54.死を運ぶ銃弾
唐沢汐里は夜風を肌に感じながら、のんびりとした足取りで、二階へと続く階段を上っていた。地下へ向かった男の生死は、先程京子が確認した。目標の人物達は、大輔が捕捉した。斥候としての役割ぐらいにしか期待していなかった男達だったが、思いの丈役に立ってくれた。汐里は満足気に白衣のポケットに潜めた、黒い箱を指でなぞる。
「大輔の意識が途切れていない。なかなか善戦してくれているようですね。ルイに〝力〟を使わせているのならば文句ないです」
まだ見えぬリネン庫での攻防を想像しながら、汐里はほくそ笑む。ルイがレイの目の前で力を使ったのだとしたら、今の盤面は自分達にとって格段に有利なものになる。汐里はそう確信していた。
ルイの目的を省みれば、自分自身の事は話さなかった筈。だとすれば、その場面を目撃したレイは、少なからずルイに対して疑念を抱くだろう。それは彼らにつけこむ、決定的な隙になるかもしれない。
「ま、疑念を抱くにしろ、そうでないにしろ、既に手遅れなんですけどね」
階段の終わり。寂れた病棟の二階へと続く扉を見上げながら、汐里はボソリと呟いた。
※
脳の処理が追い付かない。目の前で繰り広げられる光景を、全て否定したくなる。
どうして大輔叔父さんが、僕に銃口を向けるのか?
どうして僕の傍らにいる少女が、人の皮。つまりは、米原侑子の肉の衣を纏った、怪物だと知っているのか?
偶然知った? あり得ない。
前から知っていた? もっとあり得ない。
ならば、京子や汐里の側へ叔父さんが回ったと考えるのが自然だろう。だが、何故……?
刑事の仕事に誇りを持っていたおじさんが、京子と手を組むなんて信じられないし、信じたくない。
胸を、締め付けられているかのような痛みが襲う。まるで心が軋みを上げているみたいだ。
そんな時に――。
「ルイ……それ……」
たった今僕の視界に入るそれは、追い詰められた僕の思考を麻痺させるには、充分すぎる威力を持っていた。
ルイの手は、以前僕が見た、怪物の脚に変貌していたのだから。
「……こうなる日が来るとは分かっていた。けど、こうやって訪れてみると、悲しいくらい冷静な自分がいるんだ。不思議だね」
自嘲するように、何処か諦めたようにルイは溜め息をつく。僕はまだ、混乱が収まらなかった。再び後ろの怪物を見る。ルイの変貌に対しても、怪物は無反応のままだった。それどころか、いつの間にか僕の服の裾を摘まんですらいる。今度は僕が離れないようにするためか、それともただ触れていたいだけなのか。その真意は分からない。
怪物の視線が僕を捉える。漆黒の瞳には、困惑した僕の顔が映り込んでいた。
「君も……ルイも怪物だったのか?」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。『怪物』
僕の漏らしたその単語に、ルイの血色の瞳が僅かに揺らめいた。
「ああ……そうなるね」
静かに、そしてハッキリとその言葉を告げた。僕の中で、なにかが崩れ落ちるような音が聞こえてきた。
ルイは絶望の象徴だと、汐里は比喩していた。成る程。二体目の怪物に接近でもされたら、僕だって絶望するかもしれない。いや、違う。汐里が言っていた絶望とはこの事だったのだろうか? 何だか腑に落ちない。
「ルイ……どうして――」
言ってくれなかったんだ? という声は、不意に聞こえてきた、何かを引きちぎるような音によって掻き消された。
リネン庫の壁を見ると、拘束されていた大輔叔父さんが、いつの間にか手にしたサバイバルナイフで、ルイの出した蜘蛛糸を力任せに捻切っていた。
ヌラリと光るナイフは、蜘蛛糸の束を一本、また一本と切り落としていく。
「……アレにもオリーブオイルが塗り込んであるか。参ったね」
乾いた音を立てて着地する叔父さんを、ルイは肩を竦めながらも目を離さない。叔父さんの視線は、素早くルイを。続いて怪物を。次に壁に拘束された際に落ちた拳銃を。最後にほんの一瞬だけ僕を捉えた。
「レイ君、走れるかい?」
「は?」
いきなりのルイの質問に、僕は思わずそんな声を漏らす。
