65.隠されし部屋
顔に当たる陽光を感じ、僕は目を覚ました。寝惚け眼を擦りながら上体を起こそうとすると、身体の半分に、慣れ親しんだ重さを感じた。
「……今日は、僕が腕枕なんだね」
半ば自暴自棄な気分になりながら、僕は苦笑いする。自分が横たわるすぐ傍に、当たり前になってしまった重さの正体がいた。
それは、少女だった。より正確に言うならば、少女の姿をしていた……が、正しいかもしれない。
腰ほどまでまっすぐ伸びた、艶やかな黒髪。闇の深淵を思わせる、漆黒の瞳。
黒いセーラー服を身に纏い、ほっそりとした長い脚は、同じく黒いストッキングで覆われている。
悉く黒を強調したかのようなその出でたち。それとは対照的に、その肌は病的までに白く、陶磁器のように決め細やかだ。
美しい少女だった。
血が凍りつく程、美しい少女だった。
名前のない怪物。僕はそれに恐怖し、魅了され、そして捕らえられた。
あの夏と秋。長いようで短かったあの日々。その中で僕は――。
※
何で、こんな時に頭へ浮かんでくるのが、取るに足らない日常なのだろうか?
そんなことを思いながら、僕は地下室を見回す。
怪物の手を引いたまま、永遠に続くかと思うような長い階段を降りる。薄暗い中で淡々とそんな行動を繰り返しているうちに、僕はだいぶ昔のように感じられた、怪物との日々を思い返していたらしい。
無意識とは恐ろしい。ところで、あの後どうなったんだっけ?
目を覚ますと、怪物による心臓に悪いスキンシップが開始されているのは、いつものことだった。
抱き締められている。寝顔をガン見されている。膝枕されている。耳や首筋を甘噛みされている。腕枕をさせられている……。他色々。そうして羞恥で戸惑う僕を弄ぶように、怪物は僕に熱烈なキスを落とすのだ。だから多分、さっきの回想でも、そうなったに違いない。……こうして考えてみると、僕は何て奇妙な日々をおくってきたのだろう。と、つくづく思う。それが幸せか、不幸かはわからないけど。
そうこう悩んでいるのが惜しくて、僕はため息をつきながら、思考を中断させる。
入ってすぐの書斎のような部屋は、ぐるりと本棚に囲まれていた。訪れるのは二度目だが、やはり僕が考えたのは、まるで本で出来た牢獄のようだ。という事だった。
無言のままでよくよく観察してみると、学術書、世界地図、ハードカバーから文庫本サイズまでの様々な小説。果てには大学受験用の参考書まである。順不同なそのラインナップは、まるで片っ端から本の体裁をとっているものを集めて、無造作に本棚に突っ込んでいるかのような印象だった。
これだけ見ると、この書斎の主は相当の大雑把な人間に見えることだろう。
「……あった!」
そんなどうでもいい事を考えているうちに、目的の場所は見つかった。
大小様々な本が、統一感なく納められている本棚群の中に、唯一綺麗に整頓された一角がある。
広辞苑や、様々な図鑑。英和辞書に和英辞書。他の国の言語辞書まで揃えられたスペース。
『不自然なくらい綺麗な本棚がある。成人男性なら楽に動かせる重さにしてあるんだ。そこが隠し廊下への入り口だ』
別れ際にルイが言っていた事を思い出しながら、僕はそっとその本棚に手をかける。本棚は、拍子抜けする位あっさりと動いた。辞書がこんなに敷き詰めてあるのに、こんなにも軽いということは、カバーだけ入れて、中身を抜き取ってあるのだろうか。
本棚の後ろ――。傷みの目立つ壁には、鉄製の扉が取り付けてある。これが入り口とみて、間違い無さそうだ。
「よし……」
大きく深呼吸しながら、僕はその扉に手を伸ばした。鈍い音を立てながら開かれたその先には、薄暗い廊下が続き、そして――。
「うぐっ!」
僕は堪らず、服の袖で鼻を覆う。
固い鉄の扉で隔てられていたそこから、まるで沸き上がって来るかのように異臭が漂ってきた。涙で滲む視界と、こみ上げる吐き気を必死に堪えながら、僕はポケットから再び懐中電灯を取り出す。ルイから預かったものだ。こんなものまで用意している辺り、彼はこの状況も予想していたのだろうか? それとも、可能性の一つとして考えていただけか?
