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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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47.時は来た

 その存在に気がついたのは、私が彼の影を求めて、こっそり鷹匠大学に潜り込んだ時の事だった。土曜日の日課になりつつあるこの習慣。普段着ている、私にとっては監獄の鉄格子に等しいセーラー服を脱ぎ捨て、私服で大学にこっそり侵入するのは、なんとも言えない高揚感を私にもたらす。だが、その胸の高まりは、今まさに目の前で行われている出来事によって、いとも簡単に塗り潰されていた。

「レイくん、レイくん! 今度ここ、行ってみない?」

「……動物園? 何でまた?」

「知らないの? 最近、パンダの赤ちゃんが公開されてるんだよ? これはもう見とかないとね!」

 太陽のように明るい笑顔で、その女性は彼に雑誌を見せる。無邪気で可愛らしい仕草を愛しむかのように、その傍らにいる青年もぎこちなくも微笑みを浮かべていた。私が知らない表情。それを見た時、私は二人の関係を唐突に悟った。

 ハンマーで頭を殴られたかのような、精神的衝撃が私を襲った。

 多分そういう関係になったのは、きっとごく最近だろう。近頃は道端や電車で彼を見かける時、何だかいつもより明るい? と、思っていたのだ。だけど……。だけど、これが原因だったとは思わなかった。

 心の中を、黒くて、生暖かい。ドロドロしたものがゆっくりと満たしていく。

 その正体が分からぬまま、私は踵を返し、その場を逃げ出した。彼はそのまま、太陽のような女性を見つめていた。私に気づく様子を欠片も匂わせることなく。いつまでも。


 家に帰った私は、そのまま部屋に閉じ籠った。何やら教授などと呼ばれているお客さんが来ていたようだが、私には関係がなかった。私へのお客さんなんて、この家にはいないのだから。

 そもそも、こうして部屋に立て籠った所で、誰一人気に止める人などいない。精々、今日は調子が悪いから晩御飯は要らないのね。と、勝手に解釈されるだけだろう。

 ベッドに身体を投げ出したまま、私は枕を抱き締める。徐々に枕が湿っていくのは、私が泣いているからだと気がついた。

 ああ、私は多分、彼が好きだったのだ。

 自分に似てるから、追いかけた。けど、話しかける勇気は無くて。見ているだけでよくて。気がつけば、取られてしまった。

 今にして思えば、なんて子どもっぽいというか、衝動的で一方的な恋慕ではないか。おまけにストーカー一歩手前ときた。最悪だ。

 寝返りをうち、枕を胸に抱き締めながら仰向けになる。考えるのは、やっぱり彼の事。

 彼はきっと、これから彼女を愛しげに撫で、抱き締め、口づけを交わすのだろう。出来うる限りの精一杯の愛情を向けるに違いない。そう思ったら、ますます涙が込み上げてきた。

 目から溢れる雫が、幾度も頬を伝い落ちる。その軌跡をなぞるように、私は頬に、そこから口元へと指を這わせた。

 個人的分析になるが、唇と舌が私の性感帯だと思う。普通のキスは愚か、恋人達が交わす深いキスだって体験したことはないけど。

 まるで一人遊びをするかのように、唇を弄る。舌先で指先を舐めると、ゾクリとした電撃が走った。

 彼と……出来たら。私はどうなってしまうのだろう。考えるだけ虚しいと分かっていても、そう考えずにはいられない。歪む視界に気づき、再び枕で顔を覆う。

 頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 せめて……夢で逢えますように。そんな淡い期待を抱きながら、私は無理矢理眠りの世界へと入り込む。


 残念ながら、夢は見れなかった。でも、かわりと言うのも変な話だが、私は不思議な体験をした。

 深夜。家族みんなが寝静まった、静寂の中。私は不意に響いた、カサリという物音で、微睡みから現実に引き戻されたのだ。


 ※


 今日は僕が作ろう。

 日が沈み、辺りが暗くなりかけてきた頃、ルイがそう提案した。あまりにも突然そんなことを言い出したので、僕がポカンとした顔でルイを見ていると、ルイは夕食をだよ。と、笑いながら言った。

「なんでまた急に?」

「……この際だからはっきり言おうか」

 ルイは額に手を当てながら、大きく深呼吸をする。

「……そろそろ、こってりした物が食べたいんだよ」

「はい?」

 いきなり何を言い出すんだこいつは?

