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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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57.捕らわれし者

 突き付けられたメスの刃から逃れるように、ゆっくりと振り返る。僅かな月明かりが、そこに立つ人物を照らし出していた

「ひっ……!」

 小さな悲鳴が溢れて、僕はその場で後退りする。

「傷付くなぁ……森の中で女の子と出会って、その反応ってどうなの?」

 その女性は苦笑いを浮かべるように、僕の首筋にメスを移動させ、その腹でペチペチと叩く。冷たい感触が首に付いては離れ、付いては離れを繰り返す。

 怖い。とてつもなく怖かった。目の前の女性が。突き立てられた凶器が。そして何より……。

「ねぇ、レイくん。似合う? 似合う?」

 ちょんと、スカートの裾をつまみ上げて、その女性――。山城京子は、にっこりと。屈託のない笑顔を浮かべた。

 何よりも僕が怖かったのは、京子の出で立ちだ。

 黒いセーラー服。黒いストッキング。それは正に、怪物の模倣だった。怪物と違う点は、髪が茶髪のショートカットなところ。肌は所々、かぶれたように赤く爛れていること、そして……。

「手に入れるのに苦労したわ。女の子の制服ってネットオークションで高値で取引されるって聞いたけど、あんなに高いなんてねぇ~。しかもあの良妻賢母製造校の制服なもんだから尚更高くて……。もう信じられない!」

 髪と同じ茶色の瞳はどうしようもなく濁り、異様な光を放っている点だった。まさに狂気を体現したかのようなその姿に、僕は二の句が継げなかった。

「でもね。あたしは妥協しないの。今宵の芸術の為に、あたしはこの姿になる。真なる吸血鬼、『血の芸術家』となる為にね」

 ハァ、ハァ……と、荒い息をつきながら、京子は指で僕の顎を上向きにする。露になった喉仏に、メスの尖端があてがわれる。唾でも飲み込もうものなら、ブスリと刺さってしまいそうだ。

「シオリンから大体の状況は聞いてるわ。その化け物、今は能力が使えないんでしょう? 凄く好都合。本当はあたしの手で無力化してやりたかったけど……ま、この際よしとするわ。実際に加工するのはあたしだもの」

 さってと……。と、呟きながら、京子は舌でペロリと唇を濡らす。嗜虐的な視線が、僕と近くの大木に身を横たえた怪物に向けられる。

「でも、レイくんったら、どうしちゃったの? キスで復活とか、お伽噺じゃないんだからさぁ。遠目から見ても寒かったよ?」

 バカにしたような口調で京子が言う。何をしていたかまでは具体的に気づいていないらしい。そこだけは助かった。けど。

 僕の身体中を、冷や汗が伝っていく。間違いない。この鼻につく匂い。京子のメスにもオリーブオイルが塗り込まれている。これで怪物が刺されでもしたら、せっかく回復の兆しが見えていたのに、全て無駄になってしまう。

「レイくん? 何か喋ってよ……って、ああ。これじゃ喋れないのね。うっかりしてたわ」

 メスを今度は横の首に移動させ、京子はウキウキしたような顔でこちらを見る。喋れって言われても困る。聞きたいことはいっぱいあるが、正直近くの刃物が怖くて言いたいことも言えないのだ。すると、京子の顔が徐々に不機嫌なものに変わっていく。

「ねぇちょっと。何もないわけ? そんなにあの女が気がかりなの?」

「お、叔父さん! どうして大輔叔父さんが京子達に協力しているんだ?」

 京子の標的が怪物の方に向きそうだったので、僕は慌てて疑問を口にする。

 怖いとか言っている場合ではなかった。とにかく今は駄目だ。どうにかして京子の意識をこっちに向けさせよう。怪物は無力化している。と、京子が認識しているうちが好機なのだ。とにかく会話を続ける事が逆転への条件だ。そうすれば、怪物が回復する時間も稼げる筈。

「ああ、あの人ね。レイくんの叔父さんは、レイくんの部屋を訪ねた時に拾ったの。お鍋の具が入ってたから、レイくんとやる予定だったのかな? まぁどうでもいいけど」

 叔父さん……色々とタイミングが悪すぎるよ。てか、下手したら僕と怪物とルイと叔父さんとで食卓を囲む事になってたのか。それはそれで凄い光景だ。

「で、事情を説明して、味方になって貰ったの。化け物狩りってきいたら、市民の平和の為にって……」

「嘘をつくな」

 京子が漏らした台詞に、僕の口から知らず知らずのうちに固い声が出る。

「あの、大輔叔父さんが、そんな事だけで犯罪者と肩を並べる筈がない」

 刑事としての誇りを持っている人だ。そんな人が自己判断で指名手配中の殺人犯の逮捕を保留して、単独でここには来るなんて有り得ない。叔父さんならまず京子を逮捕して、汐里から事情を聞き出して、その上で必要があれば、他の警察の人達と一緒に行動を起こす筈だ。「自分は優秀な刑事ではない」それが叔父さんの自分自身を指すときに使う言葉。だからこそ、情報量で勝る為にニュースチェックには余念がないし、大胆に行動するよりも、慎重に事を運ぼうとする。そんな人なのだ。

