62.一先ずの終結
唐沢汐里は、過去に類を見ないほどに混乱していた。
目の前で威風堂々と佇むアルビノの少年は、幾度も激突した、因縁の相手――。明星ルイ。完全に無力と化した彼は本来ならばここに立っている筈がない。汐里は隠しきれない当惑を表情に浮かべながら、目の前の宿敵を睨む。
怪物の能力等を含めた元々のスペックは、ルイの方が格段に上だ。だが、汐里がレイに語ったように、ルイのその能力には回数制限がある。生存する怪物は二体。うち一体は汐里の手の内に。そしてもう一体は、レイの元に身を置く個体。この二体からルイが怪物の体液を得ることは不可能だ。後者に関して言えば、ルイが無理矢理奪い取ることももしかしたら可能かもしれないが、〝ルイに限ってそれはない〟そもそも、そんなことをすれば、あの少女の怪物に、明確に敵として認識されてしまうだろう。
原種の怪物に敵として認識された時の脅威は、汐里もルイもよくわかっている。
だからこそ汐里は、怪物の力は使わずに、少女の怪物が知り得ない、拳銃という凶器で戦いに望んだのだ。
全ては少女の怪物の反撃が来る前に、早々と怪物を葬り去る為だった。
計画通りに進んでいる。そう思っていた。ルイはついに力尽き、残る無垢な怪物を殺せば、目的は完遂される筈だったのだ。
「ふざ……けるな」
木に叩きつけられた位で、怯む汐里ではない。さっきのルイの反撃にも、必ず理由がある筈だ。痩せ我慢の上での最後っ屁に怯えることはない。そう己を鼓舞し、汐里は立ち上がる。ルイはもう、力が残されていない。残されている訳がないのだ。
「汐里。僕に力が残されていないと考えているなら、それは間違いだよ。今の僕は、昔の僕並に力を取り戻している。しかも、今までの限定的な戦いのお陰で、能力を効率よく、効果的に行使する術も熟知した。だから――」
汐里の目の前で、ルイの身体が宙に浮く。蜘蛛糸を使った身体浮遊。全盛期のルイが、もっとも得意とした離れ業。仮定が崩され、汐里の中で絶望がじわじわと。猛毒のように広がっていく。
「今なら、誰にも負ける気はしないな」
満月を背に、彫像の笑みを浮かべたまま、アルビノの怪物は夜空を翔る。金色にも銀色にも見える髪が風に靡き、月明かりを受けて鈍く輝く。その姿はさながら、流れ星のようだった。
※
圧倒的。その言葉が、一番しっくりくるように見えた。ルイは縦横無人に空を走り、跳ぶ。その擦れ違いざまに鉤爪による攻撃を加え、ゆっくり。ゆっくりと汐里を追い詰めていく。
「あの蜘蛛糸。何でもありだなぁ、おい」
ふと気がつくと、僕のすぐ横に大輔叔父さんが座っていた。いつのまにか汐里の拘束から逃れたらしく、今はネクタイを使って、額の傷を抑えていた。
「叔父さん、おでこ……大丈夫?」
「ん? おお。何とかな。しかしスーツが台無しだなこりゃ。買い替えなきゃ駄目だわ」
肩を竦めながら、叔父さんは前方――。人外同士の戦いを見守る。
「なるほどな。あの女が恐れる訳だ。ありゃ人間の域を越えている。常識外れの力を持っても、普通の人間なら手に余る筈なんだがなぁ」
頭を掻きながら肩を竦める叔父さん。その間も、片時も戦いから目を離す事はない。
僕もそれに倣って、ルイと汐里の戦いを見る。
ルイの動きは、格段に早く、三次元的なものとなってきている。動き方からして、あらかじめ張り巡らした蜘蛛糸をバネにした、高速移動のようなものだろうか? その利用法は、さながら、プロレスリング外周のゴムチューブだ。
力を持て余すだなんてとんでもない。それ処か、ルイは怪物の力を完全にモノにしている。その辺が既に、汐里に対しての大きなアドバンテージになっていたのだ。
「あっちはあの真っ白野郎に任せて大丈夫そうだな。取り敢えず、その娘の治療を……ん?」
怪物達から視線を反らした叔父さんは、突然驚いたように目を見開く。
「おい、あの娘……どこいった?」
「……へ?」
叔父さんが発した一言で、僕は弾かれたように後ろを見る。背中にあった、柔らかくて暖かい感触が、いつの間にか消失していた。それもその筈だ。そこに黒衣の少女の姿は、影も形もなかったのだから。
「え……おい?」
思わずそんな声が漏れる。この消えかたは知っている。『瞬間変身能力』人の姿から、一瞬で普通サイズの蜘蛛に変身するため、あたかもその場から消えたかのように錯覚する。怪物の数ある能力の一つだ。
地面を見る。黒い蜘蛛の姿はない。だとすると、何処かに移動したのだろうか? だとしたら、何処に……?