 話の流れがいまいち掴めない僕は、思わず首を傾げる。すると、ルイは僕に生暖かい視線を向けた。……こいつがこんな恨みがましい表情をするなんて珍しいな。

「だってさ! 君の出す食事、ことごとくあっさりしたものばかりじゃないか! 蕎麦、うどん、素麺の悪夢のようなループ! たまに御飯と味噌汁が出るけどさ。おかずに至ってはサラダが二品か、おひたしと冷奴! 君はアレかい? お坊さんでも目指してるのか?」

「精進料理はもっと質素だよ」

 僕のそっけない態度に、ルイは頭をかきむしる。

「質素はいいことかもしれないけどね。でも、たまには贅沢しようよ! 朝食は毎日トースト! 甚だしい時は、夜にまでトーストが出るじゃないか! そろそろトーストがゲシュタルト崩壊しそうだよ! お願いだ! 今日は僕に作らせてよ!」

 ルイは懇願を通り越して、もはや哀願の域まで達している。普段の飄々とした態度は何処へ行ってしまったのだろうか?

「わかったよ。そこまで言うなら作ってくれ。でも冷蔵庫には何もないよ?」

「大丈夫。ちゃんと買ってくるよ。材料費も僕が持とう」

 そう言いながら、ルイは鼻唄を鳴らしながら部屋を出ていく。ドアが閉まり鍵を回す音が耳に届いた。

「当たり前のように鍵を持っていったな……」

 それを容認する僕も僕だけど。

 溜め息まじりに部屋を見渡す。静かだ。人一人いないだけでこんなに違うのか。

 久しぶりとなる一人の時間。いや、正確には一人ではないが。

「……そろそろ降りてくれないかなぁ?」

 もう一つの存在に声をかける。僕の膝の上に腰掛け、身を預けてくる怪物。吸血やら色々したお陰で、何処かご満悦……の、ように見える。

「地球生まれの地球外生命体、か……」

 もうどうにでもなれと、胸板に頬擦りしてくる怪物を無視して、僕は頭の中を整理する。

 結局、話を最後まで聞きそびれてしまった。

 教授はあの後どうなり、拾われた怪物はどうなったのだろう? おかしくなった教授の妻の行く末は……?

「死んだんだよな……多分」

 怪物を知るもので生存しているのは、僕を含めてルイと唐沢汐里の三人のみ。京子も含めるなら四人だろうか?

 ルイが言ったことが真実ならばそうなる。

 教授はどうして死んだのか? ルイの言う〝彼女〟が怪物の祖ならば、僕の目の前にいる怪物はどこで生まれたのだろう?

「……こってりしたもの、か」

 頭が混乱しそうになったので、一旦考えるのをやめ、今日の夕食を思い浮かべる。ルイがこの後作るであろう物を色々想像し、僕は思わず苦笑いを浮かべた。

 言われてみれば、最近は知らず知らずのうちに、あっさりしたものしか食べていなかった気がする。でも、僕だって好きでそんなものばかり食べている訳ではない。

「何の味もしないんだから……仕方がないじゃないか」

 いつからかは覚えていない。でも、多分引き金は目の前で初めて死体を見た時か、純也の死に直面してからだったと思う。徐々に、ゆっくりと、味覚がおかしくなり、決定的になったのは、京子との一件があってからだ。

 肉類が少し苦手になったばかりか、どんな食べ物も薄味にしか感じなくなってしまったのだ。

 勿論、病院にも行ってきた。が、特に異常なし。健康体そのものと診断され、挙げ句「最近強いストレスとかを感じませんでしたか?」とも聞かれる始末。心当たりが有りすぎて多すぎて、もうどうにもならなかった。

 以来、僕にとって食は生きる為の作業と化してしまった。だから、せっかく料理を作って貰っても、十二分に味わう事は不可能だろう。僕は、それが少しだけ申し訳なくて、複雑だった。それともう一つ。

「肉は……ちょっと勘弁して欲しいなぁ……」

 こってりしたもの。これの意味するメニューに嫌な予感しかしない。やっぱり肉は食べれる気がしなかった。

 げんなりした顔になっていることを自覚しつつ、僕はルイの帰りを待った。


 ※


「メインはハンバーグのバジルソース仕立てだよ。おかずはポテトサラダに、トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。汁物に特製オニオンスープさ。さぁ、召し上がれ」

 にこやかに両手を広げ、料理の紹介をするルイ。目の前で焼きたての濃厚な香りを漂わせるハンバーグに、僕は一周回って笑顔を浮かべる事しか出来なかった。 美味しそうだ。多分見かけ倒しではなく、味も一級品に違いない。でも、肉嫌だなぁなんて思った数時間後に、こんなにガッツリとした肉料理が出てくるなんて出来すぎではないか? 神様は僕に恨みでもあるのか?

「まずはトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼを味わってくれたまえ。その後にハンバーグだ。オリーブオイルとバジルソースの絶妙なハーモニーが味わえるよ」

「そ、そうなんだ。じ、じゃあ頂くよ」

 味は限りなく薄く感じる筈だ。肉ではなく豆腐だと思いながら食べよう。

 作ってくれたルイにもの凄く失礼な事を考えながら、僕はトマトとモッツァレラチーズを口にする。

「……え?」

 その瞬間、思いがけない出来事が起こった。味が……ある!

 トマトのフレッシュな口当たりが、モッツァレラチーズのさっぱりとした味わいに支えられ、濃厚なオリーブオイルによってまろやかさが添えられていた。要は――。

「お、美味しい!」

 続けてハンバーグ。目を閉じ、口の中で蕩けるような上質な食感に酔しれる。バジルソースがこれまた素晴らしいアクセントになっていた。

 久方ぶりの食材の味わいに、僕は肉への苦手意識も忘れ、次々と料理を口に放りこむように咀嚼する。

 ポテトサラダも、スープもちゃんと味があった。食事をしている! と感じたのはどれくらいぶりだろうか?

「喜んでもらえて嬉しいよ。もっとも――」

 テーブルの向こう側で、にこやかな表情を見せながら、ルイは僕の背後に視線を向ける。

「その子はどうも、嫌いなニオイらしいね」

 後ろを見ると、怪物はベッドの隅っこで、壁にもたれるようにして座っていた。恨みがましい視線が僕に向けられている。

 普段のこいつなら、初めて見るものには興味を示すのに、随分な反応だ。

「嗅覚も……そりゃあ、あるよね」

「うん、地球外とはいえ、生きてるもの」

 僕の言葉に、ルイが頷く。こいつにも嫌いなものってあったんだな。

「妙な話だ。怪物は食べ物なんか食べないのに」

「確かにね。でも、創作上の吸血鬼だって、ニンニクが苦手だよ? 僕が今日読んでいた、『女吸血鬼カーミラ』だって、ホットチョコレートを飲んでたしね」

「……それは物語の話だろう?」

 ハンバーグが苦手な怪物。というのも、なんだか三流のSF小説みたいだけど、ここでは閉口しておく。

「猫だってマタタビでトリップする。普段口にしないものでも、その生物に影響を与えてしまうものだってあるんだよ。勿論、食物に限った話ではない。その生物の弱点だったり、本能行動。それは時として、その生物のライフスタイルにはまるで関係ないものがそうだったりするんだよ」

「……怪物にもそれがあると?」

 僕が神妙な顔で問うと、ルイは曖昧な笑みを浮かべる。

「目的や弱点がない生物は、この世に存在しないよ。百獣の王と呼ばれるライオンは、生きるために狩りをし、自分の子孫を残すべく、同属の子どもすら噛み殺す。野生の世界で生きるため、体も強靭に出来ている。でも、そんな彼らも、猟銃の前では無力だ。では、その猟銃が使える人間が無敵かと言われれば、そうでもない」

 ハンバーグをナイフで切り分けながら、ルイは僕を見つめる。相変わらずのアルカイックスマイルは健在だ。

「地球外生命体であるその子も、例外ではないよ。ちゃんと目的があって行動し、苦手なものや弱点もある」

「怪物の……目的」

 気がつくと、手にじっとりと汗が滲んでいる。ルイは、やはり怪物の目的を知っているのだろうか?

 僕の視線に気づいたのか、曖昧な笑みを浮かべる。

「女吸血鬼カーミラは、夜な夜なとある娘の血を吸っていたけど、過去の犠牲者のように、殺すことはしなかったそうだ。それどころか、自分の姿を積極的に見せていたんだよ。カーミラが退治された後、襲われたその娘は、カーミラの姿を無意識に求めたそうだ。さて、カーミラは一体、何がしたかったのだろうね?」

 ルイの血色の瞳が、不自然に揺れていた。

 感情は読めないが、少なくとも明るいものではなさそうだ。

「フランケンシュタインの怪物は、自分の創造主に、自分の伴侶を作ってくれるように要求した。しかし、その要求は却下され、怪物は報復とばかりに主の家族や知人を殺して行く。敵対した彼らの憎しみの連鎖は、主の死によって終止符が打たれたんだ。すると怪物は、創造主の死に直面したすぐ後に、自らの命を断ちに行った。フランケンシュタインの名前のない怪物。彼が求めていたのは、果たして伴侶だけだったのだろうか?」

 うなじのあたりが、ピンと張っているかのような錯覚を覚える。何だか頭が痛くなってきた。

 ルイは、何故こんな話をするのだろう?

