表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前のない怪物  作者: 黒木京也
第四章 真実の深淵
70/221

66.狂気の代償

『アモル・アラーネオースス』

 古びた研究レポートの見出しにあった、見慣れない単語を眺めながら、僕は何度かその単語を口にする。

 地球外生命体という言葉。そして何より、著者名の楠木正剛という名前から、この研究レポートと、『diary』と銘打たれた大学ノートが、僕の探し求めていた答えだと直感する。

 心臓が、煩いくらいに高鳴っていた。僕は何度か二つの品を見比べながら、先ずは『diary』の方を手に取る。

 研究レポートというものは、経験則や、調べたこと等を纏めた物だろう。だとすると、その纏めるまでに到った経緯があった筈だ。何より、ルイが話してくれた、教授の奥さんの末路と、始祖となった怪物の新生。あの後に起きた事など、気になる事が多すぎた。

 ボロボロになったノートを丁寧に捲っていく。

 驚くべき事に、日付は四年も前に遡っていた。


『――七月七日。新種と思われる蜘蛛を発見』


 日記の最初のページには、そう記されていた。

 やはり、発見したばかりの時は、普通の蜘蛛だと思っていたらしい。僕はそのまま、手記を読み続ける。

 『diary』と銘打たれてはいたが、どうも日付が飛び飛びになっている。ルイが『手記』なんて言葉を選んだ意味が分かった気がしながらも、僕はルイに聞いた話の内容と、手記に記された文を照らし合わせていく。


『七月十日。おかしい。明らかにおかしい。調べれば調べるほど、この蜘蛛は既存の種と一致しない。紋様や特徴だけではない。行動の仕方などが、本当にあべこべだ。何より、私が与えた生き餌に、何の反応も示さない。捕獲して既に三日。何かを食した形跡はない』

『七月十一日。巣を張らない以上「徘徊性」であることは間違いない。そう思っていたが、今日午後未明、巣を張っているのを確認した。どうも「徘徊性」と「造網性」二つの特性を併せ持っているらしい。が、依然何かを食す気配はない。死んだ獲物しか食べないのかとも思ったが、どうやらそれも違うようだ。そもそも、衰弱しているようにも見られない』


 そこから暫く、教授の試行錯誤の日々は続いていた。やがて、普通の蜘蛛とは根本的に違う未知の生物である。という結論が手記の中で下された。話は進んでいく。教授の奥さんが、最近自分の研究室に入り浸るようになってきたこと。たまに虚空を見つめては、時折驚いたかのように身体を跳ね上げるようになったこと。研究していた蜘蛛が、突然姿を消したこと。そして――。〝その日〟は訪れる。震えるような字で書かれた手記は、今までの中で最も長い記録だった。


『八月二十日。この日記帳を広げるのも久しぶりとなる。色々と混乱し過ぎて、私自身もこれが現実なのか未だに疑いを持っている。が、夢の類いではないという事が、今も私の後ろにいる存在が証明している。これは紛れもなく現実だ。

 日記を見る限り、あの生物が姿を消したのが一週間と少し前。私は血眼になってそれを探した。探しに探して、私はようやく見つけ出す。あの生物は……〝彼女〟は、妻の部屋で見つかったのだ。

 私は、その時に見た光景と、私の中に芽生えた感情を、一生忘れることはないだろう。 最初に目に入ったのは、変わり果てた妻の姿だった。もはや人の原形を留めない程に破壊し尽くされた妻の身体は、まるで大型の肉食獣が食い散らかした後のような惨状だった。血が部屋一面を真紅に染め上げ、噎せかえるような生臭い臭いがそこを満たしている。

 この世の地獄と評しても差し支えない場所。その中心に、〝彼女〟はいた。奇妙な事を言っているのは承知の上だが、妻の死体のすぐ傍に立っていたのもまた、妻だったのだ』


 僕は、何度もその場面を読み返した。四年前の夏。楠木教授は、怪物と遭遇した。怪物は教授の奥さんに成り変わり、それに教授が気づく。ここまではルイが言っていた通りだった。

 僕が知りたいのはその先だ。八月二十日の手記には、まだ続きがあった。僕は導かれるかのように、その部分に目を通す。


『一目見て、私は直感めいたものを覚えた。そこにいるのは、あの蜘蛛のような生物ではないだろうか? と。妻の皮を被っているのか、妻の姿を真似ているのかは分からない。だが、はっきりしている事は幾つかある。妻は確実に死んだこと。この目の前の生物は、いよいよをもって、この地球上には有り得ない、未知の生物であるということ。そして、最後。恐ろしい事に、私はその謎の生物との邂逅に、心底歓喜し、高揚しているということだった。

