49.追う者と追われる者
ゆったりとした音楽が、心地よく耳に入ってくる。ぼんやりと覚醒した意識を、再び眠りの世界へ誘うような。そんな優しい音色だった。
聴いたことがない筈なのに、何処かで聴いたことがあるような。そんな不思議な感覚に身を委ねていると、徐々に身体に暖かさが広がっていく。
そうだ。僕は確か、部屋で倒れて。それから……。
「おや、お目覚めかい?」
真横から聞こえてきたのは、もうこの二週間で何度も耳にした声。僕は少しショボショボする両目を無理矢理開き、声のした方を見る。
感覚が鮮明になるにつれて、穏やかな音楽と一緒に、不釣り合いな重低音が聞こえてくる。
「いやぁ、びっくりしたよ。ただの貧血みたいだったから良かったけど……身体のどこかで、違和感を感じるような所は無いかい?」
そこには、慣れた手つきでハンドルを回すルイの姿があった。
「えっと……」
いかん。どうも混乱しているらしい。僕は一度深呼吸し、辺りをぐるりと見渡す。
車の中。ハンドルが日本の車と反対に付いているのは、外国産の車だからだろうか。上手く説明出来ないが、内装を見る限り、僕のような庶民には一生縁がなさそうな高級感を漂わせている。
先程から聞こえてくる穏やかな音楽は、あろうことか、CDプレイヤーに繋いだヘッドホンから直接的流れてきていた。多分、音量を最大にしているに違いない。
足元のラックにはCDが多数。洋楽、クラシック、J-POPなど、なんでもありだ。
そして、一番目を引くのが、フロントに何故か並べられている小さなフィギュアの数々だった。
蛇に鳥。蛙や狼。熊や鼬。鼠。甲虫、そして蜘蛛。外国産の高級車に飾るには、色々間違っているようなチョイスだった。
「いいだろう? それ。一昔前に存在した、日本の野性動物をそのままカードゲームのキャラクターにしたという挑戦作だよ」
「フィギュアじゃないかこれ」
「カードとフィギュアを一緒に使うんだ。七並べのように食物連鎖順に生態系を構築。その並べられたカードの上をフィギュア達が歩兵として闊歩する。相手の陣地に侵入し、先に生態系を滅茶苦茶にした方が勝ちさ」
「なんて、非生産的なゲームなんだ」
僕の呆れたような感想に、ルイはクスクス笑っている。いかん、こんなどうでもいい話がしたいんじゃない。
「で、ルイ。聞きたいんだけど、どうして僕は車に?」
「ドライブしようって言ったじゃないか」
もっともな疑問にあっさりとした答えが返ってきて、僕は危うくフロントに頭をぶつけそうになる。
「いきなりすぎるよ! せめて僕が目を覚ましてから行こうよ!」
いつの間にか上着も着せられ、ご丁寧に財布や携帯はポケットに入れられている。更には何故かショルダーバッグまで肩から下げられていた。こいつ……人のクローゼットを勝手に漁ったな。
「うん、君が目覚めてからドライブにしたかったのは山々なんだけどね。ちょっと予想外の事が起きた」
「予想外の事?」
僕が首を傾げていると、ルイは暫く迷ったような表情を見せてから、ゆっくりとその言葉を口にした。
「信頼のおける筋からの連絡でね。唐沢汐里。覚えているかい? 彼女が動き出したそうだ」
「……へ?」
欠片も予想していなかったその名前に、僕は暫くの間硬直する。
「十中八九、彼女はあの部屋にやってくるだろうからね。先手を打って、先にとんずらさせてもらったのさ」
「ち、ちちちょっと待ってくれ? じゃあ今ってドライブっていうより……」
「うん。逃亡なう」
