58.肉喰らう女
食人主義。
京子の発したその言葉が僕の耳に届いたその瞬間。僕は一時的に、自分の今の状況も、身体の疲労感も。手に突き刺さったメスの感触すら忘れてしまった。
……この子は、何を言っている?
「レイくん、究極な愛の形って、どんなものだと思う?」
京子の問いかけにも、今はまともに答えられる気がしない。いや、まともな受け答えが出来たとしても、僕が彼女を理解できるかは怪しいだろう。前回だって京子の言う〝芸術〟は、僕には全く理解できなかったのだから。
「あたしはね。心中だと思ってるの」
僕の応答は大して問題にしていないのか、京子は構わず話し続ける。メスを僕の手に刺したまま、京子は演説するように両腕を広げ、華やかに笑う。
「あたしはそこの女に辱しめられ、屈辱を受けたわ。レイくんには裏切られ、捨てられた。どうしてか? それは、忌々しいことに、レイくんとその女の愛の前に敗北したから」
空を仰ぎ、胸に手を当てながら京子は語る。
「復讐を誓ったわ。そして、創作活動をしながら考えた。どうすれば、あの愛を壊せる? これ以上ない位に貶めた上で、スダボロに。かつ、血の芸術家であるあたしらしい芸術的な形で成し遂げるには、どうすればいいか? そして、答えにたどり着いたの……」
恍惚な表情、ワナワナと震える身体。暗い森の中心で、血の芸術家はその言葉を口にした。
「愛に私が敗北したなら、その愛を逆手に取る。レイくんとその女を、愛で心中させる。その為に、私自身が芸術にならなくちゃ」
「き、京子。君が何を言っているのか分からないよ」
僕の口から掠れた声が漏れる。刺された手の痛みがいよいよ酷くなり、額に脂汗が滲む。京子はわからないの? といった表情で僕を見ながら、ゆっくり怪物の前に立つ。こちらからでは京子の表情は見えない。だが、僕は見てしまった。怪物の方へ向き直る瞬間、京子の顔が、これ以上ない位に愉悦で輝いていたのを。
「レイくんとその女が互いの存在で生きているのは分かっているわ。だから、あたしはその女に成り代わる。その女を切り裂いて。磨り潰して、食べちゃうの。そうすれば、その血肉はあたしと一体になる」
京子の鋭い蹴りが、怪物の腹部に突き刺さる。怪物は呻き声も上げず、ビクンと痙攣した後で、壊れたマリオネットのように横向けに倒れた。息も絶え絶えのまま、怪物は尚も此方を見つめてくる。その視線を遮るように、京子は怪物の前に立ち塞がった。
「女は死んだのに、そこにいる。レイくんは、その女に捕らわれる。生きながらの死。まさに心中よ。その後は、いずれ耐えきれなくなって、レイくんが死んじゃうまであたしが傍にいるわ。そして――」
京子は怪物の腕を踏みつけながら、こちらに振り返る。口元が三日月の形になり、不気味な表情に拍車がかかる。
「そこで、あたしがレイくんを食べてあげる。怪物と人間は愛し合うが結ばれない。けど、あたしの一部になることになり、とうとう一緒になることができましたとさ……。なかなか素敵な悲劇じゃない? 他ならぬあたしが制作者であり、芸術の依り代になる。凄いでしょ?」
元々無理だとは分かっていた。自首を懇願した所で通じない。そもそも、怪物とは違う意味で話が通じないのだ。
「理解出来ないよ……。誰かを食べて、その人に成り代わるなんて不可能だ」
「何言ってるの? この女はそうやってこんな姿をしているんでしょ? ましてや中身は蜘蛛。こんなのを愛せるレイくんの方がおかしいよ」
京子はそう返答し、怪物の襟首を掴む。
「大丈夫よ。道具はあらかじめ用意してるわ。ミキサーとか、大きな包丁とか、鋸とか。後は……調理方法かな?」