「物語のキャラクターと、この怪物は違う。そう言っていたのは君だぞ?」

「君が〝怪物〟という単語を使うから、身近な怪物が出てくる物語の中から、例を挙げたのさ」

 非難するような僕の言葉に、ルイはしれっと答える。要領が掴めない僕に対して、ルイは指をパチン! と鳴らした。芝居がかった仕草だ。

「さて、それを踏まえた上で考えてみよう。その子も君から見れば怪物なんだよね? 最初は君に恐怖を与える姿で。次は、君を魅了する姿で現れた。どうしてだと思う?」

「どうしてって……」

 そんなもの、何度も考えた。

 頭を捻り、迷い、結局袋小路に追い込まれる。怪物が言葉を話さないというのもあり、僕にはこいつの目的がまるで見えない。

 どうして、僕なんだ?

 どうして、米原侑子の姿をしている?

「その子が、その姿なのにも、れっきとした理由があるんだ。どうして君の血しか飲みたがらないのかもね」

「何か理由があるのは分かってるんだ。けど、それがまるで見えてこないんだから、どうしようもないじゃないか」

 僕の反論に、ルイはそれもそうか。と、肩を竦める。つくづく僕を焦らすのが好きなやつだ。

「じゃあ、さっきの教授の話の続きをすると同時に、どうしてその子が米原侑子の姿をしているのか。その推測もしようか。長い話になるけど、構わないかい?」

「……推測なのかい?」

「仕方ないよ。僕が君とその子を見つけた時は、既にその姿だったんだ。だから、そこばかりは推測に頼るしかない」

 僕が不審げな表情をしたのを見て取ったのか、ルイは慌て両手を振ると、そのままポケットをまさぐる。取り出されたのは車の鍵だった。

「とりあえず、ドライブといこうか?」

「待て待て待て待て待てぇ!」

 ニッと人懐っこい笑みを浮かべるルイに、僕は全力で制止をかける。

 色々な疑問が湯水のように溢れてくる。が、一番の問題は……。

「く、車なんて何処に隠していたんだよ!?」

 その一点に尽きた。

「ああ、後々必要になるからね。ここに置いてもらう前に、駐車場を借りて、そこに隠しておいたんだ。今はマンションの前に停めてあるよ? 買い物に時間がかかったのは、車も取りに行ってたからさ」

 なんてことないように話すルイに、僕は唖然とするしかなかった。

「もしかして、元々ドライブ行くつもりだったり?」

「当たりだよ。今夜はその子について、とことん話し尽くそうか」

 楽しげに宣うルイ。物凄く重要な話題なのに、ルイが話すと軽い印象になるのだから不思議だ。

 こいつの性格の為せる技か、僕がこいつに順応しているからなのかは、いまいち分からない。だけど。

「……安全運転で頼むよ」

「勿論だ」

 こんなチャンスを逃す手はない。せっかく語ると言ってくれているのだ。僕が納得するまでとことん情報を受けとることにしよう。

 高鳴る心臓を押さえ込み、僕は残りの料理を完食する。

「ご馳走様」

「お粗末様。お皿はどうする?」

「勿論、洗ってから行くさ」

 僕はそう答えながら、ゆっくりと立ち上がり……。


「え?」


 その瞬間、景色が一変した。辺りが馬鹿みたいに明るくなり、目の前を青い火花が散っている。

 耳鳴りと一緒に、大量の冷や汗が全身から吹き出した。

「レイ君? どうしたんだい?」

 僕の異変に気がついたのか、怪訝な顔を見せるルイ。だが、僕はその言葉に反応することは出来なかった。

 身体が……動かない。

 一瞬、怪物による身体所有権の剥奪が行使されたのかとも思ったが、すぐにそれを否定する。アイツの能力は、あくまでも身体を操るだけだ。意識を弱めたりするものではない筈だ。

 明るかった視界が、一転して暗くなる。耳なりに似た奇妙な響きが頭の中で反響し、続けて全身からゆっくりと力が抜けていくのがわかった。

 これ……貧、血?