考えても始まらないので、僕はゆっくり廊下を進む。
「ん? おい、どうしたんだよ?」
五、六歩前に進んだ所で、僕は違和感に気づき、後ろを振り返る。
怪物が、ついてこない。引いていたつもりの手も、いつの間にか解かれていた。
「なぁ、いかないのか?」
話が通じないのは分かってはいる。だが、他に意志疎通手段が思い浮かばない以上、僕にはこいつに語りかける他にない。
当の怪物は顔を伏せたまま、静かに佇んでいた。前髪に隠れて、その表情は見えない。 そっと再び手を取り、二三度引っ張って見るが、怪物は頑として動かない。
困ったな……。肩を竦めながら、僕は思考を巡らす。余り時間はない。僕が真実を知ることで、何が変わるのかはわからないが、どのみちここで油をうっている暇はない。
「……先、行くよ?」
この地下室で、行けるところなど限られている。思えばこいつは、初めてここに来たときも、一人で勝手に行動してはいなかったか?
地下にあった部屋。あそこであいつは生まれたと、ルイは言っていた。やっぱり郷愁に近いものでも感じているのだろうか?
ふと、怪物が静かに顔をあげる。漆黒の瞳が僕を映していた。怪物に見つめられるまま、闇の底にでも吸い込まれるような錯覚を覚える。振り払うように僕は視線を反らす。
何か変だ。今のこいつと見つめあっていると、得体の知れない不安が募るようで、何だか落ち着かない。
僕はそのまま踵を返し、廊下の奥へと進む。途中何度か振り返るが、怪物は相変わらず廊下の入り口に立ったまま。僕の後ろについてくる事はなかった。
※
廊下を満たす異臭は、僕が奥へと進むごとに、強くなっているようだった。顔をしかめながら進む僕。すると、壁の側面に小さな扉が見えてきた。ここが、教授の部屋だろうか? 随分と中途半端な場所に位置しているものだ。
腑に落ちないものを感じながら、僕は扉を開ける。
その瞬間、本日最大の後悔が、僕に襲いかかる事となった。
「……あ、え?」
うまく言葉が出ない。いや、出せなかったが正しい。それほどに、その部屋の光景はショッキングだった。
僕にわかったことは、まず第一に、そこは教授の部屋ではなかったこと。第二に、そこで明らかな争いがあったこと。そして……。
「あ……ひゅぅ……」
悲鳴を上げたかった。だが、声が出なかった。懐中電灯が取り落とされ、そのまま僕は、床に座り込む。
第三に、そこには見るもおぞましい物が横たわっていた事だ。腐敗しきり、異臭を放つそれらは、全部で二つ。ぼろ雑巾のように打ち捨てられてはいたが、明らかに人間の死体だった。親指の爪ほどもある何匹もの甲虫が、その上を這い回っている。その上を蝿の群れが喧しく旋回した。
身体を動かしてもいないのに、胃がシェイクされるような気分になった。僕は耐えきれず、その場で激しく嘔吐した。
扉を閉めろ。そう、僕の中で誰かが囁いた。そうでもしなければ、僕の精神が磨耗してしまう。
震えながら、開けた扉に手を伸ばす。が、力が入らない。
それほどまでに、僕は〝それ〟に恐怖していた。
人間だったものではない。勿論それも恐ろしいが、僕が真に怯えたもの。それは、その二体が倒れていた、そのまた奥にあった。
そこに、さっき見た怪物を、遥かに越える巨大蜘蛛がいたのだ。
蜘蛛は既に息絶えて、物言わぬ骸と化していた。ずんぐりとした身体は、仰向けにひっくり返り、不気味な八本足を虚空に投げ出していた。八つの目には輝きはなく、白く濁っている。間違いなく死んでいた。だが、死んでいるにも関わらず、それは異様なまでの存在感を持って、僕を威圧する。
そこにいたのは、紛れもなく、怪物と同じもの。地球外生命体と言うに相応しい、恐るべき存在だった。
