50.肉の衣
「この間はどこまで話したっけ……そうそう、教授の奥さんがおかしくなった。そこからだったね」
「最後に会話したのはいつだっただろうかって所で終わったよ」
高速道路に入り、幾分運転が楽になったらしく、ルイはのんびりとした口調で話す。
相変わらずスピードメーターは物凄い数字を叩き出してはいるが、この際気にするのはもう止めよう。
「教授の奥さんの話をする前に、ちょっと確認しておきたい事がある。レイ君、君は米原侑子と面識はあったのかい?」
ルイの思いがけない質問に、僕は暫く言葉に窮した。
「何で急に? 怪物と米原侑子は何らかの関係があるかもしれないのはわかるよ。けど、僕と彼女はなんの繋がりも無い」
頭の中を整理しながら、ゆっくりと答える。すると、ルイはその血色の双眸を細めた。
「本当に? 些細なことでもいい。何らかの関わりを持ったとか、思い出せないかい?」
「いや、本当に何にもない。そりゃ、彼女が通っていた学院はうちの大学と近いところにあるから、知らず知らずのうちにすれ違っていた。なんてことはあるかもしれないけど」
それにしたって、相手はお嬢様学校にして、通称、良妻賢母製造校――。白鷺女学院の才女だ。僕なんかが関わりを持つなんて、畏れ多くて出来る訳がない。
「そうか。困ったなぁ……」
ルイは珍しく、その顔を困惑の色に染めている。なんだ? 僕と米原侑子の接点が、怪物になんの関係があるというのだろう?
「それが大有りなんだよ。君がこの子に選ばれている時点で何らかの関わりを持っていなきゃおかしいはずなんだ。でなければ……」
ルイはフロントにへばりついている小蜘蛛――、怪物を横目で見る。
「その子が、米原侑子の姿をしている訳がない」
ゆっくりと告げられた言葉は、僕に浸透していくかのようだった。
「どうして……そんなことが断言出来る?」
掠れた声を出す僕。ルイは車のハンドルを握りしめたまま、無表情で前を見ていた。
「妻の様子がおかしい。そんなことを考えた矢先に、教授にとって致命的とも言える出来事が起こった。〝彼女〟が、地球外生命体が、教授の研究室から姿を消したんだ」
ルイは静かに語り始める。
背中がゾクゾクするような感覚に襲われ、僕はどうにも落ち着かない。
「教授は狂ったように彼女を探し始めた。自分の部屋、リビング、キッチン、家の周辺。そして、妻の部屋を」
ルイは複雑そうな面持ちでため息をついた。
「結論からいえば、奥さんの部屋には、〝蜘蛛の姿をした彼女〟は見つからなかった。だが、そのかわり教授は思いがけないものを発見したんだ」
「思いがけないもの……?」
背筋のざわめきは収まらない。それどころか、ますます酷くなっていく。
恐ろしく不吉な予感がする。見ないようにしていた事実が明るみに出てくるような。そんな気味の悪さがあった。
その時僕は、次にルイの口から出る言葉が何となく予想できてしまった。
「教授の奥さんの部屋は、文字通り血の海だった。そこにあったのは、ぼろ雑巾のように無造作に打ち捨てられた肉塊だったそうだ」
頭の中をいつか見たニュースがリフレインする。
米原侑子の、あまりにも無惨な最期。そして、なにより僕を不安に陥れたのは、彼女が自分を捕らえた怪物と、同じ顔をしていた事ではなかったか。
「そこにあった肉塊が、自分の妻だと教授が分かったのは、辛うじて残された衣服の切れ端によってだそうだ。後は何も残されていない。人間だったものからは、内臓も、脳も。全て抜き取られていたんだ」
ルイの話は続く。そうだ。米原侑子もまた、全ての臓器を奪われていた。いや、喰い荒らされていた。でも、結局犯人は誰か分からず仕舞いだった。
「教授は、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。優秀な彼の頭脳ですら、思考を放棄して硬直するより他はなかったのだろうね。何せ、妻の死体の傍にいたのは、〝紛れもなく妻〟だったのだから」
心臓が煩い。忙しく響く鼓動を抑えるように、僕は未だにフロントに佇む怪物を見た。
教授が遭遇したその場面を、僕はリアルに想像ができた。きっと教授の奥さん――。その姿を象った何かは、うっすらと笑みを浮かべていたに違いない。丁度僕を魅了した、こいつのように。