 すぐ傍に妻の亡骸があるというのに、私の関心は目の前の生き物にだけ注がれていたのだ』


 その日の内容は、そこで終わっていた。僕は目眩を堪えたままで、眉間に寄せた皺を伸ばす。

 楠木正剛。怪物を見つけ、研究した男。その経歴からして、普通の人とは違うとは思っていたが、早くもその片鱗を見せ始めていたようだ。

 僕は部屋の隅まで移動すると、壁を背もたれにして、床に腰かける。ずっと立ったままでこれだけの資料を読むのは骨が折れそうだ。

 楽な体勢になった僕は、さっそく続きを読み進める。手記の内容は、ますます陰鬱とし、不気味なものとなっていく。何故だか背中が寒くなるのを感じた。


『妻の遺体を調べる。驚くべき事に、身体の臓器全てが抜き取られていた。脳を含めた、全てがである。他に、筋肉と、骨の一部も削り取られていた。傷口から見ると、やはり何らかの肉食動物に補食されたようにしか見えない。妻を食い殺したのは、彼女なのだろうか?』

『彼女は、定期的に私に襲い掛かる。最初は私も妻と同じ末路を辿るのかと肝を冷やしたが、どうやら彼女は、私を捕食する気はないらしい。彼女が妻の姿を象るようになってから、吸血行為は毎晩のように行われている。他にも気になる事象は多々あるが、それはまた明日記録することにしよう。そろそろ、脳の中で電流が弾けだす。彼女が……私を呼ぶ時間だ』

『妻の遺体を処理した。家裏の焼却炉が役に立つとは……。元々原形も留めていなかったせいか、妻の残骸は、あっという間に骨の燃え滓に変わってしまった。感慨は……わかなかった。見合いからの縁。仲は冷めきっていたと思う。ただ、この未知の生物と私を再び引き合わせてくれたのは、妻の犠牲があってこそだ。そこだけは感謝しよう。ちなみに、死亡届けは出していない。ただ、一応血液サンプルは採取し、保管してある。後で彼女と照らし合わせてみよう。葬儀も必要ない。万が一、彼女が見られたら、それこそ大問題だ。そもそも、私は最近、家から出られない。彼女が出してくれないのだ』


 思わず眉を潜めた。不快感が全身を舐め回すのを肌に覚えながらも、僕は手記を読む手は止められない。

 手記の中の時間は、どんどん進んでいく。

 身体所有権の剥奪をはじめとした、数多の能力の発見と、その考察。人前では姿を消す。もとい、極小の蜘蛛の姿となってやり過ごす。血液を食料とする……。

 どれもこれも、僕が見てきたもの、歩んできた道筋と怖いくらいに一致する。


「……あれ?」


 が、そこで僕は思わず、首を傾げた。手記が、途切れていた。彼女が血染めの繭を作り始めて、暫くした辺り。何故こんなものを作るのかについて考察している最中の事だった。以降の大学ノートはずっと白紙のまま。あまりにも中途半端な終わり方だ。

「そんな、ここで途切れるなんて……ん?」

 落胆のあまり、全身の力が抜けかけたその時。パラパラとめくり続けていた大学ノートの巻末に、二行程の走り書きを見つけた。

 焦っていたのか、興奮していたのか。その字は酷く歪で、ぐにゃぐにゃだった。


『こんな事になるとは、誰が予想しただろうか? 十二月二十日。私は、〝彼女との意思疏通に成功した〟』


 全身を、衝撃が駆け抜けた。怪物と、意思疏通!? 教授が?

 その一文は、僕を酷く動揺させるのには充分だった。

 にわかには信じがたい。僕は、あいつの、怪物の声なんて聞いたことがない。そもそも、意思疏通が可能だなんて、初めて知った。一体どうやって?

 はやる気持ちを抑えるように、文の続きを読む。


『彼女曰く、自分はこの惑星の外から来た生命体であるとの事だった。そして、その目的も語られた。どうやらこれは、日記のみで語るのは難しい。彼女の証言が正しいならば、大規模な実験をする必要がある。その結果を纏めた、レポートの作成も必須だろう。これから忙しくなりそうだ。だが、心が踊る。なんだこれは。私は、今だかつてここまで充実したことがあっただろうか? いや、ない』


 全てを読み終わった後で、僕は思わず頭を抱えた。

 これは……ある種の狂気だ。未知の生物との遭遇に歓喜し、それと共に歩むうちに、人としての感覚が失われていったのだろうか? 僕も下手したら、こうなっていたのだろうか?