なんだそれは!? さっきよりも頭が混乱してきて、僕は頭を抱える。すると、ルイはいつもの彫像の笑みを浮かべながら、まぁまぁと僕を宥めはじめる。焦る僕に対して余裕綽々な態度が何だか腹が立った。
「まぁ、そんなに悲観しなくてもいいよ。もう既にかなりの距離まで逃げた筈だ。多分、もう暫く時間が稼げるよ」
「時間って……何の?」
「決まってるよ」
ルイはハンドルを切りながらにこやかに頷いた。
「彼女達を返り討ちにするための、時間稼ぎさ」
そう答えるルイは、心なしか楽しそうだ。イタズラを思い付いた子ども。そういう表現がしっくりくる。
返り討ち。ということは、何か秘策が、あるのだろうか? いや、そもそも……。
「相手が唐沢汐里なら、わざわざ車で逃げなくてもいいんじゃないか?」
彼女は車椅子で移動していた。此方は男二人に怪物一人。相手が和田アキ子とかならともかく、三対一の状況では負ける要素が見当たらない。
「ああ。それが彼女一人なら良かったんだけどね。不幸なことに、向こうには少なくとも二人は協力者がいるんだ。加えて彼女は、怪物の弱点も知っている。こっちもそれ相応の準備を整えないと、狩り殺されるのがオチだよ。だから……」
ルイは横目で僕の方を見る。その目はいつになく真剣だ。
「だから、僕は、今が時だと思う。ドライブ中に話そうとした内容を含めて、僕が教えられる限りの事を、レイ君に全て教えよう。その後で、あの子をどうするか。君はどうするかを考えて欲しい」
ルイのその言葉に、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。とうとうこの時が来た。全てが語られるこの時が。謎の緊張で身体を硬くする僕の横で、ルイは肩を竦めながらギアチェンジのレバーを操作する。
「そんなに堅くならないでくれ……って言っても無理な話か。とりあえず、教授の奥さんの話の続きから話そうか。っと、インターチェンジだ。ここをくぐってからにしよう」
流れるようにギアを下げると、まるで獣の唸り声ような音を立て、ルイの車がみるみる減速していく。
今更ながら外を見ると、前方にゲートのような物が見えてきた。どうやら高速道路に乗るつもりらしい。会話が中断され、手持ちぶさたになった僕はただ流れていく景色を見る。認識した次の瞬間は、もう既に別の物が視界に入っていく。車に乗っていれば当たり前のことなのに、僕はまるで吸い寄せられているかのように、その繰り返しを目に焼き付けていた。
この景色と同じだ。僕も、ルイも、そして怪物だって、日々変わりながら生きている。
怪物の話を聞くと言うことは、僕の中での怪物の認識にも、間違いなく変化がもたらされる事だろう。それがどのような形になるかは分からない。だけど、やはり僕は知らなければならない。でなければ、怪物に歩み寄った意味がない。鬼が出るか蛇が出るか。未だ見ぬ真実は、僕に何をもたらすかは分からない。けど、だからといって僕はこいつから目を背ける訳には……ん?
そこで僕は、奇妙な違和感を覚えた。あれ? ちょっと待て。
「高速道路突入だ。レイ君。お腹が空いたりトイレに行きたくなったら早めに教えてくれよ」
背中に冷や汗を流す僕をよそに、ルイはなんとも呑気な口調で「飛ばすよ!」と、宣う。
その瞬間、ルイはクラッチを踏み込み、徐々にギアを上げていく。怒濤の爆音だった重低音の響きは、いつしか悲鳴に近い高音域へと変貌して行く。みるみるうちにスピードメーターが上がって行き、その速度は最早危ないなんて言葉では表せぬ、禁断の領域まで迫っていた。
「ちょっ、ル、ルイ! スピード出しすぎだよ!」