「う……ぐぁ……」
苦しげな呻き声がする。視線を向けると、汐里が荒い息をつきながら地面に膝をついていた。白衣もスーツも、至るところが切り裂かれ、血が滲んでいる。戦いは、既に集結の気配を漂わせていた。
静かにルイが地上に降り立つ。ルイの身体にも切り傷は見られるが、当の本人は涼しげな顔で佇んでいた。
汐里曰く、今のルイは弱体化しているとのこと。だが、さっきまでのルイの動きを見る限り、とてもそんな風には思えない。
「どういうことですか……本当に、全盛期ばりに回復しているではありませんか……!」
僕の疑問を代弁するように、汐里が問いかける。すると、ルイは肩を竦めながらズボンのポケットに手を伸ばす。取り出されたモノは、僕にも見覚えがあるものだった。
「そんな……どうやって!?」
震えた声を出しながら、汐里はそれを見る。ルイの手の内にあったのは、夜な夜な怪物が作り、時に食べていたモノ。あの血染めの繭だった。
「そこの怪物のを拝借した? いや、違う。そんなことをすれば、貴方が攻撃を受ける筈……。〝彼女〟が生きていた?」
「いや、違う。〝彼女〟は死んだよ。レイ君達と出会うまで、僕はずっと一人だった。僕が手にしているこれは、〝かつての友人達〟が遺したものだ」
哀しげな笑みを浮かべたまま、ルイはその繭を口にする。クシャリという湿った音と共に、ルイの口元が赤く染め上げられる。
「それって……まさか」
頭に浮かぶは、あの地下室にあった四つの部屋。そこに吊るされていた、無数の繭――。
「成る程……あそこにいた怪物達は死んでいる。拝借しても咎める者はいない……と」
「正直、賭けに近かったよ。思い付いたのも、大輔さんと戦っている最中だったしね。半年くらい前のものな筈なのに、保存状態も怖いくらい良好だった」
消費期限はないのかもね。と、呟きながら、ルイは口についた血を指で拭う。あの繭は、どうやら怪物にとって食料となるだけでなく、滋養の薬にもなるものらしい。
「あの怪物共……死して尚、私に立ち塞がりますか」
「君が見落としていたのも無理はない。何せ、僕もレイ君と一緒に再びあそこを訪れるまで気づかなかったからね。お互い必死だったから、戻ってくる時間もなかったし」
肩を竦めるルイ。汐里はそれっきり、がっくりと項垂れたまま、言葉を発しなくなった。
長い沈黙が訪れる。耳に届くのは、風に擦れる、枝葉の音のみ。僕はそれを、少しの脱力感と一緒に聞き入っていた。
終わった……のか? これで、全部?
「そうだ! ルイ、さっきからアイツが……」
僕が急に消えた怪物の事を話そうとした瞬間、僕のすぐ目の前に汐里が躍り出た。
「……え?」
反応など、出来る筈もなかった。ただ、視界の中で起きた出来事をそのまま語るなら、〝飛んできた〟が正しい。
さっきまでルイの方で座り込んでいた汐里は、驚くべき事に、その体勢のまま僕の方に飛んできたのだ。
「人間から怪物になった者は、能力の源たる怪物の体液を生成出来ない。その代わりなのかは分かりませんが、後天的怪物は、特異な……蜘蛛に由来する力を持っています……!」
飛んできた勢いをそのままに、汐里の片手が僕の首を捕らえる。突然の圧迫感に、僕の呼吸はしばし阻害された。噎せることも許されず、僕の首が徐々に締め上げられていく。
「れ、レイ……!」
「大輔も、ルイも動かないで頂きたい。動けば、レイ君の首と胴体が永久に別れを告げることになりますよ?」
慌てて駆け寄ろうとした叔父さんを、汐里は鉤爪の一振りで牽制する。そのまま汐里は、僕を後ろから抱き締めるような形で、ルイや大輔叔父さんと対峙する。
「……蜘蛛の跳躍力、か。あの体勢からそこまで行くとは思わなかったよ」
してやられたかのように、ルイが苦笑いする。汐里の鉤爪は、今や僕の喉元にあてがわれていた。
「よくわからんが……。俺の拳銃を避けたのもそれか?」
「正解です。蜘蛛は、種によっては、地面から人間の眼球まで跳躍出来るものがいるそうです。なので、あれくらいは朝飯前ですよ」