「じゃ、じゃあ……」
「ああ、もう想像はつくね。この子は君の血しか吸わないから、他の人間を襲うことはない。そんな先入観に囚われていたのではないかい?」
ルイの言葉に、僕は思わず項垂れる。その通りだ。血しか吸わないこいつに、僕は知らず知らずのうちに安全だとラベリングしてしまっていたのだ。
こいつが怪物であることを、僕は一時も忘れたことはないというのに。
「そう。米原侑子を襲ったのは、間違いなくその子だ。そして、その子がその姿を象っているのは、元々持っている能力が由来する」
「能力……?」
「言うなれば、生涯で一度きりだけ使える、『遺伝子複製能力』。対象の姿形を、そっくりそのまま真似る能力だ。正確には、その子の大きさを変える能力に、人間に変身出来るカテゴリーを追加するんだ」
ルイは時折、バックミラーを確認しながらそう答える。『遺伝子複製能力』これによって怪物は、米原侑子と同じ姿をしていた。……正直、にわかには信じられない話だ。それがどうして、襲うことに繋がるのだろうか?
「蜘蛛の中には、交尾中に雄を捕食する種がいるんだけど、『遺伝子複製能力』は、この本能に特殊な要素が混じった結果だと言われてるんだ。自身がこの星で生きる上で人と変わらぬ肉体を得るため、血液、脳、臓器は勿論、骨や肉の一部といったありとあらゆる情報を捕食という形で取り込む。そうして自分が隠れ蓑とする、肉の鎧を作り上げる。これが、その子が米原侑子と同じ姿をしていた理由だよ」
話し終えたルイは、再び運転に集中する。僕はというと、しばらくの間、言葉が出なかった。
原理はわかった。うまく説明がつかない部分も、怪物が地球外生命体だからと理由で、無理矢理押さえつけよう。だが……。
何より僕がショックだったのは、こいつが。怪物が人を襲っていたという事実だった。
「なにやら納得のいかないって顔をしているね?」
「……納得いかないっていうか、混乱してるんだよ」
そして解せないのはもう一つ。何度も疑問に上がったが、なぜわざわざ人間の姿を手に入れようとするのかだ。地球で生きていくならば、別に蜘蛛の状態でも構わないだろう。なのにどうして、怪物は米原侑子を取り込もうとしたのか。
「……教授の奥さんに関しては、〝環境的に彼女しかあり得なかったんだ〟ただ……米原侑子に関しては、人為的に会わされたのではないかと僕は思う」
「人為的に……って、彼女が怪物に捕食されるように、仕向けた人間がいるってこと?」
だとしたら、誰が、何の為に?
「それも調べるために、僕は車を飛ばしているのさ」
ルイはそう言うと、車を操り、ゆっくり道をそれ、緩やかなカーブに差し掛かる。周りの景色を置き去りにして走る車は、前方に見えたインターチェンジへ向けて、静かに減速していく。
「あてはあるの?」
「勿論さ。だから高速道路を降りたんだ」
僕の問いかけに、ルイはいつものアルカイックスマイルで答える。どうやら、闇雲に走っていた訳ではないらしい。
「今から向かう所は……」
高速道路を後にし、ルイが口を開いたその瞬間、僕のポケットの中で、携帯が着うたと共に鳴動した。
「B'z好きなのかい?」
「それなりにね。――電話か。誰だろ?」
このタイミングは最悪だと思いつつ、そっと携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。表示された名前は、『小野大輔』だった。
「……大輔叔父さん?」
思いがけない名前に首を傾げながら、僕は通話ボタンを押す。それが、恐怖の引き金になろうとは知るよしもなく
「レ・イ・君」
受話器の向こうから聞こえて来たのは、親愛なる叔父のくたびれた声――。等ではなかった。
綺麗なソプラノの声。それは、ただ僕の名前を呼んだだけだというのに、歓喜でうち震えているのが手に取るように分かる。
忘れもしない。僕に地獄と、恐怖を与えた女の声。
「なん、で……」
「レイ君元気? ご飯ちゃんと食べてる? トーストばっかりじゃ栄養偏っちゃうよ?」
精一杯声を絞り出す僕を嘲笑うかのように、女性は脈絡も無いことを話し始める。おい待て。彼女は、誰の携帯からかけてきている?