京子の指が、怪物の頬を撫でる。僕の血に塗れた唇に触れた時、京子は一瞬だけ不快そうな表情になる。
「この唇が、舌が……レイ君のに触れたのね。忌々しい。あたしより先にレイ君を誘惑するなんて……。決めたわ。唇と舌は切り取ってあげる。怪物のタンシチューよ。頬の肉は……そうね。ミートソースにしてスパゲティにするわ。他の柔らかい肉は……ソテーにでもしようかしら? あ、腸を引きずり出して、腸詰め! ソーセージとかいけそうね!」
おぞましい計画が淡々と進められていく。酸っぱいものが込み上げてきた。せっかくひさしぶりの美味しい夕食だったのに。
「肉の固い部分は、ミンチにしましょ。ハンバーグなんて良さげよね。脳は……今度こそ味噌汁ね! それからぁ……」
口から泡を吹き出しながら京子が喋り続けていると、不意に森の中で軽快な音楽が響き渡る。京子は待ちわびたかのようにポケットから携帯電話を取り出すと、それを素早く操作する。
どうやら、携帯の通話を、スピーカーモードに切り替えていたらしい。京子はそのまま、僕に見せつけるように携帯を差し出す。そのディスプレイには、『シオリン』の四文字があった。
「どうもこんばんは。先程ぶりですね」
電話の向こうから聞こえる、鈴をならしたかのような声に、僕は思わず歯噛みする。
唐沢汐里。ここにきて、こいつまで……
僕の焦りの表情に気がついたのか、京子は嬉しそうに口角を上げる。
「その様子だと、糸からは脱出したみたいね。シオリン」
「ええ、お陰さまで。余計な力は使いたくなかったので、少し手間取ってしまいました。その嬉しそうな声色から察するに、怪物の無力化は成功したようですね」
「ええ、レイくんも捕まえたわ」
「結構です。では今からそちらに向かいます。ああ、通話はそのままで。レイ君も私と話したいことがあるかもしれませんしね」
そう言う汐里の声には、少なからず興奮の色が見え隠れしていた。ヒューヒューという喘息のような呼吸音からも、それは伺える。
「唐沢汐里。どうして大輔叔父さんを巻き込んだ?」
兼ねてから疑問だった事を口にする。命があるだけ幸いだが、それが少し気掛かりだったのだ。
「知れたことです。貴方に対する最大の切り札になり得るからですよ。殺しにかかってくる私や京子ならともかく、身内相手に攻撃をするなんてことは、普通の感覚を持った人間なら躊躇いを持つ筈です。だから利用させてもらいました。まぁ、操ってみたら予想以上の身体能力に驚きましたが」
流石刑事さんですね。と、汐里は付け加える。『余計な力』『操ってみたら』その言葉から導き出される言葉は一つしかない。
「お前も……怪物なのか?」
沈黙が訪れる。しばらくして、唸るような息遣いと、ギリギリという歯軋り音の後に、大きな深呼吸の音が聞こえた。
「……ええ、忌々しい事にね。今日まで生きてこられたのは教授のお陰とはいえ、未だにあの人への怨みは募るばかりです。私がこうなったのは、元を辿れば教授のせいですからね」
僕の質問に対し、汐里は今までの嬉々とした声から一転。硬く冷たい声で返答する。叔父さんと、この男を操っているのは、怪物の能力、『身体所有権の剥奪能力』で、まず間違いない。大輔叔父さんらしからぬあの言動も、能力の一端――。話す言葉をも操る力によって言わせたものだったのだ。
だが、汐里が怪物だとすると、少し疑問が残る。何故あの時、汐里は怪物の能力を駆使して、僕達を捕らえなかったのだろう? こちらの怪物は弱っていたのだから、僕達を簡単に仕留める事だって出来た筈だ。余計な力は使いたくないと言っていた辺り、やはり能力には回数制限があるのだろうか?
