48.閑話三・喰い殺された少女
彼に恋人がいる。
その事実を突きつけられて、数週間が過ぎた。あれ以来彼とは会っていない。……会うというよりは、見つめているという方が正しいのだが、今はもうどちらでもいい。
人生初の失恋を経験した私は、あの日以来、妙な夢に囚われるようになっていた。
具体的な内容ははっきりとは思い出せない。ただ、いつも〝そいつ〟は、私のベッドに這い寄ってきては、私をじっと見つめている。覚えているのはそれだけだ。
人間なのかすら定かではない。犬なのか、猫なのか、はたまた悪魔なんてあり得ない存在かも知れない。ともかく、そんな夢を毎晩見る羽目になった私の目覚めは、低血圧なのも手伝って、ますます悪くなっていた。
〝その日〟も、起きた時は身体がとてつもなく重かった。
またしても見たあの夢。思い出せそうで思い出せないもどかしさに、私は溜め息をつきながら、ノロノロとベッドから降り立つ。
遮光性に優れたカーテンのお陰で、部屋の中は朝にも拘わらず薄暗い。ベッドとクローゼット、机以外はなにもない部屋は、私には何だか檻のように感じられた。
誰もいない、誰も入ってくることのない空間を、一糸纏わぬ状態の私は静かに歩いていく。何も身につけずに素っ裸で眠るのは、昔から。
はしたないとか言われそうなものだが、生憎その事を知っている人間は、この家にはいない。
引き出しを開け、下着を引っ張り出す。
レースとフリルがふんだんに使われた黒いそれは、多分だが中々の高級品だ。家政婦さんが勝手に用意したそれを(どうやって私のサイズとかを知ったのかは謎)身につけ、同じく黒いストッキングに脚を通す。
夏なのでニーソックスでもいいかもしれないが、たとえほんの少しでも肌を出すのは、余り好きではなかった。そのままスカート、セーラー服と着こんでいき、私はいつもの出で立ちで姿見の前に立つ。
腰まで伸びた黒髪はそんなに乱れていない。この世に生まれて十七年。寝癖に悩まされた事は一度もない。コンプレックスだらけの私が誇れる、唯一の点はこの髪だったりする。
髪の次は服装だ。セーラー服のリボンが曲がっていないか、ストッキングに伝線はないかなど、私は注意深く点検していく。
問題はない。後は軽く顔を洗おうか。そう決めた所で、私はふと、なんとなく姿見に映る自分を眺める。
こうしてみると本当に黒づくめだ。髪も服も、ストッキングも。ついでに今日は下着まで黒。そのお陰で、セーラー服の白リボンと、血色が悪いと自負する肌が、いやに目立っていた。
真っ黒だ。あの時、彼と太陽のような女性を見た時に感じた心。それと同じように。とたんに惨めな気持ちが再燃し、私は鏡の自分に背を向け、部屋を出た。
――最近、やけに痒い首筋を掻きながら。
そうして私は、ほぼ変わり映えのない一日へ沈んでいく。
いつものように家族のいないテーブルで朝食を食べ、友人もいない学院に通う。孤独の中で一人、今日も私は、いつかの彼のように喧騒の中を縫うように歩く。
家に帰り、再び一人の夕飯。お風呂。そして就寝。そういえば、明日は創立記念とかで学院は休みだったっけ……。そんなことを考えながら、私は眠りの世界へ落ちていく。今日もまた、あの何かに這い寄られる夢を見るのだろうか? 気持ち悪いから勘弁して欲しい。
※
気が付くと、私は、暗くて狭い箱のようなものの中にいた。箱の中には隙間があって、私はそこから外の様子を伺っている。
外には、彼がいた。何故か物差しを手に、こちらを茫然と見上げている。その瞬間、私の身体がカッと熱を帯びたような感覚に囚われた。
彼が私を見てる。それは、叶えたくても叶えられなかった、私の細やかな願いだった。
嬉しくて、私は思わず手を伸ばす。どういうわけか、私は彼の部屋に来ているらしい。ならば、きっと触れることだって出来る筈。
それは、普段の私なら、決して実行する筈のない行動だった。多分、久しぶりに見た彼の姿に、私は浮かれてしまったのだろう。身に合わない事をしたためだろうか? その代償は、思いの外大きな形で私に帰って来た。
彼の、恐怖を孕んだ眼差しによって。
誰に向けられているかなんて、今更確認するまでもない。彼の怯えた視線は、紛れもなく私に注がれていたのだ。
思わず身体がブルリと震えて、私は手を引っ込めようとした。その瞬間、あり得ない物を見た。
私の手はこんなにも黒かっただろうか?
鉤爪なんてあっただろうか?
そもそも、こんなに指は長かっただろうか?
