番外編3.名も無き者共の報復
番外編です。
話の中でも語っていますが、時系列的に、番外編.2の直後。途中の回想シーンは最初の番外編の後の話となります。
最終章はホラー要素が強めになります(予定)ので、その前の甘味料としてどうぞ
「そういえばさ」
「何だよ」
怪物の風邪騒動が収束した次の日。笊蕎麦を啜る夕食時に、ルイが何かを思い付いたかのように僕に話しかけてきた。
「いや。僕、君とこの子の馴れ初めは知っているけど、具体的なエピソードを聞いたことないなぁ……なんて」
「……話せと?」
「ほんの興味だよ。やっぱり知りたいし。いずれ秘密を教える対価くらいにはなるだろう?」
心底楽しげに笑うルイを見ていると、足元見やがって……と、歯噛みしたくなる。
話すのは、別にいい。だが、怪物との思い出というか、僕がこいつに振り回されたエピソードの中には、割りと洒落にならない内容な物が多々あるのだ。正直、話すのが恥ずかしくなるようなものが。
怪物に歩み寄り、ルイが転がり込んで来るまでの間は、正直濃すぎる毎日の連続で、僕は本当に殺されかけていたのだから。文字通り、色々な意味で。
「出来れば面白おかしいのを頼むよ。君が何とかしてこの子に一矢報いようとするも、あえなく撃沈される……。みたいな」
「ルイ。君が僕をどんな風に見ているか、垣間見た気がするよ」
恨みがましい僕の視線を、ルイは涼しげなアルカイックスマイルでかわす。暖簾に腕押し。柳に風。本当に掴み所のない奴だ。僕はいずれ、こいつから秘密を聞き出さなきゃいけないというのに、これでは先が思いやられるな。
「ささっ、遠慮は要らないよ? 何ならお酒も買ってくるかい?」
「わかったよ。話すからお酒は勘弁してよ」
どうせ断っても、あの手この手を使って聞き出してくるのだろう。そう察した僕は、取り敢えずアルコールが入る危険をやんわり遠ざける。
お酒は飲めない訳ではない。けど、何故か分からないが、怪物の前でお酒は飲みたくない。何だか、漠然とした嫌な予感がするのだ。
「山もオチもない話だけど……いいの?」
「ノープロブレムさ」
物好きな奴だ。
「わかったよ。アレは、京子の一件が終わってから、しばらく経った後の事でさ……」
取り敢えず、うってつけな話がある。アレは僕の中でも苦い経験だ。
※
お風呂に怪物が突撃してきたあの一件は、僕に致命的な羞恥心を呼び起こした。してやられた感も合間って、僕にとって屈辱と言ってもいい記憶を刻んでくれたのだ。
僕は考えた。何とかこいつをギャフンと言わせる事は出来ないだろうか? と。考えに考えた僕は、ある策を手に部屋に戻る。
やらなければよかったと、後悔することになろうとは、微塵も気づかずに。
そうしてその日。僕は秘めたる闘争心に身体を焼き焦がしながら、握りこぶしを作り、親の仇でも眺めるかの如く、部屋のベッドを占拠する存在に視線を向けていた。
黒いセーラー服と、黒いストッキングに身を包む、美しい少女の姿がそこにはあった。腰ほどまで伸びる、艶やかな黒髪と漆黒の瞳。ことごとく黒を強調したかのような格好とは対照的の、病的なまでに白い肌。妖艶な雰囲気を漂わせるその少女こそ、僕の部屋に居座る、名前のない怪物だった。
「そうやって余裕ぶってられるのも今のうちだ」
僕はほくそ笑みながら怪物に言い放つ。
「何て言ったって、この間の報復をする日なんだからね」
要は、あのお風呂での羞恥体験をまだちょっと根に持ってたりしたのだ。
女々しい。なんて声があがるかもしれない。だが、何とでも言え。あれ以来、こいつは毎回僕のお風呂に突撃してくるようになった。その度にあの苦い思い出やら羞恥心が呼び起こされるばかりか、毎回僕は色々な意味で酷い目にあうのだ。女の子の裸やら柔らかさやら唇の感触……。本来ならば恋人と(もういないけど)育むであろうイベントな筈なのに、意図せずみんなこいつに奪われてしまった。女の子への幻想なんて、もう欠片も残っちゃいない。全部こいつのせいだ。
時計を見ると、そろそろ時間になる所だった。僕は台所からそれを持ってくると、静かに〝それ〟の蓋を開けた。
さぁ……報復の始まりだ。
毎晩のように行われる吸血行為。正直、なぜ僕は貧血を起こさないのか甚だ疑問だが、今は置いておこう。この吸血行為から逃れられないのは、嫌というほど分かっている。ならば……。
「気のせいだとは思うけど、なんかヒリヒリしてる感じがするな」
首筋にタバスコを塗ってみた。
ここにアイツが噛みつけば、手痛い反撃を受けるという寸法だ。……意外とこの作戦、日常でも使えるんじゃないか?