 なったのは何年ぶりだろうか? もしや怪物に血を吸われ過ぎた? だとしても、何で今更……。

「レ、レイ君!? おい! レイ君!」

 慌てたようなルイの声がずいぶんと遠くに感じられた。

 お前、そんな声出せたんだな。僕の意識が完全に闇へと落ちていく直前に覚えたのは、そんな場違いな感慨だった。


 ※


 重力に従って倒れる青年。それを受け止めた明星ルイは、その青年がしっかり呼吸をしている事を確認し、一先ず安堵する。

 タイミングは完璧だった。自分の〝慌てたような演技〟も、しっかり青年の意識に焼き付いた事だろう。ルイはそう思いながら、ゆっくり青年を床に寝かせた。

 これで青年が、自分の意識の昏倒は貧血か何かだと思ってくれれば御の字だ。少なからず、ルイが原因ではないと考えてくれれば、それでいい。

 これからの事を考えると、ルイはこの青年と余計な軋轢は生み出したくなかった。

「……時が来たか」

 虚空を見つめながら、ルイは哀しげに呟く。

 その後のルイの行動は早かった。部屋をざっと見渡し、まずはレイの財布を持ち主のポケットに忍ばせると、続けてクローゼットを物色する。

 目的の物はすぐに見つかった。暖かそうなコートと、恐らく外出用であろう、シンプルなデザインのショルダーバッグ。上着はレイを起こさないようにそっと身体にかけ、ルイはバッグを手に部屋の天井を見た。

 視線の先には、張り巡らされた蜘蛛の巣のと、その中にある、血の塊で出来た繭だ。ルイは、その繭を数個拝借し、鞄に詰めた。

 すると、突然ルイの背後でベッドが軋む音がした。

 予想していた。と、言いたげな顔でルイが振り返ると、すぐ後ろには黒衣の少女が佇んでいた。

 少女。確かに見た目はそうだ。だが、その右手は異様な形状に様変わりしていた。

 黒い節足のような、不気味な鉤爪のついた手。床に倒れているレイがそれを見たら、いつかの〝脚〟を思い浮かべて絶句することだろう。

 少女の右手は、まさに怪物の手だった。

 無機質な黒い瞳が、レイを、続けて、ルイの手にあるショルダーバッグを交互に見つめている。なにやら不満げなその表情の少女に対して、ルイはどことなく哀しげに首を横に振る。

「大丈夫。取らないよ。ただ、恐らく必要になると思う。だから、これは彼に持たせるよ。ほら」

 ルイはそういいながら、ショルダーバッグをレイのお腹の上に乗せる。少女は、暫くの間レイとバッグを凝視し、やがて、右手をそっと一振りする。その瞬間、さっきまで黒い鉤爪状になっていた右手は、元の白い少女のものになる。それを見たルイは、再び安堵したように息をついた。

 繭がルイからレイの近くに行ったことで、盗人の嫌疑は晴れたらしい。

 ルイはそのままレイの後ろ首と膝裏に腕を入れ、慎重に抱え上げると、横目で少女を窺う。少女の眼差しは、相変わらずレイに向けられていた。

 どこまでもブレることのない少女に、ルイはもう一度、いつものアルカイックスマイルではない、優しげな笑みを浮かべる。

「おいで。レイ君も連れてドライブに行こう。こんな機会は多分二度とないだろうしね」

 そう言いながら、ルイは歩き出すと、リビングの出口ですぐに静止した。

 部屋全体をもう一度見回す。テレビ、ベッド、スタンドライトにテーブル。大きめな本棚と、コーヒーセット。蜘蛛の巣の天井。そして、そこに佇む黒衣の少女。

 簡素ながらも、エキゾチック。ルイは、そんなこの部屋が嫌いではなかった。それは、曲がりなりにも二週間近くここに滞在したからかもしれないが。

 意識を失っているレイを、ルイは複雑そうな顔で見つめる。

 彼が――。レイがこの部屋に帰ってくることは、恐らくもうないだろう。あったとしても、それは多分、何もかもが終わった後だ。そう思うと、ルイの胸中にツンとしたものが込み上げる。

