5.襲撃
「結局何だったんだ……アレ?」
僕は狐にでもつままれたかのような微妙な気分を抱えながら、ドライヤーで髪を乾かしていた。
頭に浮かぶのは、やはり先程、風呂場で起こった出来事だ。
気配と髪の毛。あれは何だったのだろうか。
あの後、風呂場から出た僕は部屋中の隠れられそうな場所を、くまなく捜索した。
が、結局。部屋には誰かがいた痕跡は皆無。さっきの長い髪の一本すら残されてはいなかった。
玄関から出ていった様子は無い。となると、やはりあの時感じた気配は気のせい。ということになる。
ドアが空いたのは立て付けが悪かったから。
髪の毛は街中でたまたま付着したものが、そのままお風呂場まで来てしまったから……。
いやいや、それは苦しすぎる。髪を乾かし終わった僕は、歯磨きをしながら首を振る。いくらなんでも、それは偶然が重なりすぎだ。しかし、部屋に誰もいなかった以上、もう他にこれといった原因は思い浮かばない。
口を濯ぎ、歯ブラシを元の位置に戻すと、僕は欠伸混じりにリビングへ戻る。そこには、やはり誰もいなかった。
「……寝よ」
分からないことを考えても仕方がない。結局誰も居なかったし、きっと気のせいだったのだろう。僕はそう結論付けると、部屋の電気を消し、ベッドへと潜り込む。
何処か釈然としない感情を抱えながらも、結構遅くまで活動していたこともあるのか、疲れと眠気があっという間に押し寄せてきた。
僕は微睡みの中、今日の恋人の笑顔と、抱きしめた感触を思い出す。思わず顔が綻ぶのが自分でもわかった。
今日は、いい夢が見れそうだ。
僕が幸福感に包まれたまま、眠りの世界へ旅立とうとした瞬間、ソイツは訪れた。
気配が生えてきた。それが最も適切な表現ではないだろうか。
僕が眠っているベッドのすぐ傍。何もなかったその空間に、まるで幽霊が現れたかの如く唐突に黒い影が出現した。
突然の出来事に僕が身体を硬直させていた次の瞬間、部屋にギシリという低い音が響き渡る。
真っ暗でそこに在るものはよく見えないが、僕は直感とも言うべきもので、何が起こっているかを察した。
誰かが、僕のベッドに座っているのだ。
この部屋には、僕以外に誰もいない筈なのに。
「だ、誰だ……」
僕は震える身体を必死で抑え、精一杯の野太い声を絞り出す。が、影は答えない。
僕は意を決して、ベッドの横に 安置されているフロアスタンドライトに手を伸ばす。
錠前を外すような音と共に、白熱電球の黄色い柔らかな光が部屋をぼんやりと照らしだす。突然の灯りに目がついていかず、僕は何度かまだたきをした。やがて目が慣れてくるとともに、その影の全貌が明らかになる。
……それと視線があった時、僕は声が出なかった。否、出せなかった。
どうしてここにいるのか?
なぜ僕のベッドに座っているのか?
そもそもどうやって部屋に入ってきたのか?
色々と疑問は浮かぶが、そんなものすら僕の中では置いてきぼりにされていた。僕はまるで金縛りにでもあったかのように、その場から動けなかったのだから。
そこに座っていたのは少女だった。
黒いセーラー服に身を包み、ほっそりとした脚は同じく黒いタイツで覆われている。
腰ほどまでの長く艶やかで美しい黒髪は、前髪が切り揃えられ、まるで日本人形のよう。
深い闇の底のような漆黒の瞳。
尽く黒を強調する風貌とは対照的な、病的なまでに白い肌。それはとてもきめ細かで、陶磁器を思わせる冷たい美貌をいっそう際立たせていた。
どこか大人びた雰囲気を漂わせながら、少女は柔かく微笑んだ。
美しい少女だった。
背筋が凍りつくかと思える程、美しい少女だった。
そのとき僕は、当惑や混乱。恐怖心などを一切忘れていた。暫くの間、その少女にただ見とれていたのだ。
一体、どれ程の間、そうしていたことだろう。一分にも三十分にも思える睨めっこは、唐突に少女が動き出したことで終わりを告げた。
スルリと少女の腕が、まるで蛇のように僕の首元に巻き付いてくる。僕はあれよという間に物凄い力で引き寄せられ、少女に抱き締められてしまった。
「な? え? ……お?」
突然の出来事に、目を白黒させる僕。そんな僕にはお構い無しに、少女は僕を抱き締めたまま、僕の首筋に顔を埋めた。
女性特有の甘い香りと共に、首筋に擽ったい感触が走る。僕の頭はますます混乱し、唇を当てられていると気がつくのに数秒かかってしまった。少女が唇を当てている部位をチロチロと冷たい何かが蠢いている。僕は背中を氷塊が伝い落ちたかのような戦慄が走った。これ……し、舌?
「ちょっ、何する……!」
僕が抗議の声をあげようとした瞬間、異変は起こった。
ゾブリ。という、首筋に何かが突き刺さるような音が僕の脳髄に直接響き、僕の思考は停止する。
「…………え?」
気づいた時にはもう遅かった。
認識しようとしても、脳が拒絶しようと躍起になっているようだ。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されているような、妙な浮遊感に似た錯覚に陥る。
加えて、首筋には痺れるような痛みが生まれ、僕は顔をしかめる。
少女が、僕の首筋に噛みついていた。ただ噛みつくだけならまだよかった。歯とは違う何かが、僕の首筋に二本、突き刺さっているのがわかる。明らかに人間ではあり得ない器官が、僕に突き刺さっているのだ。声にならない音が口から漏れる。そんな僕を、少女は逃がすまいとしているかのように、益々きつく抱きしめていく。
少女に拘束されている最中、補食される立場故か、僕は自分でも冷静に今の状況を分析していた。
今僕は、血を……吸われてる。突然現れた、名も知らぬ少女に。
その瞬間、全身の力がゆっくりと抜けていくのを感じた。
ぼんやりとした表情のまま、ただ自分の血が少女に飲み込まれていく……。そんな生々しい音だけを、僕はまるで他人事のようにいつまでも聞いていた。