4.恋慕と蜘蛛の巣
その夜。僕は天にも舞い上がらんばかりの気持ちで家路についていた。
デートは概ね好調。あまり外しにくい所がいいだろうという友人のアドバイスもあり、僕が最終的に選んだのは水族館だった。
アクアリウムの前で茶色のショートヘアを揺らしながら、微笑む僕の恋人。もうとても可愛らしくて、僕は上擦りかけた声を取り繕うのに必死だった。正直、会話もほとんど覚えてない。
まさに至福の時間。間違いなく僕の心は満たされていた。
人は集団でいても、ふと、えも知れぬ孤独感に苛まれる事があるらしい。僕は、幼い頃に経験したある理由から、人一倍その傾向が強く、加えて人見知りという、何ともいえぬ性格をしていた。
でも、大学進学のため、都会で独り暮らしを始めたばかりの時の事。そんな僕でも受け入れてくれる、心優しい友人が出来た。友人という存在とは今まで無縁だった僕は、あまり表には出さなかったが、内心飛び上がらんばかりに喜んだのを覚えている。
更には最近。こんな僕を好きだと言ってくれる、初めての恋人までも。
僕は自分でもにわかに信じられなくて頬を何度も引っ張ったものだ。〝今までの僕〟を振り返ると、それはどうしようもないくらいの大きな進歩だったのだから、ある意味当然といえば当然の行動だ。初めての友人や恋人が出来た時、やはり故郷を出て此方に来て良かったと、僕は心底幸せな気持ちで満たされていた。
「だ、抱きしめちゃった……うわっ、女の子抱きしめたの、初めてだ」
初と笑うなら笑え。幸せの時間は長くは続かず、とうとう互いに家に帰る時間になった時。彼女は満面の笑みを浮かべながら、また来ようね。と、擦り寄ってきてくれたのだ。
これが舞い上がらずにいられようか!
独りでにスキップでも始めそうな勢いで、僕は部屋の入り口に立ち……。
「ただいま!」
誰かがいるわけでもないのに、ドアを開けるなり元気に挨拶する。
思えば、ただいまだなんて言ったのは何年ぶりだろうか? などと僕が回想していると……。
「ぶふっ!」
僕の顔に何かが付着した。手を当てると、粘着性の嫌な感触がそこにあった。
「また蜘蛛の巣か……」
少しうんざりしながら、自分の身体を見る。夜とはいえ、真夏なので少し汗をかいている。顔中蜘蛛の巣だらけだし、これはもうさっさとシャワーを浴びてしまった方がいいかもしれない。
せっかくのいい気分が、少し醒めつつあるのを感じつつ、僕は溜め息混じりに上着を脱ぐ。
鞄などは後でリビングに運べばいいだろう。今はさっさと、この顔の粘りを落とす方が先決だ。
僕は浴室に入り、シャワーのノズルから吹き出るお湯を一身に浴びる。暖かな奔流に、再び一息ついてから、洗顔料を顔に付け、顔に付いた糸を洗い落としていく。
これが質量上では鋼鉄の五倍以上の硬度を誇っているだなんて、にわかには信じられない。さらに伸縮性はナイロンの二倍。適切な太さのこの糸ならば、理論上ダンプカーの突進はおろか、ジャンボジェット機すら受け止められるというのだから驚きだ。
蜘蛛の糸を再現しようと、各所の機関がこぞって研究しているとのこと。物質としてはそうとう凄まじい部類に入るのだろう。
最も、僕は専門家ではないから詳しいことは分からないのだが。
いつぞや大学の図書館で蜘蛛について調べた時の副産物である知識を引き出しながら、僕は何とか糸を落とし終えることに成功する。酷い粘りけだったとぼやきながら、続いてシャンプーを手に取り、髪を洗っていく。
そこでふと、妙な気配を僕は感じた。
シャンプーはたっぷり使う主義なので、頭はもう泡で白いアフロヘアーのようになっている。この状態でもし、目を開けたりなんかしたら大惨事になることだろう。
だが、その大惨事になることを厭わないと感じてしまうほどの、何か鬼気迫る気配を僕は肌で感じていた。
近いのは生理的嫌悪。
見知らぬ人に触られたり、後をつけられたり、見つめられているかのような……。そんな感覚。
僕は思わず頭を洗う動作を止め、聞き耳を立てる。目を開けたいが、この状態では開けられない。
仕方がない、少し早いけど流そうか……。
シャワーを取り、頭についた大量の泡を洗い落としていく。その時――。
すぐ後ろで、ドアが開く音がした。
はて、部屋の鍵は閉めたはずだし、誰にも合鍵は渡していない。つまり、僕しかいないこの部屋でひとりでにドアが開くはずはない。
では、さっきの音は何だ?
そこまで考えたところで、不意に冷たい風を感じ、僕は身震いする。今まさに暖かいお湯を頭から浴びているのにだ。
いや、それはおかしい。お風呂場の室温が急激に変わるだなんて、〝誰かが風呂場のドアを開けない限り〟あり得ない。
……そこまで考えて、僕は妙に冷静かつ、迅速に今の自分が置かれている状況を把握した。
つまりはこうだ。僕以外の誰もいない部屋に誰かがいて、今まさに開けたドアから僕を覗きこんでいる。
誰かが、僕のすぐ後ろに立っている……!
背後を振り向く。その瞬間、侵入者の顔を見ようと開けた瞼の上から、洗いかけのシャンプーの泡が僕の目にドバドバ入り込む。……普通に忘れてた。
「ぐ、おおおおぉお!!」
この世のものとは思えない痛み。なまじ量が量なので、それは強烈な刺激となり、僕の目を襲う。
のたうち回りながら、慌てて僕はシャワーを顔面から被り、泡を洗い落とした。
文字通り、酷い目にあったが、そんなことは二の次だ。逸る気持ちと、少しの恐怖に耐えながら、僕はようやく目を開けた。
「……あれ?」
どうやら、少し遅かったらしい。背後を振り返っても、そこには何もいなかった。ただ不自然に開いたドアの隙間が残されているだけで、さっきの妙な気配は全く残っていない。
「何だったんだ? 今の……」
僕はぼやきながらすきま風を漏らすドアをそっと閉めようと手を伸ばし……。
それを見つけた。
「髪の……毛?」
僕は訝しげな顔で、風呂場の床に落ちていたそれを拾い上げる。
自分の髪の毛なら全く問題はなかっただろう。が、そこで拾い上げたのは明らかに僕のものではなかった。
そこにあったのは、長くて艶やかで、綺麗な黒髪だったのだ。