「この男が、小野大輔。現役の刑事さんなんだろう? なら、単純な肉弾戦じゃあ、生身の人間である僕ら二人が襲いかかった所で、勝ち目はない。なら……」
ルイはそっと右手を上げる。四本指の黒い鉤爪――。怪物の手は、まっすぐ叔父さんに向けられていた。
「なら、人間としてではなく、〝怪物〟として僕が相手をする。その間に君は、その子をつれて、この病院から一旦出るんだ」
その言葉、怪物という単語は、どういうわけか僕の胸に突き刺さるようだった。
頑なにその言葉を使おうとしなかったルイが、始めて。自分自身を指すのに使っていた。
「病院で迎え撃ちたい所だったんだけど、向こうは拳銃を持っているからね。流石に全員分を用意する事は出来なかったらしいが、それにしたってこの男だけが持っているとは考えにくい。最悪、汐里と山城京子も拳銃で武装していると考えるべきだ」
話しながらも、ルイはいつの間にか変化させた怪物の左手を何度か握り、開く。蜘蛛糸を巻き込んだ、黒い四本の鉤爪が、粘性のある音を立てた。
まるでウォーミングアップするかのようなその動作に、僕は無意識のうちに背筋が寒くなる。
「となるとね。室内で対峙するには、ちょっと危ないんだ。跳弾とかあるしね。だから、この病棟を出たら、建物の裏手に回るんだ。そこに教授が資料採取に利用していた、森が広がっている」
そこに身を隠せ。という事らしい。
「ルイ、待ってくれ!」
「時間がない。京子や汐里が来る前に……」
僕が反論しようとしたその瞬間、叔父さんが動いた。狙い澄ましたナイフの一撃。ぎらつく刀身が弧を描き、ルイの喉笛を切り裂かんとする。その一閃を、ルイは身体を屈めてかわし、直ぐさま鉤爪によるカウンターを試みる。脚の屈伸の力をも利用した、渾身のアッパーカット。が、反撃をあらかじめ読んでいたのか、叔父さんは下からの一撃を横っ飛びで避け、そのまま僕の方へ突進してきた。
「ひっ!」
目で追えたのはそこまでだった。迫り来る白刃と、叔父さんの迫力に耐えきれず、僕は気がつけば手で頭を覆い、目を閉じてしまっていた。
刺される! と感じた防衛反応で、僕はしばらくその場で硬直する。
刹那のうちに感じた、強烈な死の気配は、僕に何の痛みも、衝撃も感じさせなかった。おかしい。間違いなく叔父さんはこっちに向かって来た筈だ。なのに、どうして?
震えながら目を開けると、僕のほんの目と鼻の先に、ナイフの切っ先があった。
「うわぁあ!?」
悲鳴をあげながら、僕はその場から這うように逃れた。無様に這いつくばって逃げた先で、僕は今度は黒い壁にぶち当たる。
「むぐっ……あ?」
やけに柔らかい壁だった。……いや、現実逃避はよそう。僕の背後にいた存在を忘れる訳にはいかない。大体、〝壁が僕を抱き締めらる訳がないではないか〟
「むっ、むごご……!?」
暴力的に柔らかい双丘が、僕の顔面に押し付けられる。こうしてくっつくのが久しぶりだからか、それとも結果的に僕の方から接近したからなのか、柔らかい壁――。もとい、怪物は、ここぞとばかりに僕を引き寄せ、頭の上に頬擦りする。クラクラするような甘い香りと、暖かい感触に包まれ、僕は不覚に少し心地よいと……。違う! そうじゃない! そんなことしてる場合か!
残された力を振り絞り、僕は怪物の拘束から脱出する。確かめなければならない。さっきのナイフ。あれはどうして寸前で止められていた?
「やれやれ。僕はおじさんと命懸けのSMプレイ。その最中、君は女の子のおっぱいにダイビングか。この待遇の差は何だい?」
呆れたような、おどけたような声がする。さっきまでナイフがあった場所には、蜘蛛糸で片腕を縛られ、もがく叔父さんの姿があった。糸はナイフを持った方の腕に絡み付き、叔父さんとルイを一直線に繋いでいる。
「早く逃げろ。レイ君。この糸も長くはもたない。また襲われる前に、早く……」
苦しげなルイの声。それに反して、叔父さんは唸り声を上げながら、ますます激しく抵抗する。
「で、でも……」
叔父さんを、そしてルイを見る。ここに置いていけというのか?
