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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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55.蛇と蛙と手負いの猟犬

 京子に殺されかけたあの日。怪物は僕の元に駆けつけ、僕を救いだしてくれた。

 怪物自身はそんな気はなく、ただ単に僕に会いに来ただけだったとしても、結果として京子は撃退され、僕は助かった。

 あの致命傷から生還できたのも、恐らくは怪物が僕を何らかの手段をもって命を繋いでくれたからだと思う。

 様々な能力を有する、美しい怪物。

 狼狽えることもなく、常にマイペース。誰にも縛られることなく、僕の理性や日常、色々な物を壊し、奪っていく。だというのに、どうしようもないくらいに、僕を魅了する存在。

 それが、僕が怪物に対して抱いていた、率直な感想というか、見解のようなものだった。

 故に、心のどこかで、こう思っていたのかもしれない。

 コイツが狩られる側に回るなんて有り得ない。万が一そんな事があったとしても、コイツ一人なら簡単に状況をひっくり返してしまうに違いない――、と。


 だから――、コイツが倒れる所なんて、僕には信じられなくて。その光景を見た瞬間、僕は純粋に恐怖した。怪物が狙われ、殺されようとしている、その現実に。


 ※


「急所は外してしまいましたか……拳銃なんて慣れないものを使ったのが仇となりましたね」


 階段の踊り場に崩れ落ちるようにして倒れた怪物。その姿を無感動な面持ちで眺めながら、目の前の金髪の女性はため息を漏らす。

 虚ろな瞳と、時折口から漏れる、ヒューヒューという喘ぎ声。何よりも、その白衣とパンツスーツの出で立ちには、嫌というくらい見覚えがあった。


「唐沢……汐里……?」

「ええ、いかにも。お久しぶりです、レイ君」


 絡み付くようなねっとりとした笑みを貼り付けて、汐里はその場で優雅に一礼する。その立ち振舞いの最中すら、汐里の目は怪物と、それに駆け寄り、膝をつく僕に向けられていた。

「何で……」

「お前は立っているんだ? なんて野暮な質問は止めてくださいね。元々あの車椅子だって、ルイが余計な事をしなければ乗らずに済んだのですから。全く……忌々しい」

 吐き捨てるように言い放った後、汐里はゆっくりと拳銃を僕の方へ向けた。

「京子が怒ってしまいますので、貴方達はまだ殺しません。ですがまぁ、変な行動をとられても困りますので、死なない程度に痛め付けさせて頂きます」

 興奮したように息を荒くする汐里から、僕達へ残酷な言葉が浴びせられる。

 拳銃の扱いに慣れてない人間が拳銃で人を死なないように痛みつけるなんて不可能だ。つまり、これは、死の宣告にも等しい。

「京子が怒る……? どうしてさ」

「……おや、彼女、言ってませんでしたか? 貴方達を作品にする、と。その素材を横からかっさらったりなんかしたら……どうなるか位は想像できるのでは?」

 冷たい汗が背中を伝う。言っていることは分かる。その状況になったとしたら、京子ならば迷わず汐里を殺すだろう。だが……。

「……本当に〝痛めつけるだけ〟で終わらせる気か?」

 無意識に怪物の身体を引き寄せながら、僕は汐里に問いかける。

 今の汐里は、冷めない興奮にうち震えているように見えた。

 すぐに殺したい……そんな声が聞こえて来るようだ。そもそも、痛みつけてこの場に留まらせるのが目的ならば、「急所は外してしまいましたか」なんて言葉など出てくる筈もない。

「……先にそちらをやります。しばらく能力が完全に使えなくなる位に、もう二、三発叩き込まねばなりませんしね」

 僕の質問には答えずに、汐里は一歩踏み出す。拳銃は僕に向けられたままだ。

「それを此方に。でないと、流れ弾が当たりますよ? その怪物と貴方は違う。この弾丸一つが、簡単に致命傷になりえます」

「ぐ……」

 蛇に睨まれた蛙。なんて的を得た表現なのだろうと思う。捕食者。絶対的な恐怖。それの前では、披食者たる僕は無力に等しい。まさに蛙だ。

「意地を張りなさるな。それを庇った所で、いいことなどありませんよ」

 汐里が歪に笑う。絶対的優位。それを分かっているからこそ出来る表情。

「迷うことなどないではありませんか。それを置いて逃げれば、貴方だけならば、もしかしたら私や京子から逃げられるかもしれませんよ?」

 誘惑するような猫なで声。それを聞き流しながら、僕はゆっくり汐里と階段。そして、実験棟を隠すように広がる森を眺める。階段を下りればすぐ。少し走れば森に身を隠せる。少しぬかるんだ地面が、月明かりと階段のぼんやりとした灯りでヌラヌラと光沢を放っていた。

 そのまま最後に怪物を見る。只でさえ白い肌は、いっそう青ざめて、見るからに痛々しい。荒い息づかいと、弱々しくも確かに感じる鼓動。触れ合っている所は、怪物の生暖かい血が、止めどなく滴り落ち、僕の服に染み込んでいく。一見すると、手遅れにしか見えない状況だが、怪物はそれでも生きていた。生きて、僕の瞳を真っ直ぐ見つめている。

