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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第一章 魅惑の檻
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6.囚われの夜

 ゴクリ、ゴクリと、僕の血を咽下するたびに少女の白い喉がゆっくりと動く。

 もう痛みはない。ただ、噛まれた部位から強烈なまでの酩酊感と、心地よい快楽が僕の意志とは無関係に発生する。

 僕は今まさに、この少女に補食されているのにもかかわらずだ。

 これは……マズイ。僕は本能的な危機を察する。何とか脱出を試みたい所だが、生憎、身体は全くといっていいほど動いてくれない。

 永遠に続くのではないかと錯覚してしまうかのような快楽の波は、少女の喉の動きが止まると同時に消失した。

 終わった……のか?

 ああ、それで終わったなら、どれ程良かっただろうか。

 再び少女が噛みついている部位が痺れ始めたことで、僕は悪夢がまだ続いていくことを悟った。

 首筋に走る、先程とは違う感覚。

 今度は吸い出すといった行為ではない。何かが……流し込まれていた。

 おぞましくて寒気を覚える心とは裏腹に、身体はまるで歓喜するかのような心地よさを感じている。

 相反する感覚が僕に襲いかかり、自分が自分でなくなるようなこの快楽に僕は純粋に恐怖した。


 逃げろ……! 逃げなきゃ駄目だ!

 

 残された思考は、絶えず警笛を鳴らしていた。痺れる身体に何とか力を込め、僕は少女の肩を掴む。

 酩酊感などは、さっき血を吸われていた時程ではない。これならば。


「う……おおお……!」

 弱々しい雄叫びをあげながら、僕は何とか少女を首筋から引き剥がした。

 そのまま少女をベッドに押さえ付け、手探りで携帯電話を探す。どこに電話を掛けるかなんて考えてはいない。取り敢えず警察だ。状況を解決出来るかどうかはわからないが、とにかく警察に……。


 その瞬間、再び少女の細い腕が伸びてきて、僕の思考回路は完全に断裂された。

「む……ぐっ……!」

 唇に広がる柔らかな感触。視界一杯に大写しになった少女の顔。

 具体的に話すのは不快極まりないのだが、僕は見知らぬ少女にキスされてしまっていた。

 ちなみにファーストキスだった。レモンの味なんて嘘だ。鉄っぽいこの味。どう考えても僕の血が混じったキスだった。しかもそれどころか……。

「むごっ!?」

 僕の口を抉じ開け、ヌルリと少女の舌が入ってきた。入るだけに止まらず、少女の舌はまるで生き物のように蠢き、僕の口の中を蹂躙していく。

 それは、恋人はおろか、他の誰ともしたことがない、とびっきり濃厚なキスだった。

 口内を動く舌の感触に暫し呆然としていた僕は、数秒後に正気に戻る。

 おい、ふざけるな! 何てことしてくれる!

 いつの間にか上に乗しかかってきた少女を、僕は必死で押し返しさんと手を伸ばす。

 しかし……。

 次の瞬間、バキン! と、僕の身体に電撃が流れるような、鈍い衝撃が襲い掛かった。神経の中に割り込んで、身体の中心から指の先っぽまで行き渡るような……。そんな衝撃。

 すると、戸惑う僕の身体に、突然信じられない異変が起こった。

 身体が……動かない。いや、それどころか、僕の身体が勝手に動き始めたのだ。

 意味不明の現象に思わず悲鳴をあげそうになるが、口が塞がれているのでそれは叶わなかった。

 いや、仮に塞がれていなかったとしても、今の僕は果たして声が出せるのだろうか?

 そう思えてしまう程の圧倒的な圧迫感が、現在僕を苛んでいた。

 それでも……!