そんな僕の様子を見たルイは、いつものアルカイックスマイルを浮かべる。
「それは、僕の心配かい? 叔父さんの心配かい?」
投げ掛けられた質問に、僕はしばし言葉を失う。
見透かされた。という気持ちが先走り、僕は思わず拳を握る。
「それ……は」
再び目の前の二人に目を向ける。暴れる叔父さんと、それを抑え込むルイ。ルイの両手は、あいかわらず、黒い鉤爪のまま。それが、僕に現実を改めて見せつける。ルイが怪物だったという現実を。そして何より、僕がルイに対して、少なからず恐怖に似た感情を抱きつつある現実を。
それは、ルイと共にいるようになってから、少しずつ薄れつつあった、彼に対する疑念。それが再び芽生え始めている事に他ならなかった。
隠していた? 騙していた? 何が目的だ?
考えれば考えるほどに、答えは出ない。ルイが敵か味方なのかすら、今は判断がつかない。こうして僕を生かすことも、何か理由が……。
そっと、後ろから怪物が僕に身体を寄せる。人が真剣に考えているときにこいつは……! 思わず苦い顔になった僕を、こんな状況にもかかわらず、ルイの目は真っ直ぐに見つめていた。
「……あ」
その時だ。唐突に僕の頭に僕の部屋では慣れた光景がフラッシュバックする。
それは、何て事のない日常だった。
ベッドに寝そべる怪物。時折僕に甘え、僕はそれをなんとか引き剥がそうと必死になる。
攻防戦を繰り広げる僕達を、部屋の定位置。本棚の前に腰掛けたルイは、文庫本を読む手を止めて、こちらを観察していた。「もう結婚しちゃいなよ」というルイのからかいの言葉を、僕は手近な雑誌を投げつけることで封殺する。冗談じゃない! と、僕が叫んだ瞬間、バキン! というお決まりの音。身体所有権の剥奪を怪物に行使され、僕は怪物の意のままに……。
僕も。ルイも。恐らく怪物も。同じ部屋に住みながら、それぞれ腹に一物を抱えていた。見えない目的。疑念や葛藤。本能。それは端から見たら、奇妙で、不気味にすら映る共同生活だったかもしれない。けど、暖かかった。〝ゾッとする〟ことに、僕にとって暖かいものだったのだ。
僕の中に燻っていた迷いが、八割がた消失する。おかしな話だが、僕には、〝僕達〟にはそれで充分だった。
だから……。
「……両方だ!」
僕の叫びに、ルイはその血色の目を見開く。諦めの表情が、困惑したものに変わりゆくルイを見据えながら、僕はこの言葉が間違いではないことを確信する。自然と自分の顔が綻ぶのを感じた。
ルイの目的はいまだ不透明だ。限りなく白に近いグレー。今の僕の中でルイに対して出せる結論はこれくらいだった。もっとも、先程の彼の反応で、どうか白であって欲しい。という、僕の希望が追加された事は……まぁ、わざわざルイに伝える必要は無いだろう。
だって今のルイは、笑っている。いつも見せる彫像のような笑みではなく、時折怪物に対してだけ見せていた、優しくも、本当に嬉しそうな笑顔で。……どうでもいいけど、こいつ、僕の心を読めるとかではあるまいな?