 自分はこれからも、彼を欺き続けなくてはいけない。その現実に。


「ごめんよ。レイ君。僕は君の敵ではない。でも、完全な味方とも言いきれないんだ」


 本当に、自分は中途半端な存在だからと自嘲しながら、ルイは歩き出す。後ろから続く、もう一人の足音を感じながら。


「自分勝手なのは知っている。それでも、僕は僕の目的を成し遂げる」


 それは、もしかしたら全てを抹消する道となるかもしれない。そう分かっていても、ルイは立ち止まるつもりなど微塵もなかった。



 ※



「……何をなさっているのですか?」

 薄暗い病棟の中、車椅子に座った女、唐沢汐里は呆れたような声を漏らした。

「何ってほら、創作活動よ」

 あっけらかんとして答える茶髪の女性、山城京子。その正面のテーブルには、見るのもおぞましいものが安置されていた。

「料理って、ある意味で身近な芸術だと思うのよね。だから、作ってみました!」

「……題名(タイトル)は?」

「誕生日ケーキならぬ、『絶命日ケーキ』よ」

 満面の笑みで、京子は〝作品〟をお披露目する。

 のっぺりとした円形に、蝋燭が数本立てられている。見た目は少し小さい、ホールのチーズケーキに見える。但し……。

「脳ですか? これは?」

「当たり! 凄いわ! 闇医者さんから死体を貰ったの。欲しいって頼んだら、あっさり譲ってくれたのよ」

 ケーキをモチーフにしたその作品は、材料や、トッピングが問題だった。生地は恐らくミンチにしてから固めたのであろう、人間の脳。死を祝う文字は、チョコシロップではなく、血で描かれていた。側面には、輪切りにした指がイチゴのように埋め込まれている。

「えげつない発想ですね」

「今思えば、脳味噌で味噌汁ってのもアリだったかもしれないわ。ところで、どうしたの? 言いつけ通り、蜘蛛なら見つけ次第殺してるけど?」

「それは、結構です。ですが……」

 汐里は赤い缶を取り出す。見た目はガスボンベを短くしたような物体だった。汐里はそれを慎重に床に設置すると、京子に部屋を出るように合図した。

 煙が病室を満たし、二人が脱出した廊下にまで進出してくる。京子はその様子を見ながら眉を潜めた。

「あれ、部屋で焚く殺虫剤よね? 蜘蛛が嫌いなのはわかるけど、そこまで徹底する?」

「生憎、ただの蜘蛛ではないから苦労しているんですよ」

 京子の問いかけに、汐里はやれやれというジェスチャーで返す。煙が収まり、二人は再び病室に戻る。床には何体かの蜘蛛の死体が転がっているが、京子も汐里もたいして気にした様子はない。

「さて。京子さん。さっそくですが、ついにこの時が来ました」

 汐里の言葉に、京子は興奮気味に息を飲む。

「じゃあ、ようやく始めるのね? 怪物狩りを」

 待ちわびたわ。と、京子は落ち着かない様子で指の骨を鳴らす。

「ええ、私が教えた怪物の能力は頭に入ってますか?」

「勿論よ。対怪物用の武器もちゃんと作ってあるわ。でも……」

 京子は病室の棚まで歩き、そっと中にあったものを取り出す。

「本当に、こんなものでアイツを殺せるの?」

「論より証拠。騙されたと思って使ってみてください。効果は折り紙つきです」

 そう言った汐里は、そっと車椅子を反転させる。

「では、私も準備するので、貴方も外出の支度をして下さいな。一時間後に、玄関に集合しましょう」

「二時間後にして欲しいわ」

 京子の要求に、汐里は少し面食らったように振り返る。虚ろな瞳には、珍しく困惑の色が見て取れた。

「おや、そんなに時間が必要ですか?」

 首を傾げる汐里に、京子は恥じらうような仕草を見せる。

「ええ、だってレイ君に会いに行くんでしょう? だったら、シャワーくらい浴びたいの」

 言葉だけを見るなら、なんとも意地らしい乙女のような言い分だ。だが。

「確かに、血と脳漿にまみれたその姿は、頂けないですね」

 今の京子は、乙女というにはあまりにも穢れきった出で立ちだった。

 汐里は溜め息をつきながら、車椅子のブレーキをかけ、床に固定する。

「二時間後といわず、しっかり準備してから行きましょうか。女の身支度は時間が掛かるものです。それに――」

 汐里の行動に、京子は驚いたかのように口笛を鳴らした。

「あら、おめでとう。と、言うべきかしら?」

 京子の茶化すような言葉に、汐里もまた、おどけたような表情を見せる。


「私もようやく、補助なしでシャワーが浴びれますし……。全快祝いに、髪でも染めていきましょうかね」


 不気味な笑みを顔にはりつけたまま、〝汐里は車椅子から立ち上がった〟

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