 僕は内心で必死の抵抗を試みる。

 身体は動かせないのに、心は正常なこの不思議な状態は、言い様がないほど気持ちが悪かった。喩えるなら、二人羽織を全くの他人とやるような、そんな不快感。これが気持ち悪くないならなんだというのか。

 そんな心中の嫌悪感とは裏腹に、当の僕の身体は、まるで操り糸で動かされているかのようにゆっくり、いたわるかのように少女を抱き締めていた。

 数時間前、大好きな恋人を抱き締めたその腕で、僕は違う女の子を抱き締めていた。

 これは流石に泣きたくなった。もし自分に怒号を飛ばせるなら、オイ! 止めろ! 何してるんだ! と、叫ぶことだろう。

 が、そんな例え話は虚しいだけだった。

 肝心の僕の身体はというと、少女を優しく受け入れ、熱烈に舌を絡ませて少女のキスに応えていたのだから。

 端から見たら互いに抱き締め合い、熱烈な口付けを交わす恋人同士に見える事だろう。

 そんな最中、僕は必死で抵抗していた。

 今度は、止めろ! 止まれ! 止まれ……! と、強く念じてみる。が、やはり僕は動くことが出来なかった。

 脳裏を初めて出来た彼女の笑顔が過り、僕の胸が締め付けられるかのように痛む。

 嫌だ! 裏切りたくない。裏切りたくないんだ……!

 僕が心の中で声にならない慟哭を漏らしたその瞬間、バキン! と、再び電流のような衝撃が身体を走りぬけ、僕はビクンと身体を跳ね上げる。

 すると、まるでそれを合図にしたかのように、少女はゆっくりと僕から唇を離した。

 互いの口を銀色の雫が繋いでいる。その光景は狂おしい程の淫靡な香りと、背徳感を漂わせていた。

 そんな状況で、ゾッとするくらい妖艶に微笑む少女の瞳は、吸い込まれるような黒。

 それをただ、ぼんやりと見ていた僕は、そこで漸く、身体が自由に動く事に気がついた。

「に、逃げなきゃ……」

 何故僕が動けるようになったかは分からないが、これはチャンスだ。

 身体がフラフラする。が、そんなの今はどうでもいい。この少女から逃げる方が、先決だ。

 僕は少女を押し退け、転がり落ちるようにベッドから脱出する。

 チラリと少女の方を伺うと、少女はキョトンとした顔で此方を見つめるのみ。

 かまわない! 無視だ。

 僕は痺れる手足を必死に動かし、玄関へと足を進める。外に出て、とにかく人がいる所へ。

 しかし、僕がやっとの思いで玄関にたどり着き、震える手でドアノブに触れようとした時……。それは再び起こった。

 バキン! という、僕に絶望を与える音と衝撃。

 僕の身体は、またしても僕の意志とは無関係に動きだし、玄関から少女がいる部屋へと、ゆっくり戻っていく。

 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! と、内心で必死で叫び、身体に動け! 戻れ! と命令する。

 そんな僕の意思はことごとく無視された。足は元の道を辿り、手はゆっくりとリビングのドアを開けてしまう。

 部屋を照らすスタンドライトの穏やかな光が目に飛び込んでくる。

 その光は、脚を組みながらベッドに座り、静かに両腕を広げる少女を妖しく照らしていた。

 ああ、逃げられないのか……。

 僕はふと、そんなことを思った。

 身体が勝手に動く。この謎の現象もあの少女が起こしているのだとしたら、僕のような人間が……脆弱極まりない人間が逃げられる筈もないじゃないか。

 花の香りに誘われる蜜蜂のように、僕はゆっくり少女に近づいていく。

 綺麗だ。と、素直にそう思った。僕の血と唾液で少しだけ濡れた口元。白い肌は今は上気して、ほんのり赤みを帯びている。あえて言葉で表現するなら、恐ろしさの中に蟲惑的な魅力を備えているかのような……そんな美しさだ。

 僕がそんなことを考えていると、ふと、幻覚だろうか? 少女の背後にいつぞや見た蜘蛛の脚が六本。僕を誘い、迎え入れるかのように広がりはじめた。

 そこで僕は、唐突に納得する。少女の人間とは思えない美しさの理由は、文字通り人間でなかった故だったのだと。


 そう、少女は、この世のものではあり得ない、まさに〝怪物〟だったのだ。

 やがて、僕は怪物の元へ辿り着く。

 そんな僕を見た怪物は、とても嬉しそうに微笑みながら、そっと二本の腕と六本の脚で僕を抱き締めた。

 そこで僕の精神は限界を迎えた。怪物の腕の中――。魅惑の檻と表現してもいい甘ったるい香りに包まれながら、遂に僕は意識を手放した。


 かくして、僕は怪物に恐怖し、魅了され、そして捕らえられた。

 故郷を離れ、こちらに移り住んでから、二年目……夏の出来事だった。

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