地味に背筋の寒くなるような話をしながら、汐里は興奮ぎみに深呼吸する。香水の匂いが鼻を突き、ヒューヒューという特有の呼吸音が、僕の精神を揺さぶっていく。
「汐里。どうしてレイ君を捕らえたんだい?」
「知れたこと。一番無防備だっ……た、から……」
ルイの質問に答えた汐里が、途端にワナワナ震え出す。何かに気がついたかのように、「ああっ……あぁ、あ……」と、声にならない叫び声をあげていた。
それを見たルイは、どこか皮肉気に微笑んだ。
「予想外の僕の復活に、君は焦っていた。だからこそ、あの状況下で、レイ君を捕らえてしまった。跳躍した時に気づくべきだったんだ。あの子の姿がないことに。〝変身できるくらいには、力が回復してしまったことに〟」
ルイは歌うように告げながら、汐里の〝背後〟に視線を向ける。
「やるなら君の怪物殺しのセオリー通り、先にあの子の方からやるべきだった。もしかしたらまだ不意を突けたかもしれないからね。けど、度重なる攻撃もむなしく、仕留めきれなかった。何より君は……レイ君に危害を加えてしまった」
周りの林がいやにざわめいている。小さな音が断続的に響いたかと思うと、僕の足元で、地面が動いていた。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
大輔叔父さんが、驚愕の表情と共に叫ぶ。動いていたのは、地面だけではない。周りの木の表面も波打っていた。……いや、違う。地面が動いたり、木の皮が脈打つだけなら、まだ救いがあった。僕達の周囲で起きている現象は、そんな生易しいものではなかった。
それは、あの地獄のような夏の再現。いや、今見えている光景は、それ以上のものだ。
地面に。幹に。枝に。葉に。夥しい数の蜘蛛達が、僕達を完全に包囲していた。
「そんな……多少回復していたにしても、こんなに劇的にはあり得ません。繭だって、京子が潰した筈……」
気がつけば、汐里の鉤爪は、完全に蜘蛛糸で拘束されていた。僕の喉元で、ぐるぐる巻きにされた汐里の手。ルイが何かをやった様子はない。ということは、この糸は……。
何かを咀嚼する音が、僕と汐里の真後ろからする。丁度ルイが繭を食べていた時と同じ音。
今にして思えば、京子は確かに繭を潰していた。だが、全てではない。何個かは草むらの方へと転がっていっていた。
そこで僕は、怪物が消えた意図をあらかた察した。アイツが消えたのは、残りの繭を回収するためだったのだ。怪物の能力を回復させる繭。それを捕食した怪物が、汐里のすぐ後ろにいる。これが意味する事は……。
「つまるところ、そっちは突破口等ではなく、処刑台だったって訳だね」
ルイの笑顔が花開いた瞬間、汐里の身体がまたしても宙を舞う。蜘蛛糸によって拘束され、問答無用のフリーフォールを受けた汐里は、そのまま重力に従って地面に叩きつけられる。
バキッという何かが割れるような音の後、汐里はその場で倒れ伏したままうごかなくなった。そこに追い討ちをかけるかのように、蜘蛛達が一斉に群がっていく。
木の上からは、雨のように蜘蛛が降り注ぐ。地上の蜘蛛達は、我先にと汐里の方へと殺到する。京子の時とは比べ物にならないスピードと物量で、汐里は悲鳴をあげる間も無く、蜘蛛で出来た小山と化してしまった。
目を背けたくなるような光景に、大輔叔父さんはただただ絶句し、ルイはいつものアルカイックスマイルを浮かべていた。
僕はというと、地面に尻餅をついたまま、無様に震えていた。
汐里に殺されかけたから? 違う。
今にして恐怖が一気に襲ってきた? それも違う。
ただ、僕は戦慄していた。怪物の力が、以前よりも大きくなっていることに。
そして、改めて思ってしまったのだ。あの日、怪物に歩み寄った夜。気がすむまで付き合おうと、僕は怪物にそう言った。だが、気がすむまでとは、一体いつまでだ? こいつは、いつか僕を逃がしてくれるのだろうか?