これではまるで……。
再び彼の方を見る。蒼白な顔にさせている原因が私にあることは、何だか物悲しい。が、今の私はそんな感傷に浸っている余裕はなかった。
彼の物差しに付着しているもの。
腕が増えているような感覚。
何か声を発したくても、まるで人間のものではなくなったかのように、ただ開閉を繰り返す、鋏のような口。
唐突に、私は自分の状態を悟った。
ああ、私は今、怪物になっているのだ――。と。
彼が恐怖するのも無理はなかった。そもそも、こんな姿では、〝ワタシ〟は彼を抱き締められない。
ワタシは静かに、伸ばした手を箱の中へ戻す。
安堵した彼が取り落とした物差し。その乾いた音が、虚しく部屋に鳴り響いた。
どれ程の時間がたっただろうか? 私は、箱の中から彼を見つめていた。
最初は周囲を警戒していた彼も、明け方が近づくにつれて徐々にウトウトし始めた。
やがて、完全に彼が眠ってしまった事を確認すると、私はゆっくりと箱の中から外に抜け出した。
彼の枕元に、そっと〝巣〟を作る。眠る彼のすぐそばに自分がいる事実に、私は密かな充実感を覚えていた。
優しい眼差しも、少しだけ明るさを取り戻した表情も、あの太陽のような女性に取られてしまった。
でも、この寝顔。無防備で、子どものように眠る彼の姿は、きっとあの女性も見たことはないだろう。この表情だけは、私だけのものだ。
そのまま彼を観察する。空が白んできているのがわかる。いつまでもここで彼を見つめていたい。でも、起き抜けに私のような化け物が隣にいたら、彼はきっといい顔をしないだろう。だから、今は隠れていよう。いつか、彼の傍に行けるようになる、その日まで。
※
目が覚めた。でも、〝私〟の意識は曖昧だった。分かりやすく言うと、起きているのか起きていないのか、その境界線が微妙な所にある。そんな感じだ。さっきの夢があまりにもリアルだったことも手伝い、私は混乱する頭を無理矢理抑え込み、ベッドから這い出した。
ろくに働かない思考のまま、私はそのままノロノロと身支度を整える。今日は学院には行かなくてもいいというのに、あんなに好きではなかったセーラー服に袖を通す。私は何をしているのだろうか? そんな疑念は浮かんでも、何故か私のからだは、まるで別の意志でもあるかのようにぎこちなく動いていく。
さっきから耳鳴りが止まない。まるで誰かに呼ばれているような。そんな気がして、私はふらつきながら部屋を後にし、家を飛び出した。
頭の奥で、定期的に弾けるような音が響く。ただの耳鳴りにしては、ずいぶんと鮮明な音だ。しかも、その音がする度に、私の視界に、何か別の情景が浮かび上がる。
トーストを食べる彼。
朝のニュースをチェックしながらコーヒーを飲むその姿は、何だか様になっている。
続いて、恐怖に震えながら枕元の夢で私が作った〝巣〟を打ち払う彼。何か不安を拭い去るかのように部屋を出ていく彼を、私は見つめている。まるでその現場を生で傍観しているような、そんな感覚があった。
私は一体どうしてしまったのだろうか? 幻覚を見てしまう程に参ってしまったのか?
そんな懸念を持ちながらも、私はフラリ……フラリと、歩き慣れた道を外れ、見知らぬ場所へと入り込んでいく。
まるで何かに導かれているかのように私は進み続けた。
どれくらいの時間を歩いたかは分からない。気がつけば制服はボロボロで、自慢の髪も傷みが見えはじめている一日。いや、軽く二、三日はたっているかもしれない。ぼんやりとした意識の中で、体内時計も狂ってしまったのだろうか。
しかし、それでも私は止まらない。いや、止まることが出来なかった。
脳の奥で打ち鳴らされる、バキン! という音。あれを聞くたびに、私の身体は操り人形の如く、自由を失う。身体のコントロールがきくのは、ほんの一瞬。後は謎の意志によって、私は暗いところへ暗いところへと歩を進める。
歩きすぎて足が痛む。最後に何かを口にしたのはいつだっただろうか? 誰かに会った記憶もない。私を操るアイツは、人通りが無いところを選んで歩かせているようだ。
……アイツ?