震えたまま、僕は暫くの間、そこに縫いとめられたかのように動けなかった。
鼻を突く異臭は、人間だったものが原因か、それとも……。
「行かなきゃ……ここじゃ、ない……」
ようやく動けるようになった僕は、這うように。逃げるようにその場を離れていく。
ルイは、地下に隠された部屋は二つあると言っていた。教授の部屋と、監視用の部屋。さっきの部屋は、きっと監視用の部屋に違いない。大部分が破損していたが、モニターや、難しそうな機械が沢山見受けられた。
それらにベットリと付着した血痕。
打ち捨てられた死体には、腕や脚など、一部が欠けていた。
そういえば、あの死体以外の場所にも虫が群がっていた小山があったが、あれは一体――。
そこまで考えて、僕は首を猛烈に振る。
考えなくていい。どうせ真実は目の前だ。あそこで何があったのかも、すぐに分かるだろう。ここで精神を無駄に摩耗させる必要はないのだ。
ようやく到達したその場所。廊下の終わりに現れた、一際古い木製の扉を見上げながら、僕はゆっくりと立ち上がる。
ここが、教授の部屋で、まず間違いはないだろう。無意識に唾を飲み込みながら、僕はその扉を引く。
軋むような音を立てて、その部屋は開かれた。
※
崩れかけ、廃墟も同然となった病棟は、隠された実験施設として利用されていた。
ここだけ聞くと、何だか三流のSF小説みたいだが、それは現実として存在し、僕はその最奥に来ている。
それは、謎の高揚感を僕にもたらすと共に、何が飛び出して来てもおかしくないという、怖さにもなって、僕の身体を震えさせる。
口が乾き、頭から爪先の先までを鈍い痺れが走り抜ける。
緊張する自分自身を解すように、僕は深呼吸しつつ、部屋へと踏み込んだ。
教授の部屋というやつは、随分と簡素な内装だった。無駄なものが何もない。そんな言葉が、一番しっくり来るのではないだろうか。
病棟や、さっきまで通ってきた廊下の武骨な感じとは違う。洋館の一室のような、印象を受ける部屋だ。医療もののドラマに出てくる、院長室。それに近い気がする。
入ってすぐに目についたのは、アンティークな木製の机と、安楽椅子。その背後には、壁一面を占領するかのような、大きな本棚だ。地下室の書斎といい、この部屋といい、楠木教授はもしかしたら、相当な読書家だったのだろうか?
次に目についたのは、部屋の片隅に位置する、キングサイズの立派なベッドだった。教授はこんなカビ臭い地下室で寝泊まりしていたのだろうか? あまり精神衛生上よろしくない気がする。
よくよく見ると、家具は結構傷だらけで、埃が被っていた。壁や床の劣化も激しい。さっき見たサイズの怪物が一暴れすれば、容易く崩れてしまいそうだ。
ぐるりと部屋を歩き回ってみて、見つけて気がついたたのはそれくらい。本当にビックリするくらいシンプルな部屋だった。
「……ここに、あるんだよね?」
思わずそう口にしてしまう。全ての真実が記された、教授の手記と研究レポート。隠せそうな場所も、この部屋では限られてくる。 本棚か、ベッドの下か、机の中だ。
僕は早速、捜索を開始する。
本棚。ざっと見る限り、それらしきものは見つからない。
ベッドの下。なし。
後は――。
「……あった」
机の引き出し。そこに、拍子抜けするくらいあっさりと、それは見つかった。
一つは『diary』と、銘打たれた大学ノート。もう一つは……。
「地球外生命体、『アモル・アラーネオースス』の研究レポート……?」
それは、真実の深淵。そこへ至る入り口だった。
行き着くのは奈落の底か、それとも別の何かか。もう、後戻りは出来そうもなかった。