「さて、私の事はいいでしょう。京子。いまの状況の説明を」
「さっき説明したじゃん」
「より詳しい状況が知りたいのです。不審なものは見当たりませんか?」
考える僕をよそに、女二人は話し続ける。訝しげな顔をしながら辺りを見渡す京子は、ある一点に目を留めていた。
「レイくんもこの女も動けないわよ。あと目につくのは……レイくんのショルダーバッグくらいね」
思考が中断し、僕の身体が急速に冷えていく。
まずい……。感覚で分かる。アレを汐里に悟られてはならないと。
「……中身は? もしかしなくても、繭のような物が入っていたりしませんか?」
汐里の声が、今の僕にはとてつもなく不吉な響きを孕んでいるように聞こえた。ダメだ。止めろ。見るな。
「繭……あるよ。うわっ気持ち悪い。これ、あの病院の地下にあったのと同じじゃない」
心底気味悪そうな表情で、京子はその中身を地面にぶちまける。繭はコロコロと転がり、あるものは茂みの方へと姿を消し、またあるものは京子によって踏み潰され、生々しい水音と共に地面へと染み込んでいく。
「京子。オリーブオイルは持っていますね? 念のため、もう二回くらい、刺しておいてくれますか? もしかしたらまだ完全に無力化出来ていないかもしれません」
残酷な言葉が、携帯から発せられる。その瞬間、あっという間に僕の手からメスが引き抜かれた。「いぎぃ!?」という僕の悲鳴は無視して、京子は刃先の血を拭い取ると、ポケットから小さな瓶を取り出す。中身は、黄金色の液体が入っていた。京子は瓶のキャップを取ると、その中身にメスを浸し、絡めるように掻き回す。カチャカチャという金属と硝子がぶつかり合う音が、僕を恐怖で追い詰めていく。
繭はもうない。僕も動けない。ここで怪物が刺されてしまったら、それが行き着く先は絶望だ。
「ルイの助勢を期待しているのでしたら、無駄なことですよ? 彼は恐らく、もう力が使えない。動く事もままならないでしょうね」
携帯から聞こえる、汐里の嘲笑うような声に、僕は頭を殴打されたような感覚に陥った。
「どういう、意味だ?」
「そのままの意味です。ルイはね。貴方に出会う前からこういった戦いを何度か行っている。既に消耗し尽くしていると言っても過言ではない。それこそ、人間相手に遅れを取るほどにね」
大輔叔父さんを糸で抑えているときの、ルイの苦しげな声。あれはそういうことだったのか?
僕の中にあった芯が。希望の損失の可能性でぐらつき始めた。
「大輔は実にいい働きをしてくれました。本来ルイを抑える役は私が引き受け、そこの怪物と貴方を京子とその男でこなす予定でしたのでね。私も力が節約出来ました」
追い打ちをかけるかのように汐里は続ける。
嘘だ。
こびりつくその言葉を、僕は否定する。ルイが消耗? そんな筈ない。だってアイツはいつも飄々として、僕をからかって楽しんでいた。弱々しい素振りなんて見せなかった。何より、僕達は約束したんだ。
『心配はいらないよ。君の叔父さんは、優しく戦闘不能にする。僕もすぐに追い付くさ。そしたら……その子と一緒に、僕の話を聞いて欲しい』
そうだ、僕が信じなくてどうする。ルイはちゃんとここに……。
「あら、大輔叔父さんお久しぶり。追い付いたのね」
わざとらしい京子の声。京子の視線を辿ると、少し離れた茂みに、大柄な男の人影があった。
「そん……な……」
絶望は薄まることなく、容赦なく僕にのし掛かる。見慣れたくたびれたような顔。スーツの上着は脱ぎ捨ててきたのか、血だらけなYシャツ姿となっている。幽鬼のように佇む大輔叔父さんは、ただぼんやりと怪物を見つめていた。
頬を涙が伝う。あの大嘘つき野郎……。約束が違うぞ。
そんな悪態や慟哭が、本人に届く筈もない。ここにきて一番の死の気配を、僕は今まさに実感していた。
大輔叔父さんが来る。それは、ルイの敗北を意味していた。何より……。
「フフフ……レイくぅん。私の勝・ち・ね」
京子はそう宣いながら、静かにメスを振り上げる。ぬめった銀色の刃は、怪物に向けられていた。弱りきった美しい少女に、無慈悲な殺意が向けられている。
「やめ……ろ……」
声を絞り出す。渾身の力を絞り出し、上の男をはねのけようとするも、それも叶わない。体格差、地の利、立ち位置。全てが男に味方をしていた。それでも僕はもがいた。もがくのを止めない。
「頼む……! もう、やめてくれ! それ以上そいつに危害は……」
その時、怪物と僕の視線が再び交差した。潤んだ漆黒の眼差し。どうしてお前は毎度毎度、こんな時すら……。
「大丈夫。先っぽだけよ! お楽しみはこれから! その前にちょっと……滅多刺しにするだけよぉお!!」
怪物の襟首を持ったまま、京子は歓喜に満ちた表情で、メスを突き下ろした。
「やめろぉおおぉおおぉっ!!」
京子の奇声と、僕の叫びが轟いた直後、夜空に鮮血が迸った。
※
唐沢汐里は、困惑のあまり、森の奥へと進む足を思わず止めていた。
何故、どうして? そんな感情が頭を回る。
小野大輔は、予想以上に使える男だった。ルイと生身で渡り合い、暫く食い下がる程に。だが、それでも大輔は人間だ。だから、勝ちはあり得ない。そう汐里は推測していた。
事実、レイを取り逃がしてから暫くすると、〝大輔の意識は消失した〟のだ。意識を失った者は能力で操れない。また、ルイが二階出口から出て来なかったことも考えて、大輔はルイと交戦し、能力を引き出すまで食い下がり、敗北した。が、ルイ自身も限界を迎えたという結論に至った。
なのに、どうして敗北した筈の大輔は彼処に現れた?