そんな僕の別の疑念など知るよしもなく、ルイは「ああ……そうか」と、何かを噛み締めるように何度も頷いた。
「心配はいらないよ。君の叔父さんは、優しく戦闘不能にする。僕もすぐに追い付くさ。そしたら……その子と一緒に、僕の話を聞いて欲しい」
優しく戦闘不能にするってどんなやり方だよ。という返答は野暮なのだろう。僕は頷きながら、未だ後ろにまと纏わりついている怪物の手を取り、立ち上がる。
ブチブチという音がした。よく見ると、叔父さんの腕を封じていた糸は、殆ど千切れかかっている。
僕としたことが、考えすぎた。とにかく今は、ルイの邪魔にならないよう、一刻も早くここを出よう。
「ルイ……約束は守ってくれよ」
「勿論だ。君達も気をつけて」
「…………」
その言葉を最後に、僕と怪物はリネン庫を後にした。
※
病棟の簡単な見取り図は、予め地下室でルイから教わっていた。故に、外へ出る最短ルートへも、遠回りの道も、大体は分かる。
リネン庫から出た、一直線の廊下に誰もいなかったのは、不幸中の幸いだった。そのまま僕達は、内部の階段には目もくれず、二階の端へ向かう。いくつかある出入り口の中で、そこが二番目に裏手の森に近い。
一番近くて迷わなそうな出口は一階にあるのだが、そこを目指して行けば、嫌でも地下室へ続く廊下を横切る事になる。それは少し危険な気がしたのだ。
勿論、絶対安全な場所なんて今はどこにも望めないのは分かっているが。
「よし、誰も見てないな?」
二階の端。目的の扉の前で、僕は後ろを見る。誰かにつけられているといった気配はない。傍らの怪物が姿を消さない辺り、近くに人間はいなそうだ。と言っても、ついさっきは大輔叔父さんがいても怪物は姿を消さなかったので、その探知力にも少し疑問が残るが、それについて考えるのは後にしよう。
僕は怪物の手を握ったまま、目の前の扉を慎重に、あまり音を立てないように開けていく。隙間から夜風が流れ込み、僕と怪物の髪を靡かせる。
非常階段。病院は勿論、学校などの公共施設には殆ど設置されている、普段使われない階段。この病棟は東側の外にそれが取り付けられていた。
怪物と連れだって、階段の踊り場に立つ。
暗い夜空の下でも、ルイが言っていた森はすぐに見つかった。
「てか、考えてみたら、ここ、四方八方森だったじゃないか。これなら何処に逃げても同じじゃ……」
何となく漏らした言葉は誰かに向けたものではなく、完全に独り言だった。そのつもりだった。
「いいえ。同じではありませんよ。たとえば、実験棟西側の森には、いくつもの沼がありましてね。夜は勿論のこと、昼間ですら少し危ない場所なんです」
階段の斜め下から、鈴を鳴らしたかのような、女の声で返答が返ってきた。
ぎょっとしてそちらに目を向けると、そこにはパンツスーツに白衣姿の、金髪の女が佇んでいた。
それも、黒光りする銃口を、こちらへ真っ直ぐ向けながら。
「いきなりで悪いのですが、ここで足を止めて頂きます」
狂気に濁った目で、その女は引き金を引く。破裂するかのような鋭い銃声が、立て続けに三発。その場で鳴り響いた。
反応は、出来なかった。待ち伏せされた! という焦った思考も、女が誰かを識別する判断力も、今の僕は持ち合わせていなかった。
分かったのは、銃で撃たれた事。そして、〝今回も〟僕には何の痛みも衝撃も無かった事だった。
外した? そんな楽観的考えが、僕の中に浮かぶ。それは、直ぐに覆された。
不意に、僕の肩に何かがぶつかり、その場でよろめき始めた。ピチャピチャと、何かが滴り落ちる音。続けて、一際甲高い音がすぐ横で響いた。
「あ……あぁ……」
情けない声が僕の口から漏れる。かつてこれほどまで酷い声が出たことなどあっただろうか? 多分ない。
僕のすぐ横で、黒衣の少女が地に両膝をついていた。ゆっくり、スローモーションのように、その身体が崩れ、倒れていく。
元々白かった肌が、今はいっそう白く見えた。
いつもなら僕の血で紅く染まる、艶かしい口元は、今は、彼女自身の血が一筋。まるで涙のように零れ落ちている。
そして、闇の深淵を覗くかのような漆黒の瞳は、こんな時ですら、僕を見つめていた。
「うぁ、ぃい……ああああぁああぁ!!」
無意識に漏らした僕の絶叫が、夜空に吸い込まれていく。
撃たれたのは僕ではなかった。
約束したのに。僕とこいつでルイの話を聞くと、約束したのに。
死を運ぶ銃弾は、無慈悲にも〝彼女〟の。怪物の身体を撃ち抜いていた。