僕がそんなことを考えていると、背後から音もなく怪物が忍び寄ってきた。僕の仕掛けた罠など、知るよしもなく。
怪物は滑り込むように僕の正面に立ち、そっと心臓の鼓動を確認するかのように、僕の胸板に耳を当てる。ゾッとするほど冷たい指が、僕の手から腕へ。そこから肩、後頭部へと這っていく。
まるで蜘蛛みたいだ。ふと、そう考えた所で、こいつは蜘蛛そのものだったことを思い出す。
すると、いつの間にか僕の胸板から顔を離した怪物が、静かにこちらを見上げてきた。視線が絡み合い、退廃的な雰囲気が辺りに漂う。
怪物の瞳は闇の深淵を覗き込んでいるかのような、深い黒だ。それは淫靡で情熱的な光を放ちながら、僕を捕らえて逃がさない。その目で見つめられると弱いということに気がついたのはいつだっただろうか?
思考はそこで中断された。首筋にはしる刹那の痛みと、浮遊するかのような酩酊感。やった。引っ掛かったぞ。僕は勝利の美酒に身体を震わせて……。あれ?
そこで僕は、違和感に気がついた。予想に反して、怪物は、何事もなかったかのように血を吸い上げていたのだ。それどころか、果ては僕の首筋を舐めてすらいる。一瞬だけ身体を震わせていたが、反応があったのはそれくらい。完全なる無反応。それは僕の敗北も意味していた。しかも流れ的にこの後は……。
怪物の手が、服の襟元をしっかりと掴む。そうだ、僕の罠に触れた唇が、僕に……。
「へ?」
そこで僕の口からすっとんきょうな声が出たのも無理はなかっただろう。何故なら、僕の首筋から顔を離した、怪物の顔が問題だったのだから。
怪物の潤んだ瞳には、涙が滲んでいる。身体は小刻みに震え、よく見ると顔がほんのり赤い。
も、もしかして、辛かったのか? てか、一応味覚あったんだ。
新たな発見に僕が呆然としていると、怪物は目を閉じたま舌をこちらに差し出してくる。
お、おい。僕にどうしろっていうんだ。何でそんなねだるみたいに服を引っ張る? 嫌だぞ? 辛いもん。元の元凶は僕だけど、絶対辛いもん。大体お風呂場で僕の方からしたのだって、あれは、頭がどうにかしていたからで……。
その時、バキン! という音が脳髄に響き、僕の身体から自由が奪われる。行使されたのは、今さら確認するまでもない。『身体所有権の剥奪能力』だ。そして――。
湿った音を立てて、僕の口が怪物の舌を吸い上げて舐めしゃぶる。身体所有権の剥奪は、感覚までは支配しない。結果、刺し貫くような強烈な刺激が僕を襲っていた。口内で炸裂する、焼けつくようなうねりは、僕の脳を、感覚を麻痺させていく。
互いの舌が燃えるように熱い。絡ませ、吸って、舐めあっていると、まるで溶け合って一つになっているかのような気がしてくる。たとえるなら、底無し沼だ。ズブズブと嵌まり込んでいく錯覚と、自由にならない身体に、僕は焦燥を感じた。これは……不味い。
戻れない恐怖心と、更なる深みまで沈みこんでしまいたいという、危険な原初的欲求がせめぎ合っている。
しかも、いつもと違う感触に戸惑っているのは、僕だけではないらしい。怪物の僕を抱き締める力はよりいっそう強まり、苦しい位に締め上げてくる。時おり身体が痙攣するかのようにビクンと跳ね上がってすらいる。
気がつけば身体所有権の剥奪能力の効果はとっくに切れていた。なのに、互いの舌は止まらず、怪物は離してくれる様子を見せない。何より恐ろしいのは、僕もまた、ほんの一瞬だけ、怪物を離したくないと思ってしまったことだった。
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ……!