肌をざわめかせていた違和感が吹き飛ばされ、別の意味で身体中が悪寒に教われる。
周りの景色は流星のごとく。その獰猛なまでの速さは、まさに機械仕掛けの猛獣と称するに相応しい。その獣性――否、魔性が、今まさに覚醒しているかのように僕は感じた。いや、それだけならば、言い得て妙だが、まだマシだった。
残念ながら、目を覚ましたのは車だけではなかったのだ。
「さぁ、行くよ。アヴェンタドール。久しぶりの深夜の高速道路だ。思う存分駆け抜けようか……!」
ルイにも何だか妙なスイッチが入っていた。
「ル、ルイ! ルイィイ! 速すぎだから! もう少し考えて……」
「僕達は、この日の為に生きていたんだ」
「いや、わかるよ? 多分走るの久しぶり過ぎて興奮しているのかも知れないけどさ! けど……! えぇい! 話! 話の続きはどうするのさ! 君に聞きたいこともあるのに……」
僕の非難を含んだ視線に気づいたのか、はたまた元からふざけていたのか、ルイはごめんごめん、と言いながら、おどけたような表情を浮かべる。
「分かってるさ。ただ、君のいう通り久しぶり過ぎて嬉しくてね。勿論、考えなしに飛ばしている訳じゃないよ」
「何の為さ?」
一応弁明を聞くと、ルイはおどけた顔から一転して、無表情のままバックミラーを確認し、再び運転に集中する。
「言っただろう? 時間稼ぎのためさ。一分一秒が惜しいなんてケチ過ぎることは言わないけど、少しでも彼女達から離れたいからね」
そう言われると、まともに聞こえるから不思議だ。さっきの明らかに興奮した様子のルイを思い出しながら、僕は乾いた笑みを禁じ得なかった。
「そう言えば聞きたいことってなんだい?」
ルイの問いで、僕は再びさっきの違和感の真っ只中に立ち返る。そうだ。これから怪物の事を聞く上で、欠くことの出来ない問題がある。
「あいつは? 怪物は今何処にいるんだ? もしかして置いてきたんじゃ……?」
違和感の正体。それは、いつも僕のそばにいた、あいつがいないこと。
現在僕が外に出ていることから、怪物はまた姿を眩ませるか、最近できるようになった、部屋にお留守番している。の、どちらかをやっている筈だ。
唐沢汐里に追われている以上、怪物の動向を把握していないのは、とてつもなくマズイのではないだろうか?
「レイ君? 何を言っているんだい?」
ルイはポカンとした顔で、横目でみるどころか、完全に僕の方を見ていた。運転中のその行動は、命取りなことこの上ないのだが、あいにく焦っていた僕にはそれを注意する余裕がなかった。
そんな僕に対して、ルイはまるで当たり前のことを諭すように口を開く。
「あの子なら、さっきから君の前にいるじゃないか」
「……え?」
時間が止まったような錯覚に陥った。今、ルイは何と言った? あの子は目の前? あいつがすぐそこにいる?
目を白黒させた僕が次に見たのは、前方――。フロントに飾られたフィギュア達。その中の一個だけが、動いていた。
「ウソ……え? じゃあ、まさか?」
「そうか。そういえば、君はそれを消える能力だと言っていたね。姿を消す点では間違ってはいない。けど、完全に消えるは間違いだ。正確には、〝大きさを自由に変える〟それが真実さ」
頭の中を雷が駆け抜けたような衝撃だった。
なるほど。確かにそれならば、鍵のかけられた部屋なんて簡単には侵入出来るし、人込みが多い外において、僕を見失うのも理解できる。
つい先程まで少女だったそいつが。つい先程まで、小さな小さな存在だったそいつが、いきなり形とサイズを変えたら?