汐里は思考を巡らせる。
過去数回にわたり、ルイと対峙した。汐里の見立てでは、ルイは能力を使えても、あと数回。それで限界を迎える筈だった。ましてや彼には、汐里やあの少女の怪物のような、〝回復手段〟は無いのだ。
そもそも大輔がこうして生きて動いていること自体がおかしい。
大輔に注いだ怪物の力はまだ残っている筈。ならば、汐里がそれを感じ取れないわけがない。
加えてルイが汐里の下僕を生かしておくということ自体が、今までなかった事だ。今までルイは、汐里が差し向けた下僕を徹底して殺してきた。身体所有権の剥奪能力――。支配の力は、意識や記憶、感覚までは、奪わないからである。
それは、怪物の記憶を一般人に残さないための適切な処置でもあったのだ。
何が彼を変えた? と、聞かれたら、あの青年。レイの姿が浮かぶ。汐里は思わず歯噛みしながら、もう一度だ。もう一度最初から考えろ。と、己に言い聞かせ、大きく深呼吸する。
大輔の覚醒が察知出来なかった以上、彼の中の怪物の力が消失したという事だ。だが、どうやって……?
汐里はそこまで考えて、まるで稲妻にでも打たれたかのように表情を固まらせた。
あるではないか。一つだけ。怪物の力を打ち消せるものが。いつも汐里は狩る側だった。散々その力は使い続けてきた。だというのに、いざという時に相手に使われ、こうもしてやられるとは……。脳裏を銀髪の少年がほくそ笑む姿がありありと浮かぶ。
「おのれ……ルイ……!」
下唇を噛みながら、汐里は走り出す。自分が使う手段が逆手に取られ、相手に使われるという発想にたどり着けない辺り、自分は根っからの研究者なのだ。と、汐里は自嘲気味に嘆息する。走るのは苦手だというのに。と、悪態を突きながら、汐里は通話中の携帯を睨み、叫んだ。
「京子! 逃げなさい! 恐らく大輔は、私の力を〝打ち破って〟いる! 危険です!」
その刹那。受話器の向こう側から、乾いた銃声が炸裂した。
※
焦げたような硝煙の匂いが、僕の鼻をつく。滲む視界。痛みで悲鳴を上げる身体。そんな最中で鳴り響く銃声に、僕は反射的に身体を強張らせた。
「……え?」
もう、ダメだ。本気でそう思った。だが、思い描いた惨劇は訪れず、目の前では信じられない光景が繰り広げられていた。
弾き飛ばされるメスが、銀の弧を描いて空を舞う。血に染まった自分の手を凝視する京子。その顔は未だに困惑の色のまま、大量の血を右手から滴らせていた。そして――。
「よう、山城京子。会いたかったぜ」
ニヒルな笑みを浮かべながら、拳銃を構える男がいた。今度こそ初めて見る、〝本物の刑事〟の表情で、その男――。小野大輔は一歩前に出る。
「取り敢えず。俺の可愛い甥っ子と、俺の親友。軒並み返して貰おうか」