残りの理性を総動員して、僕は怪物を引き離す。互いの唇を繋ぐ銀色な滴の橋は、重力に従って下へ落ちていく。ゾクゾクするくらいの淫靡な一時は一先ずの終焉を迎えた。僕はゆっくりその場に腰を下ろし、怪物もまた、糸が切れた人形のように両膝を床につける。荒い息遣いの音だけが、部屋を支配していた。
やがて、徐々に正気が戻り始めた僕は、改めて怪物の方をみる。
怪物は、口元に指を這わせながら、余韻にひたるように、うっとりとした表情で僕を見つめていた。互いの唾液で濡れそぼった唇と、熱を帯びた瞳。そして上気した肌が、危険で妖しい色気を醸し出していた。
それを見た瞬間、僕は後ろに倒れ込むように仰向けに寝転び、自分の額に拳をぶち当てた。
「何が……報復だよ」
足元から、覆い被さるように迫ってくる気配を感じながら、僕は苦々しげに呟いた。
「ご褒美あげてどうするんだ」
結局、人間単体では、怪物には勝てないようだ。いつもより熱い舌の感触に翻弄されながら、僕はそう結論づけた。
こうして、僕が弄した細やかな計画は、意図も簡単に瓦解した。本当に、この怪物は、僕を惑わせ、侵していくのが得意な奴だと思う。それこそ、ゾッとするくらいに……ね。
※
僕が話終わると、ルイはこめかみに手を当てながら、盛大にため息をついた。
「な、何だよ。言っただろう? 山もオチもないって」
「いや、違うよ。そうじゃない。何て言うか、僕もう笊蕎麦いいや」
半分も食べてないじゃないか。せっかく用意したのに何て奴。
すると、ルイはこっちを見ながら、笑顔で親指を立てる。……なんだろう? 凄く腹が立つ顔だ。
「取り敢えず安心したよ。何だかんだ仲良くやってたんだね」
「おい、待ってくれ。何でそんな結論に至る?」
ちなみにタバスコ大作戦以外にも、何回か他の策も試してみたが、ことごとく完敗だった。……というのは黙っておいた方がいいかもしれないな。
だってルイは、ムカつくことに、何故だかとても嬉しそうなのだ。人の気も知らないで。
「何か、アレだね。マンネリ化したカップルが、新たな刺激を求めて……」
「ふざけろぉ!」
取り敢えず近場の枕を掴み、ルイに投げつける。あっさりキャッチされ投げ返されるのはもう想定ずみだ。だが、今投げずにいつ投げるというのか。投げ返された枕を掴み、僕はこの小憎たらしいアルビノに再度枕を投擲する。
どうやら僕は、怪物はおろか、ルイにも勝てないらしい。こいつもまた、僕を弄り、からかい倒すのか得意な奴だと思う。それこそ、ムカッとくる位には。
「レイくん」
「何だよ」
勃発したタイマン枕投げを中断し、ルイは急に真面目な顔になる。
「いつか、真実を知る時が来る。せめてその時が来るまでは、どうかその子に優しくしてあげて欲しい」
いつものアルカイックスマイルはなく、そこには何処と無く痛みに堪えるかのような雰囲気があった。
「ル、ルイ? 一体何の……」
話? とは続かなかった。僕の視界が、唐突に塞がれたのだ。言うまでもなく、枕によって。
重力に従い、後方のベッドに倒れる僕。耳に届いたのは、「隙ありだよ」という、ルイの笑いを噛み殺したかのような声だった。
「よし、ルイ。戦争といこうか」
今夜の僕は、いつもより好戦的だよ?
そうして、戦い(枕投げ)は始まった。といっても、開始そうそう、怪物の妨害で僕がベッドに引きずり込まれ、ルイの一人勝ちに終わってしまったのだが。
「予定調和という奴だね」
と、ほくそえむルイは、やっぱり腹が立つし、掴み所がない奴だった。
結局、ルイの言っていた意味は、この時点では分からなかった。僕が密かにルイとのやり取りを楽しんでいた事に気付くのも、ルイの真意や怪物の真実、全てを知るのも。もう少しだけ先の話だ。
僕と怪物が、ああなることも、今にして思えば、そういう運命だったのだろう。
番外編.3 了