それはあたかも、〝突然消えたり、突然現れたかのように見えないだろうか?〟
「そうか……そういうからくりだったのか」
僕は目の前の、フィギュアだと思っていた存在に目を向ける。よくよく見ると、小さいながら、それはあまりにも見覚えのある姿形をしていた。
「疑問は溶けたかい? 『瞬間現出』及び『瞬間消失』の能力改め、『瞬間変身能力』それがその子の持つ力の一つ。その正体だ」
黒くて小さな蜘蛛を見ながら、僕は静かに頷いた。
「いきなり、認識が覆されたな……」
僕は思わずそう呟く。どうやら僕は、まだまだ怪物に驚かされ続ける運命にあるらしい。
これから更に語られるであろう真実を想像しながら、僕は思わず溜め息をついた。
今日も、長い夜になりそうだ。
※
「やられましたね~」
マンションの共同廊下。その角部屋に位置するドアをノックしながら、白衣にパンツスーツの出で立ちな女――。唐沢汐里は、困ったように肩を竦めた。
「居留守……ではないようですし、どうやら一足先に逃げられてしまった見たいですね」
不気味な光を宿す目と、それを縁取る隈は相変わらずだが、ざんばらんだった髪は一応、しっかり手入れされ、綺麗なウェーブがかかっている。その色は、目が眩むほどの金色だった。
「逃げられたって……じゃあどうするの?」
汐里のすぐ後ろに佇んでいた山城京子は、不満げに口を尖らせる。ようやくレイと再会できると浮き足だっていた彼女は、目に見えて不機嫌になっていく。その陰湿な視線をやんわりかわしながら、汐里は口元に手を当てながら、考えるそぶりを見せた。
「そうですね。逃げ続ける事が悪手だということは、彼らも分かっている事でしょう。となると……考えられる場所はだいぶ絞られますねぇ」
「え? まさかしらみ潰しに行くの?」
「それしかないでしょうね」
「えぇ~っ……」
ますます口を尖らせる京子に汐里は曖昧な笑みを浮かべる。
「まぁ、いずれ会えることは確定ですから、焦らず行きましょう」
汐里の言葉に、京子は「分かってるけどさ~」と、覇気のない声で返す。その視線は、汐里……ではなく、その横の男に注がれている。
「あのさ。その男が味方だってのは分かったんだけど……。こいつ、一体あなたとどういう関係なの?」
レイが住むマンションのドア前には、京子と汐里の他にも、一人の男が立っていた。
中肉のごく普通な顔立ちをした男。歳は三十代前半か半ば辺りだろうか? そこそこついた筋肉と、当たり障りのない服装が、その男に無個性な印象を与えていた。
「ああ、彼は……」
「ん? どちら様?」
京子の疑問に汐里が答えようとした瞬間、この場にいる誰でもない声が、共同廊下にこだました。
ビクリと、京子の肩が跳ね上がり、汐里は一瞬身構えそうになる。
そこにいたのはピッチリとスーツを着込みつつも、どこか疲れたような空気を醸し出す、中年の男だった。
「えっと……もしかして、レイの――、甥っ子のお友達かな?」
無防備に歩み寄ってくる男。身構えかけた汐里は、静かに深呼吸し、平静さを取り戻していた。目の前の男は勿論のこと、傍らにいた京子も知るよしはない事だが、この時汐里は、内心で歓喜に打ち震えていた。
ついてる! このタイミングで標的の親族と思われる人間と接触出来るなんて。これはもはや、天恵と言うより他はないだろう。
幸いにも、向こうは此方の顔をまだしっかり把握していない。すぐそばにニュースで有名な殺人鬼がいるというのに、あの態度だ。
自分達がマンションンに入る様子は、誰にも見られていないし、加えて、此方には人一人を誘拐する備えがある。汐里は相手を観察しながら、頭を回す。
「あっ、俺はアイツの叔父でね。小野大輔って者だけ……ど」
近づいて来た大輔の表情が、親しげなものから困惑したものに。続けて、驚愕に満ちたものへと変貌していく。その様子を見た汐里はニヤリと歪な笑顔を浮かべた。
「なっ……お前は!?」
此方の顔を認識した大輔の目が、一気に見開かれる。思いがけない者との遭遇。それが引き起こす、心理的な身体の硬直を、汐里は見逃さなかった。三対一。大輔がいかに男とはいえど、簡単に逃げ出せる状況ではない。
元々はレイだけを捕らえて、怪物を誘い出す作戦だったが、その本人はここにはいないのだ。ならばこの男には、レイと怪物を誘い出す贄になってもらえばいい。汐里は今後の方針を大雑把に決定すると、京子に目で合図する。
近づいて来た京子の耳に、汐里はポケットからハンカチを取り出しつつ、声で耳打ちした。
「生け捕りにします。私が眠らせるので、貴方は彼の無力化を」
「了解」
大輔の登場に最初は驚いていた京子も、すぐに平静を取り戻す。汐里の傍らにいた男が、固まる大輔の鳩尾に拳を叩き込むのを見ながら、京子もまた、ハンドバッグに隠し持っていたスタンガンを取り出した。
「悪く思わないでね」
京子の冷たい一言が、誰もいないマンションの廊下に響き渡る。
弾けるような音の後、訪れたのは静寂のみ。
それは、悲鳴も、もがく音も、息遣いすら聞こえない、不吉な沈黙だった。




