。
どうして僕の視界が……こんなに歪んでいるのだろうか。
頬を何かが伝い落ちる。透明な雫が、怪物の頬を濡らしていた。
ああ、僕は泣いている。苦しいのか。
不意に怪物の両手が伸びてくる。白くて冷たい掌が、僕の両頬を優しく包み込む。
「……あ」
身体の力が抜けそうだった。怪物の親指が、僕の涙を優しく拭う。視界がクリアになったとき、僕は怪物の口が動いているのを見てとった。
「……え?」
一連の唇の動きは何らかの言語を話しているようにも見える。が、肝心の声がないものだから、意味は分からない。
何かを伝えたいのだろうか?
「聞くな!」と、僕の中でそんな警告が響く。聞いてはいけない。耳を傾けるな。頭では分かっているのに、気がつけば僕は耳に神経を集中させていた。
怪物の口から、独特の呼吸音が聞こえ始め、そして……。
「レ……イ……」
か細い、弱々しい声がした。
僕のものではないそれは、紛れもなく怪物の口から漏れていた。
「やっと……とどいた。……私の、こえ」
目から涙を溢れさせながら、怪物は幸せそうに微笑んだ。
こいつが涙を流すのを見るのは、これで二度目だ。
後にも先にも、こいつがあんなにも人間らしい行動をしたのはあの時だけだった。
「〝一度目〟は、……おはなしできなかったから……うれしい」
「……一度目?」
一体何のことだ? 首を傾げる僕をよそに、怪物は苦しげに喘ぎながら、僕の瞳を真っ直ぐに見る。
「エゴだって、メイワクだって……わかってる……でも……」
瞳を潤ませながら、怪物は声を絞り出す。言葉を覚えたての子どものような、たどたどしい口調だった。それでも、透明感のある、綺麗な声で、僕に告げた。
「いっしょに、いたいの……はなれたく、ない。はなれ……ないで」
溢れる涙が止まらない。やめろ……やめてくれ。
「あなたに……ふれていたい……あなたに、ふれてほしい……あなたを、あいして、いたい。私を……〝私達〟を、あいして、ほしい……」
こんなの……卑怯だ。
下ろしかけていたナイフを再び振り上げ、渾身の力で腕を振るう。
僕は――。
〝放りなげられた〟ナイフは、綺麗な放物線を描き、地下室の床へと落ちていく。
僕はやっぱり、こいつを殺せない。殺せないくらいに、心を許してしまった。
兄さん、ごめん。せっかく命をとして助けてくれたのに……。僕は本当に、どうしようもない奴だ。
カラン。という音が、鳴り響いた。
それを皮切りに、怪物は微笑みながら、ゆっくり状態を起こし、正面から僕にしがみつく。突然の抱擁に、引っ込め損ねた手が、巻き込まれる形で僕と怪物の間に挟まれた。
掌に、プリンのように柔らかい感触が当たり、思わず目を白黒させる。慌てて手を引っこ抜くと、怪物の身体がビクンと跳ね上がった。
自由になった手は行き場をなくし、虚空をさ迷う。手に残った生々しい感触のせいで、どうにも落ち着かない。
熱くなる頬を感じながら、自分の掌を見つめていると、怪物がおねだりするような視線でこちらを見ているのに気が付く。ふと、初めてこいつが発した言葉を思い出した。……何もこんな時に思い出さなくても。と、自分でも笑いたくなる。
「ああ……もう!」
半ばやけくそという感じになっていた。僕は、遊んでいた手を、そっと怪物に回す。お望み通り、僕から触れてやる。これには怪物も予想外だったようで、暫く身体を硬直させていた。ほんの少しの、してやったりな感じ。
だがそれも刹那の間だった。怪物は、安心したように僕にゆったりと身体を預け、嬉しそうに頬擦りまでしてくる。柔らかい身体が押し付けられ、トクン、トクンという心臓の音が聴こえてきた。
ああ、こいつも生きているのだ。互いの鼓動を共有しつつ、今更ながらそう実感する。
その時、劇的な変化が訪れた。穏やかな空気の余韻に浸る間もなく、それは起きる。
甘ったるい香りに包まれるなか、不意に怪物の背中が、大きく盛り上がっていき、ついにはセーラー服の背中が弾けとんだ。
驚く僕は、思わず怪物を抱き締めていた手を離してしまう。怪物が一瞬、不満げで寂しそうな顔になるが、僕が逃げないのを見ると、また微笑みを浮かべる。
手を離したのは、やむを得なかった。こればっかりは仕方がない。
そこには、いつか見た蜘蛛の脚が六本。まるで翼のように怪物の背に広がっていたのだから。
「ありが……とう」
消え入るような声が耳に届いたかと思うと、唇に柔らかくて熱い感触が押し付けられた。触れるだけの、軽いキス。そして――。
「いただき……ます」
恥じらうような声色で、僕の人としての死の宣告は、告げられた。
怪物の唇が、目の前に迫る。舌が僕のこめかみを丹念に舐めていき、そのまた下、眼球に到達する。いつぞやのようにチロチロと、怪物の舌が行き来する。くすぐったさに身を捩ると、怪物は、今度は僕の瞼にキスを落とした。
湿った音が地下室に響き、眼球が吸い上げられているかのような感覚に陥る。
……ん、何かちょっと吸うのが強すぎやしないか? このままじゃ……。
正直に言うと、少し現実逃避していた。
さっき怪物は、ご丁寧に「いただきます」と宣ったではないか。啄むようなキスに身体を震わせるなんて、前座にもならないものだったのだ。
次の瞬間、ジュルン! といった嫌な音と共に、僕の右の眼窩から、柔らかい何かが吸いとられた。
「あ……へ?」
思考が追い付くまで、暫くかかる。そうして、想像を絶する激痛が到来した。
「あ……ぎゃあああああぁぁぁあああぁいぃっ!!」
唸り、荒れ狂う痛みの奔流の中、僕は教授のレポートの一文を思い出す。
『アモル・アラーネオーススによる、欲求対象者の肉体変化……もとい作り変えは、対象者に凄まじいまでの苦痛と、気が狂いそうになるほどの快楽。そして、自分が捕食されるという見るもおぞましい光景を記憶に焼き付けられる。廃人になるのでは? と、不安になるほどのものなので、さっさと気絶してしまうことをお勧めする。もっとも……』
怪物の背に現れた六本の脚と、柔かな二本の腕が、僕をガッチリとホールドする。それは、いつかの魅惑の檻。それの再現だった。
『気絶させてくれたらの話ではあるが』
魅惑と恐怖。苦痛と快楽の饗宴が、今まさに始まろうとしていた。
メインディッシュは……語るまでもない。