「どうして……」
「あ、そうだ? あの女はそこにいる? いるよね。あんなにベタベタしてたんだもんね~。ベッドではどっちが主導権握ってるの?」
早口でまくし立てる女性。僕の頭の中で、いつかの悪夢が甦ってくる。ステンレスのタッパーから取り出された、ヌラヌラとした光沢を放つ内臓。額縁に納められた、親友の無惨な最期を描いたデッサン。不吉な予感が、浮かんでは消えるを繰り返す。
「こ、これは……大輔叔父さんの番号だ。どうして君がそれを使ってる!?」
「ん? ああ、これね。さっき〝お知り合い〟になったの。場合によっては、彼もあたしの〝作品〟に加えるつもりだよぉ」
狂気を孕んだ笑い声が、受話器の向こうから聞こえてくる。背中を冷や汗が伝い落ち、自然に受話器を握り締める力が強くなった。
分かることは、いたってシンプル。大輔叔父さんが捕らえられた。それも僕にとっては最悪と言っていい人物に……!
「ねぇ……レイ君。会いたいな。何処にいるの? 何処へ向かっているの?」
猫撫で声が耳にこびりつく。優しい声色のなのに、僕にはまるで喉元にメスを突き立てられているかのような気さえした。
「だんまりなんて悲しいなぁ……。でも、他にも色々あるから、先にあたしの用件を伝えたら、別の人に代わるね」
「用……件?」
「そう。あの女と、レイ君にメッセージがあるの。一杯あったんだけど、いざってなると纏まらないね」
えへへとふざけたような笑いを漏らし、そこから一転。その女性――、山城京子は冷たい声で言い放った。
「絶対に逃がさない。あたしの〝最高傑作〟にしてあげるわ」
かつての愛した女性は殺人者だった。
辛くもその手を逃れた僕は、きっと幸運だったのだろう。
だが、それは殺人者を真の抹消者へと昇華させる猶予を与えたに過ぎなかったのだ。
気がつけば、身体の震えが止まらなくなっていた。僕は……彼女から逃げられるのだろうか? もし捕まったら、また……。
不意に、柔らかな感触がした。目の前に突然、見慣れた少女の姿が出現したのだ。
「え……あ……」
戸惑う僕を包み込むように、甘い香りが鼻を擽る。少女の姿となった怪物は、僕の膝の上に腰掛けたまま、そっと身体を預けていた。
こいつに気遣いが出来るとは思えない。けどもしかしたら、心情を敏感に察知することは出来るのではないか? 僕はふと、そんなことを感じた。
純也の死に打ちひしがれていた時しかり、京子に対する恐怖心しかり。でなければ、何故このタイミングで僕に寄り添ってくるというのだろうか?