それを認識した時、私は不意にあの奇妙な夢を思い出した。眠る私の枕元に、そいつはいた。私を見下ろし、観察していた存在。
目は八つ。暗闇の中でギラギラ輝きながら、ただ私を見つめていた。
鋏のような顎。絡み合う八本脚。鉤爪はいつも、私の喉元に突きつけられていた。
あの恐ろしい姿は……。夢で私と同化していた、怪物と称するのに相応しいもの。
背中を冷たい汗が流れる。バキン! という音が再び響き、私の身体は再びあらぬ方向へ動き出す。人通りがない、暗い路地裏。その更に深淵へ。
開けた場所に出た。その真ん中で私は自由の身になった。
曇天の下で佇む私。回りの建物にはことごとくシャッターが下ろされており、人の気配は皆無だ。
知らない所に突然投げ出された戸惑いと、明らかに自分がおかしくなっているという自覚と不安。それが、私をその場に縫い付けたかのように硬直させていた。
帰ろう。ここにいてはいけない。
私は踵を返し、その場から立ち去ろうとして――。
見てしまった。
私の目の前に、仔牛ほどの大きさの、何かが突然現れるのを。
悲鳴をあげようとした。だが、声が出なかった。再三バキン! という音が脳髄の奥で弾け、私の身体は、再び自由がきかなくなる。
その瞬間、私は唐突に悟った。
こいつだ。私の身体を好き勝手に動かしているのはこいつに違いない。
動けない私に、そいつはゆっくりと近づいてくる。
夢で見た怪物。いや、果たしてあれは、夢だったのだろうか? 今となっては確かめる術もなく、私は眼前の存在をただ眺めるより他はなかった。
怪物は、見るものを恐怖のどん底に叩き落とすであろう、大蜘蛛の姿をしていた。
成る程。こんな姿では、彼を食べる事は出来ても、抱き締める事など出来まい。そもそも、何でよりにもよって彼を選んだのだろう。私も、お前も、勝負をする前に負けている。彼の周りを漂った所で、気味悪がれるだけだろうに。
私の自嘲を感じ取ったのか、怪物は黙れと言わんばかりに私に躍りかかった。
路地裏で押し倒された私は、そっと目を閉じた。本来ならば身体は情けないくらい震えている事だろう。思考だってこんなに冷静な傍観者のようになる筈がない。だというのに、私の心はまるで麻痺したように凍りついたままだった。
まるで、〝怪物に補食されるのが、当然だ〟とでもいうかのように。
その瞬間、腹部に痛みが走った。焼き鏝を当てられたかのような熱さと共に、何かに挟まれ、引きちぎられるような感触に晒される。
お腹の中の物が引きずり出され、自分の身体がビクンと跳ね上がって。柔らかいものを咀嚼する、嫌に生々しい音が路地裏に響いていく。
意識が飛ぶまでに時間がかかったのは、私にとって不幸なこと極まりなかった。
草食動物は、肉食動物に補食されている間も、実は暫くの間は意識があると、聞いたことがある。喉笛を噛みきられ、哀れにも即死できなかった草食動物は、自分が食べられていくのを感じながらその生涯を終えるという。
徐々に。ゆっくりと。まさか、人の身でそれを体験する事になろうとは……。
首元に何かが噛みつくのがわかった時、私の脳裏に映ったのは、走馬灯でもなければ、家族の事でもなかった。
走馬灯でドラマチックに振り返る程の人生を歩んできた訳でもない。家族に至っては、私が行方不明になった所で、世間体を気にして一応、捜索届けを提出する位だろう。死んだとわかっても、特に心を動かす事も無いに違いない。
ただ、私が唯一心残りだったのは、彼の事だった。
相手がいるのは分かっている。それでもやっぱり、一度でいいから話してみたかった。
触れてみたかった。
贅沢な話だが、彼にも私に触れて欲しかった。
このまま彼の記憶に引っ掛かりもしないまま、怪物の食糧として終わるのは寂しすぎる。
それは、死の淵で私が抱いた、最期の願いだった。
だが、当然ながらその願いが叶う筈もなく、私の喉に圧力がかかる。断頭台のギロチンと同義の顎が、私の首に食い込んでいき、そして――。
バツン! という音がした。それは、腹部を貪られる拷問のような時間に終わりを告げる福音であり。痛みの嵐から、私がようやく解放された瞬間だった。
数時間後。米原侑子は、見るも無惨な死体で発見された。
脳を含む、全ての臓器を何かに喰い荒らされた、あまりにも惨く、哀れな姿で。
通っていた学院の創立記念日――。ごく普通の休日に外出し、そのまま行方不明となった少女。
彼女が発見されるまでの一週間。彼女はどこで何をしていたのか。それを知るものはいない。
目撃証言も幾つか寄せられてはいた。だが、どれも信憑性に欠けるばかりか、彼女を襲った者を特定する鍵にはなりえなかったのである。
後に近辺にて連続猟奇殺人件が起こり、米原侑子もその犠牲者という事で、表向きは決着がついた。
あくまで表向きは。である。何故なら、逮捕された猟奇殺人事件の主犯の一人が、驚くべき証言を残したからである。
曰く、米原侑子を自分は手にかけてはいない。自分の引き起こした事件とは、彼女は全くの無関係である。と。
結局。真実は闇の中に葬り去られたのである。
※
シャワーから流れる水の音が、扉一枚を隔てた向こう側から聞こえてくる。名も無き怪物は、それを聞きながら、密かな興奮で震えていた。
いよいよだ。先走ってつい扉を開けてしまったが、ともかくこれで準備は整った。ようやく、彼を抱き締める事ができる。怪物は静かに移動しながら、その時を待ちわびる。
自分は誰からも望まれないモノだとしても、もう彼にすがるしか道はなかった。
それが、この世に生を受けてから、怪物の遺伝子に最初に取り込まれたもの。揺るがぬ決定事項だった。
早く戻ってきて。〝私〟を見て。触れて。話しかけて。
たとえ伝わらなくとも、報われなくても怪物は待ち続けた。
彼女には、それしか出来ないから。
こうして、囚われの夜が更けていく。その日、彼の青年は、怪物に恐怖し、魅了され、そして捕らえられたのである。