背後から、ほっそりとした腕が僕に絡み付く。甘ったるい香りと、柔らかな感触。耳元に当たる静かな吐息。それら全てが、僕の感覚を、心を掻き乱す。
ついさっきまで汐里がくっついていたそこには、今は美しい怪物が寄り添っていた。愛おしげに僕への頬擦りを繰り返す怪物は、ここは自分だけの場所とでも主張するかのように、ますます強く僕を後ろから抱き締める。
汐里を敵として認識した。ルイや汐里の言葉を借りるなら、そういう事なんだろう。まさか汐里が僕に抱きついたから攻撃した。何てことはない筈だ。……多分。
時折、しがみつきながらやんわりと爪を立ててくる怪物。それのされるがままになりながら、僕は静かにため息をつく。命は助かった。今はそれでよしとしたい。だが、生憎僕はそれで満足という訳にはいかなかった。
顔をあげると、丁度ルイがすぐそばまで歩いてきた所だった。
「やぁ、お互い呆れるくらいボロボロだね」
「よく言うよ。君と怪物はすっかり元気じゃないか」
僕と怪物を交互に見ながら、腹が立つくらいニヤニヤするルイ。僕はそれにつっけんどんに返答する。
「うん、その子も手痛い思いをしたんだね。でも、これで少なくとも、拳銃や刃物は危害を加えるものって認識したんじゃないかな? 多分」
「また拳銃向けられる状況になるかもしれないと? 笑えないよ」
思わず乾いた笑いが漏れる。正直生きた心地がしなかった。もう二度とごめんだ。
自然とルイと視線が合う。相変わらずのアルカイックスマイル。だが、その中に、隠しきれない安堵の情が見え隠れするのを、僕は確かに見てとった。
「レイ君。無事でよかったよ」
「ああ、君もね。ルイ」
まずは互いの生存を喜ぶ。だが、その余韻に浸る間も無く僕らは表情を引き締めた。
「全部……話してもらうよ。この夜であり得ないくらい沢山の秘密を知ったけど、これが全てじゃないんだろう?」
「ああ、勿論だ。約束だったもんね。ただ、その前に……」
ルイの片手が、再び怪物の鉤爪と化す。突然の変化に、思わずのけ反ってしまう。事実を知った後とはいえ、目の前でルイが怪物の力を行使するのは、やはり慣れなかった。
「そろそろ汐里を救いだそう。こっちの追撃を恐れて何もしないのだろうけど、あんな状態じゃ話せないしね」
「話すって……汐里も?」
思わず怪訝な顔を浮かべた僕に、ルイは肩を竦めながら頷く。どこか疲れの滲むその仕草は、まだ残る厄介事を暗示させるようだった。
「ああ、必要だ。君に秘密を話す前に、どうしても聞かなければならない。もう一体いる原種の地球外生命体。その居場所をね」
どうやらやはり、まだ終わりという訳にはいかないらしい。
鉤爪をシャベルのように駆使して、ルイは蜘蛛の山を切り崩しにかかり始めた。鉤爪が振るわれるたび、蜘蛛達は脚をバタつかせながら冗談みたいに吹き飛ばされている。
配下達がそんな状況下にいるというのに、当の主は、我関せずを貫いたまま。いつの間にか僕の真正面に陣取り、ますます身体をくっつけてくる。
傷から全快したお陰で、変なスイッチでも入ってしまったのかもしれない。助けを求めて横を見ると、頼れる大輔叔父さんは、こっちを見ながら「手錠持ってくればよかった……」なんて笑えない台詞を吐く始末だった。
冤罪を主張する暇もなく、熱を帯びた視線が、すぐ目の前から僕に向けられる。何かをねだるように怪物は僕の服をしきりに引っ張り始めた。
……いや、頼むから大輔叔父さんの目の前でディープキスだけは勘弁して欲しい。僕からなんて論外だ。あれは生存戦略。兼、今夜限りの大サービスだったのだから。
さっきまでの濃厚な死の気配とは真逆な状況に、僕の口から二度目の溜め息が漏れた。
叔父さんの生暖かい視線と、怪物のクラクラするくらいのいい匂い。色々な意味で針のむしろだ。
「勘弁してくれよ……」
僕が意図せずこぼした呟きに、返答する者はいなかった。飛んできた蜘蛛達が、いそいそと森の奥へ帰っていく。当然ながら、こいつらも僕を助けてはくれない。味方のいないそこから逃避するように僕は前を見る。取り敢えず、ルイの豪快な救出作業を見守る事が、今僕に出来るもっとも無難な選択だろう。
顔を近づけてくる怪物を片手で抑えながら、僕は蜘蛛が舞い躍る夜空を仰ぎ見た。