胸元で怪物の頭が小刻みに動く。頬擦りするその様は何だか猫を思わせた。
「ちょっと失礼」
何だか癪に触るニヤニヤ笑いを浮かべながら、ルイは僕の携帯を奪うと、手早く通話をスピーカーモードに切り替える。
「あー。初めまして。君が山城京子さんかな?」
「……まだレイ君の反応聞いてないんだけど? 誰よあなた?」
突然割り込んだルイに、京子は不満気な声をあげる。
「ああ、最初こそお顔が真っ青になってたけど、持ち直したよ。誰のお陰かは……言わなくてもわかるよね? 御愁傷様だ」
いつになく皮肉たっぷりなルイの言葉に、電話は暫く沈黙する。
「それから悪いんだけど、そっちもスピーカーモードにして欲しいな。どうせ君、一人じゃないんだろう?」
「……ええ、ご明察通りよ。明星ルイ君」
無機質で冷淡な京子の声に、思わず僕は身震いする。これは、本気で怒っている時の声だ。
「おや、僕の事を知っているんだね……」
「ええ、彼女から色々聞いたわよ? あ、取り敢えず、スピーカーに切り替えるわね」
京子は意味ありげな言葉を残し、一端会話を切る。軈て、受話器からは鈴をならしたかのような別の女の声が聞こえてきた。
「どうも。お久し振りですルイ。レイ君も元気そうで何より」
いつかの車椅子に座った女。唐沢汐里の声だった。
「やぁ、汐里。今日は何色だい?」
「下着ですか? 髪色ですか?」
「じゃあ両方」
「下着は赤。髪は金色ですよ」
「おや、刺激的な色だね? 狙っている男性でも?」
「ええ、今は〝二人〟程ね」
友人に接するような気軽さで、ルイと汐里は言葉を交わす。そういえば、この二人はどんな関係なのだろうか?
「私が要求すること、わかりますか?」
「うん。悔しいけど、わかっちゃうなぁ」
「結構。理解が早くて助かります。では、貴方達が向かっているのはどこでしょうか?」
「参考までに聞くけど、嘘の情報は?」
「その場合、人質の命は保証しません。貴方はやらないでしょうが、警察などの厄介な連中に連絡する事も当然NGです」
ルイはやれやれと肩を竦めながら此方を見る。教えた方がいいよね? というような目線に、僕はすかさず首を縦に振る。
こちらの居場所を知られるにしろ、叔父さんの命には変えられない。
「わかったよ。じゃあ言うよ? 僕らが今向かっているのは、楠木教授の『第四個人実験棟』だ」
ルイが告げたその言葉に、暫くの沈黙が訪れる。
「ああ……そうですか。よりにもよってそこですか」
静寂を破ったのは、汐里の声だった。
「懐かしいだろう?」
「反吐が出そうです。けどまぁ、怪物を処理するには。うってつけかもしれませんね」
苛立つような汐里の声にも、ルイはアルカイックスマイルを崩さない。
「じゃあ、伝えたから話は終わりだよ。こっちについたら僕の携帯に連絡しておくれ。君の着信拒否は解除しておくからさ」
「了解です。ああ、そうだ。レイ君」
「へっ?」
突然話題を振られ、僕は思わず上擦った声を漏らしてしまう。「レイ君カッコ悪~い」なんて茶化す京子の声は、気にしないでおこう。
「なんだよ?」
「……私は以前に警告はしました。後は貴方次第です。ですから……」
地のそこから沸き上がるような声が響き、思わず僕はビクリと身体を跳ね上げる。それは、嘲笑だった。
「精々残りの人生を有意義に過ごしてくださいな。貴方はもう、生きて明日を迎えることは出来ないでしょうから」
電話が切れる。その場を支配するのは、重苦しい空気と、車の駆動音だけだった。
怪物はというと、頬擦りを止め、今は僕にもたれかかったまま、流れる景色を眺めていた。京子や汐里の言葉には、やはり反応を示さなかった。いつものことながら、本当に我が道を行く奴だ。
「やらせはしないさ」
ハンドルを握ったまま、ルイは静かに呟いた。
「君とその子を守ること。それもまた、僕の目的だからね」
気がつけば、車は曲がりくねった道を進んでいた。周りは鬱蒼と茂る木々。さっきの高速道路によって、随分と遠くに来てしまったらしい。
僕もまた、怪物に倣って外を眺める。
月明かりだけが光源となる外は、当然ながら真っ暗闇だった。僕は無意識に、怪物の瞳を連想する。
「……ルイ。怪物の事を聞く前に、確認したい事があるんだ」
「何だい?」
流石に此方を向くわけにはいかないのか、ルイは前を向いたまま返事をする。
僕はゆっくり深呼吸した。
「君は……何者なんだ?」
ルイの赤い瞳が、僅かに揺らめいたのを、僕は見逃さなかった。
車は、疾走する。月下で風を切り裂くように。前へ前へ。
深い深い森の中。その暗闇の中心へと。まるで落ちて行くかのように。