 だとしたら、人の狂気や悪意を体現した、藤堂や京子。二人で一つの怪物との対峙は、僕の人としての形骸を保つのに、一役買ってしまったと言えるかもしれない。

 脳裏を、純也の姿がよぎる。仮にそうだったとしても。それに対する代償は、あまりにも大きかった。大き過ぎた。

 それに……。

 僕は、走り書きの下。『diary』を締めくくる一文を見ながら、思わず身を震わせる。


 もしも、僕が狂気に身を堕としたとしたら、こんな考えに至るものなのだろうか。ここまで歪んでしまうのだろうか……。


『これは、生命としての原初の欲求だ。この世を、己の遺伝子で埋め尽くす。背徳的で、冒涜的な欲求。その為ならば、私は人であることを捨てよう。より強い、新人類として生まれ変わろう』


 怪物が二体しか残らず、ルイの話では、教授自身も死んだ。教授の計画は瓦解した。全てはもう、終わった事。でも、僕の不安はそうそう拭われはしなかった。

 何か大事な事を忘れている。そう思えてならない。


「次……次だ」

 不安を拭うように頭を振り、両頬を叩いて活を入れる。ともかく、今は知ること。それのみに専念すべきだ。

 ゴクリと、自然に唾が飲まれるのを感じながら、僕は〝もう一つ〟を手に取る。

 教授の目的は知れた。後は、怪物の事だ。

 僕は意を決して、古ぼけた分厚いレポート。『アモル・アラーネオーススの研究レポート』を開いた。


 更なる深淵へと、僕は沈んでいく。

 まるで底無し沼にでも飛び込んでいるような気分だった。


『アモル・アラーネオースス。最終的に、私はこの生物をそう名付けた。私の生涯における、もとい、世紀の大発見と言えるこの生命体。和名もつけるならば、「シンジュウグモ」とでもいうべきだろうか。

 アモル・アラーネオースス。以下、この生物は、通常は血液を食料として摂取する。この生物にとっての血液は、単純な栄養素として機能するのである。また、生物達が持つ様々な能力を使用する際、エネルギー源の一つとしても利用される。この生物が生命活動を行ううえで、人間の血液は非常に重要な要素であると言えるだろう。

 ただし、血液の摂取は、不特定多数の人間から出来るという訳ではない。対象となるのは、この生物が選んだ相手。「欲求対象者」の血液のみに限定される。

 この生物は、警戒心が強く、「欲求対象者」以外の人間には、その姿を見せることすらない。また、余程の事がない限り興味を抱いたり、危害を加える事もない。この生物達が攻撃行動を行うのは、総じて「欲求対象者」の命が脅かされた時のみである。ただし、その習性には、例外がある。

 普段は攻撃的ではないこの生物ではあるが、その長い生涯において、自ら襲いかかり、捕食の対象として殺害する者が、二人存在するのである。

 一人はこの生物が最初に捕食対象にする、「肉体共有者」もう一人は……』


「この生物が選んだ相手。『欲求対象者』である……?」


 身体から、急速に血の気が引いていくのが分かる。頭の中でノイズのような音が鳴り響いていた。

『欲求対象者』を捕食……殺害。それの意味を今更思い浮かべる必要はない。これが示す答えは、至ってシンプルだ。

 レポートを持つ手が震え、乾いた笑いが漏れそうになる。

「僕は……死ぬのか?」

 絶望が、静かに。ゆっくりと背後から忍び寄ってくる。そんな錯覚を感じた。

 黒い何かが微笑みながら、ヒタヒタ……ヒタヒタと。それは、まるで――。


 ※


 地下にある部屋の中で、黒衣の少女はゆったりとベッドに寝そべっていた。鍵は元々壊されていて、中に入るのは容易だった。

 少女は知るよしもないが、中は人が生活するには充分な家財が揃っている。少女はその中でも、〝彼〟の部屋にもあった物を見つけ、これ幸いと寝転んだのである。

 寝転んだ後に少女が感じたのは、モヤモヤとした感情だった。それは不安と不満からくるものだと、少女は知らない。

 枕を抱き締め、毛布に顔を埋めながら、少女は暫く動かない。当然ながら、そこに〝彼〟の匂いは無かった。


『行け』


 不意に、誰かがそう言った気がした。

 少女は声に従い、静かにベッドから起き上がると、両腕で自らの身体を抱き締める。


 少女の身体は熱を帯びていた。

 下腹部が疼く。

 胃は、低い音を立てていた。

 唇が、舌が、〝彼〟を求めている。

 不意に分泌された唾を嚥下した。少女の白い喉が、艶かしく動く。

 少女の息遣いは、少しずつ乱れていた。

 潤んだ瞳には、部屋の天井が映されている。切なげな表情のまま、少女はゆっくり息を吐く。


 ああ、私は。ワタシは。(ワタシ)は、彼を……。


 本能に突き動かされるかのように、少女は歪な部屋を後にする。

 ふらつきながら、微笑みながら。その足は、真っ直ぐに書斎を――。数十分前に〝彼〟と別れた場所を目指していた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
他の物語も、覗いてみませんか?
実は世界観を……共有してます
[渡リ烏のオカルト日誌]
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