 案の定、京子は「ちぇっばれちゃったか」なんて呟いている。

 しかし、そうなると、リネン庫で見た叔父さんに疑問が生まれてしまう。叔父さんはどうしてここに来た? 何か弱味でも握られているのだろうか?

「え? レイ君気付かなかったの? そんなの決まってるじゃない」

 京子は心底意外そうな顔で、僕と怪物を見る。


「アレはシオリンの力よ。目の前で見た時は驚いたけどね。確か、支配の力って言ってたわ」


 京子のその言葉は、僕を更なる絶望に叩き落とすには充分だった。

 身体を、本人の意思とは無関係に強制的に動かす能力。感覚と意識だけ残し、まるで所有権だけごっそり頂くような、悪辣な力。僕はそれに、気味が悪いくらい覚えがあった。

 なんてこった。それなら、汐里は。いや、〝汐里も〟恐らく……。

「さて、レイくんとお話もしたし、そろそろ創作活動に入ろうかな」

 京子はにこやかにそう言うと、僕の方へと手を伸ばす。所々赤くかぶれたような手。いつぞやの蜘蛛達に囲まれた時についた傷だろうか? 僕は、その手を乱暴に打ち払った。


「一応聞くけど……なんの真似?」


 この世のものとは思えない、それに屈せず、僕は京子を、睨み付ける。

 恐怖はある。トラウマもある。身体なんて、汐里と対峙した時以上に震えている。それでも、僕は今ここで京子に捕まってやる訳にはいかない。僕の推測が正しいなら、一刻も早くルイと合流する必要がある。でなければ、僕も、怪物も、ルイも、大輔叔父さんも死ぬ。

「京子、あの時言えなかったことを言うよ。そういえば、まだ言ってなかったしね」

 怪訝な顔をする京子。そうだ! 言ってやれ! 


「君みたいな痛々しい子とは付き合ってられないよ。さっさと自首してくれ」


 百面相。否、憤怒の表情一辺倒で、京子は奇声を上げながらメスを振り上げる。

 僕はその凶刃を、その場で転がるようにして何とか避けた。

 あの日、京子と対峙した時とは何もかも状況が違う。一つ。僕は何の負傷もしておらず、縛られてもいない。二つ。弱体化した状態とはいえ、恐らく回復しつつある怪物が傍にいること。つまりは長い目で見れば二対一だ。そして三つ。殺人者と一般人。そうやって袂を分かった僕達だが、どうあがいてもひっくり返らないものがある。それは……。

「つっ!? キャアッ!」

 メスを避けたそばから、京子の足元に頭からタックルをかます。足元に衝撃を加えられた京子は、そのまま仰向けに倒れ込む。そこですかさずマウントポジションをとり、刃物を握る右手と、残った左手をしっかり抑える。

 そう、たとえ以前が捕食者と披食者という関係で縛られていても、僕達は男と女。必然的に、腕力の差というものは存在する。

 こうやって抑え込んでしまえば、いかに京子と言えども……。


 白状すると、少し勇み足になっていたと言える。怪物が回復の兆しを見せてくらたからこそ。大輔叔父さんが完全にあちら側でなかったという事実があったからこそ。僕は勇気を振り絞って、京子に立ち向かう事が出来たのだ。

 だから、僕は失念していた。京子は普通の女の子等ではなかった事を。それどころか、前回対峙した時以上に、壊れてしまっていた事を。


 次の瞬間に感じたのは、右腕に走った、猛烈な痛みだった。焼き鏝を押し付けられたかのようなその痛みは、僕の僅かな勇気を描き消してしまうのに、充分すぎる威力を持っていた。

「が、あっ、ひぃいいぃいいっ!」

 情けない悲鳴が漏れる。たまらず京子の腕を離し、彼女から逃れようとする。そこで初めて、僕は痛みの正体を認識した。

 京子が、僕の腕に噛みついていた。

「いだい! いだいいぃい! やめ……ああぁあ!!」

 しかも、ただ噛みついている訳ではない。京子はまるで、フライドチキンにでもかぶりついているかのように、僕の腕にギリギリと歯を食い込ませていた。気づいてしまった。これは、防衛による噛みつきなどではない。捕食の為の噛みつきだ。