「なんて顔だよ」

 思わずそんな言葉が漏れた。自分自身がそんな状態になって尚、僕の腕の中で横たわる怪物は、何処か幸せそうだった。無表情の中に潜む、それこそ毎日接していなければ分からない程の些細な変化。それが分かるようになっている辺り、僕も大概だ。

 そっと、血に濡れた怪物の手が僕の口元まで伸びてきた。酷く弱々しい動きで、怪物の指が僕の唇を柔らかくなぞる。

 優しく、慈しむような感触が、くすぐるように訪れ、そこで僕はようやく、怪物の意図を察したような気がした。この目は知っている。何度も僕に向けられてきたもので、今更確認するまでもない。とはいっても、こんな状況の中でするような事ではない。

 甘え、すがるような怪物の眼差しにクラクラするようだ。僕はその誘惑を何とか振り払い、怪物を両腕にしっかりえると、そのまま立ち上がった。

「返事を、聞きましょうか」

 汐里が僕から目を離さぬまま、冷たく問いかける。

 僕はゆっくりと深呼吸した。

 落ち着け……落ち着け……と、心の中で何度も繰り返し呟く。

 身体は情けないくらい震えていた。当然だ。この状況を怖いと感じない人間などいるものか。いたとしたら、僕は惜しみ無い拍手を贈ると共に、心の中の何処かが壊れているか、相当な非日常を歩いている人だと解釈するだろう。

 ただの一般人たる僕が出来る事なんて、限られているのだ。

「頼みがある」

「聞きましょう。出来る限りなら」

 だから、僕がやることなど、最初から一つしかない。

「せめて、僕の腕の中で逝かせてやりたい。ダメか?」

「……いいでしょう。ですが、それだと貴方は逃げられない上に、貴方の腕の中で、その子が苦しむことになりますが?」

「逃げたりはしないさ。どのみち、京子が来たらもっと酷いことになるだろう?」

 苦笑いする僕に、汐里は心底つまらなそうな顔を浮かべる。

「それの為ですか。泣かせますね。それにしても生きるのを諦めるのが早いこと……昔の経験の賜物ですか?」

「……京子か。どうでもいいだろ? そんなの」

 人のトラウマエピソードを嬉々として語る京子が、ありありと目に浮かぶ。

「今から行くよ」

 そう告げて、僕は一歩踏み出そうとする。

 震えは、まだ止まらない。ここにきてまだ怖じ気づいているなんて、滑稽という他ない。

 ついさっき怪物の顔を見て、決意したばかりだというのに。

 口の中が渇き、対称的に首の後ろが汗でじっとりと湿っていく。

「どうしましたか? 達観していてもやはり怖いとか?」

 嘲るように汐里が頷く。

 うるさい。分かったような顔をするな。

「唐沢汐里。一つ聞かせろ。どうしてこの子を、執拗にまで狙う」

 気持ちを落ち着けるために、僕は今一度、汐里に問いかける。

 すると、汐里は何を当たり前の事を。とでもいうかのように、不快げに怪物を見る。

「そんなのを一から十まで語りたくはありません。ややこしい背景を取り除いて言うならば……」

 汐里は小首を傾げながら答えた。


「それが怪物で、この世にとって異物以外の何物でもないから。でしょうかね」


 語る汐里を見ながら、僕は静かに呼吸を整える。

 この動機だけが全ての元凶だとは思えない。まだ何か。ルイからも語られていない何かが存在するのだ。そんな単純な理由で、人の顔がここまで悪意や憎悪に満ちたものになるだろうか?

 隠しきれていない、汐里の狂気を間近に感じる中、僕は崩れそうな足元をしっかり踏みしめる。

「汐里……一つだけ訂正するよ」

 無様に上擦った声が漏れた。これが僕の声かと、思わず笑いたくなったが、幸か不幸か、それが僕に少しだけ活力を与えた。

「達観している。は、間違いだよ。人と関わらなかったのも、斜めに透かして見えたのも、全部僕が臆病で、心を閉ざしていたからだ」

 兄さんの死。僕にとって死にたくなるようなトラウマは、皮肉にも僕を生かす物となってしまった。自ら死ぬ度胸など無い。死ぬなら何か意味が欲しい。けど、人と関わるのは怖い。それが僕。僕だった。


「知ってるとは思うけど、蛙って凄いジャンプ力を持ってるんだ」

「……はい?」


 でも、変わった事がある。純也と、京子との出会いは僕の扉を開いた。ほんの数センチの隙間だけど、そこに怪物がずかずかと入り込んできた。色々あって再び閉じかけた心は、結局怪物に抉じ開けられた。

 後に歩み寄ろうと決めてしまったくらい、怪物の存在は大きくなっていた。そう、僕は変わったのだと思う。だからこそ、ルイともああやって一緒に過ごすことも出来たし、馬鹿みたいな言葉の応酬を、心の奥では楽しむことが出来た。

 言うなれば、コイツは僕の日常を滅茶苦茶にした破壊者ではあるが、それと同時に恩人でもあるのだ。

 引き渡せ? そんなの……冗談じゃない! 