 ゾワリと背筋が寒くなり、僕は必死で抵抗する。痛みは気絶してしまうのではないかと思えるほどだ。ブチブチ。という肉を噛み千切る音がする。それに対応して、京子はまるで肉食動物のように首を左右に捻った。

 僕はこのまま、全身を京子に噛み潰されて終わるのではないか? そんな恐ろしい想像が頭を過った。

 心が折れかけるその刹那、バツン! という音が、僕の全身を駆け巡った。ようやく京子から開放されたらしい。


 開放。しかしながら、それが意味するのは残酷な現実だった。地面に無様に倒れ、痛みで転がり回る僕の目に飛び込んで来たのは、抉れたように肉が削がれた、自分の右腕だった。

「あ……ひぃっ!?」

 傷自体は、そこまで大きいものではない。だが、何本もの彫刻刀で彫られたかのような、生々しい傷跡からは、血がじくじくと溢れ出している。

 その傷を無表情に眺めながら、京子は顎を動かし、味わいながら喉を鳴らした。

「酸っぱいな。けど、まぁ、幸先はいいわ。レイくんの欠片……。ゲットォ……」

 口元を血で濡らし、歪な笑みを浮かべる京子の姿。悪意と狂気が入り乱れるその表情は、僕の恐怖を更に掻き立てた。

 無理だ……。

 唐突にそう悟る。色々な意味で、僕はこの子には勝てない。

 こんなのを相手取っていたら、命がいくつあっても足りないではないか。

 痛む腕を抑えながら、僕は怪物の方を向く。怪物は相変わらず、ぐったりと大木に身を預けたまま、こちらを見つめていた。

 彼女は、走れるだろうか? いや、まだ駄目だ。逃げるなら、僕が怪物を抱えなければなるまい。だが、それは一瞬でも、京子に無防備な背中を晒さなければならない。

 ……でも、それがどうした!

 震え、まともな思考もままならない状態で、僕はカチカチと勝手に音を打ちならす歯を、強引に喰いしばった。そんなの関係ない。とにかく、今は、一刻も早く京子から離れたい。それだけだ。

「うわあぁああ!」

 肩にかけたショルダーバックを振り回し、京子を牽制する。そのまま半身で背後に二、三跳び。僕は怪物の方へと駆け寄った。

「なぁんだ。レイくんから攻めるのは、もう終わりなの?」

 京子は僕を追うこともなく、つまらなそうな顔で口を尖らせ……。


「でも残念ね。そっちは、ギロチン台だよ?」


 一転、残酷な笑みを花開かせる。

 疑念を抱いた時にはもう遅かった。次の瞬間、僕の背後から、太い二本の腕が現れ、僕をガッチリ拘束したのだ。

「えっ……?」

 世界が反転する。

 気がつけば僕の身体は宙を舞っていて、物凄い勢いで地面に叩きつけられていた。

 投げ飛ばされた。僕がようやくそう認識したのは、背中に感じる重みと、程なくして訪れた、頭を踏みつける靴の感触に気づいた時だった。

「お前……は」

 一瞬見えた特徴のない顔。間違いない。倒れ伏した僕の背中に、どっしりと座っているのは、ルイが地下でノックアウトしたあの男だ。

「あたしが回収したの。何よ。やればできるじゃない」

 満足気に笑いながら、京子はグリグリと靴で僕の頭を踏みにじる。

「これから手にいれる物を敢えて踏みつけるのも乙なものね。見てよあの女。レイくんがこんなになってるのに、助けにも入らないなんて」

 横目で怪物を見ながら、京子は吐き捨てるように言う。

 つられてそちらを見ると、怪物は悲しげな表情で、こちらを見ていた。

「……この期に及んであたしを無視して見つめあうなんてね。まるであたしが、悪役みたいじゃない! 胸糞悪いなぁ……」

 靴が頭から外され、僕の傍に京子が座り込む。

 視界の端で、銀色が閃き、そして……。

「ぐ……ぎゃああああ!」

 右手に、またしても焼けるような。……いや、そんなの生ぬるく感じる程の痛みが走る。

 手の甲にメスが、まるで虫ピンのように深々と突き刺さっていた。

 滲む視界。そこに狂乱した女性のシルエットが大写しになる。

「逃がさないよ? レイくんも、あの女も。支配するのはあたしなんだから」

 歌うようなソプラノの声。こんなにも恐ろしい声に、僕は一時期蕩けていたのかと思うと、自分の正気を疑いたくなる。

 僕の涙を、京子が指で拭う。濡れた指を口元に持っていき、舐めしゃぶりながら、京子は笑う。

 僕を更に追い詰める、そんな毒の言葉を持って。


「さ。楽しい楽しい芸術の時間よ。レイくんは……食人主義(カニバリズム)って、知ってる?」


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