「ああああああぁああああ!!」


 ここ一番の大声を張り上げる。恐怖を掻き消せると信じて放った咆哮が、森に木霊する。

 その瞬間、僕は地を蹴り、階段の踊り場から飛び降りた。


 汐里が息を飲む音が耳に届いたが、それも刹那の出来事だった。地球の重力に身を委ねた、垂直自由落下。風を切る感触と共に、僕は弛い地面に不時着した。

「あ……ぐ、ぎゃあぁああ!?」

 それと同時に襲い掛かってきたのは、人二人分の重量だ。いかに地面が柔らかくて、怪物の身体が軽くても、二階から飛び降りた衝撃は、僕の身体を激痛で苛んでいく。

「痛い。い、痛いぃ……」

 恥も外聞も捨てて、僕はその場でのたうち回る。服が汚れるのも構わず、その場で永遠に続くのではないかと思えるくらいの苦しみを何とか耐え忍ぶ。

 駄目だ。早く。早く森へ身を隠さなきゃ。ここでこのままは不味い。

 僕が焦りを募らせていると、不意に目と鼻の先の地面が、なんの前触れもなく弾けとんだ。

 振り向かなくとも分かる。汐里が発砲したのだ。さっきの決死のシャウトと大ジャンプは、少なからず汐里を怯ませる事には成功したらしいが、それもほんの僅な時間に過ぎない。

 ここでじっとしていることはそれすなわち、死に直結する。

「うう……わあぁあああああぁあ!!」

 滅茶苦茶な声をあげながら、僕は手探りでぐったりと横たわる怪物を見つけ出し、その細腕を引き寄せる。

 火事場の馬鹿力なんて迷信だと思っていたが、それとは縁が無さそうな僕が発揮出来た辺り、なかなか馬鹿にすることは出来なそうだ。

 恐怖に突き動かされ、全身の痛みも忘れて、ジグザグに走る。

 泥をはね上げ、転びそうになりながら、ひたすら前へ――。あと何メートルかなんて考えるな。

 止まれば死ぬ。真っ直ぐでも死ぬ。追い付かれても死ぬ。

 とにかく森へ。森の奥深くへ。彼処ならば、おいそれと拳銃は使えまい。そこで時間を稼ぐ。そうすればきっと、ルイが僕達を見つけ出してくれる筈だ。

 抱えた怪物が、僕の服をぎゅっと掴む。震えているのは、痛みからくる痙攣か、それとも僕が震えているのか。コイツに限って恐怖は、ないと思う。けど、ぐったりしたまま僕にすがり付く彼女の姿は、僕を尚更奮い立てた。

 恐怖も、痛みも、いつのまにか胸に芽生えた、燻るような感情も。今は全て、生きることに集中する。

 時間にして数秒。永遠に続くかと思われた、刹那の逃走劇は終わりを迎えた。

 泥を蹴る湿った音は、草木を踏み折る乾いた音に変わっていく。街灯と月明かりが、木々に遮断され、視界が完全な闇の世界で塗りつぶされる中で、僕は木々の間を縫うように、ひたすら疾走する。

 銃弾は、最後まで飛んでくる事はなかった。


 ※


 カビ臭いリネン庫の床に仰向けに横たわったまま、小野大輔は懐から煙草を取り出し、火を点けた。紫煙を肺いっぱいに取り込むと、呼吸に合わせて上半身に痺れるような痛みが走った。

「畜生が……」

 苦々しい表情のまま、大輔はゆっくりと上体を起こす。手入れの行き届いたスーツの上着は、大輔のすぐ横に打ち捨てられていた。糸が幾重にも絡み、見るも無惨な有り様となったそれを、大輔は一瞬迷った後に拾い上げ、またすぐに放り投げた。

 とてもではないが、もう使い物にならないような状態だったらしい。

「痛ぇ……。くそ、何が弱体化している。だ。人をこんなに痛め付けといてよぉ」

 悪態をつきながら、大輔は首を左右に動かし、骨を鳴らす。Yシャツは、おびただしい量の血で真っ赤に染まっている。特に左肩。一際鋭い一撃を加えられたおかげで、出血が酷い。だが、そんなことなど気にも留めないかのように、大輔は男臭い笑みを浮かべる。ギラギラした視線の先には、壁にもたれ掛かるように倒れている、もう一人の人物に向けられていた。

 意識は、完全に失われていた。銀色にも、金色にも見える髪は、今は所々血で汚れている。着こんだ白いYシャツや、ジーンズも同様だ。

 満身創痍。そう言って間違いないその姿でさえ、何処か華があるように見える。それは、一重にその人物の恵まれた容姿故だろうか。もっとも、大輔にとってはそんなことはどうでもいい事だった。

 すぐ傍の床に転がっていた拳銃と、血染めのサバイバルナイフを回収し、大輔は立ち上がる。


「明星ルイ、打ち破ったぜ。次は……」


 大輔の瞳に、一際活力が宿る。ふらつきながら進む手負いの刑事は、今まさに猟犬となる。

 その足取りは、迷うことなく、実験棟の出口を目指していた。

 

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