46.恐怖か歓喜か
ルックスはよくも悪くも普通。中の上という表現が、一番しっくりくるかもしれない。服装も無難なもの。アクセサリーを身に着けているとか、そういった主張性と言うべきものが希薄な印象だ。
ただ一つ。特筆すべき点といえば、その暗い光をたたえた目と、なにもかもを諦めたかのような、気だるげな雰囲気だ。生気があるようなないような。そこにいるのか、いないのか。その有り様は、さながら幽霊のようだった。
考えても考えても、私は何故その青年が気にかかるようになったのかは思い出せない。ただ、私と同じ。あるいは、それ以上に寂しげな空気を纏う彼に、恐らく私はシンパシーのようなものを感じていたのだろう。
――最初の出会いは電車の中。ある時は駅のホームで。またある時は帰りの通学路で。私は無意識のうちに、彼を目で追っていた。
彼を見つめる私の視線に、本人はきっと気づいてはいないだろう。彼が何かに関心を向けるのは、決まって電車の窓から広がる景色。あるいは、電車の中や駅のホームで集まる学生の集団。それを遠くから眺める時位のものだった。羨ましいものを見るような、懐かしいものを見るような。そんな表情のまま、彼は今日も独り。人混みの中を縫うように歩く。決められたプログラムを忠実に実行する、ロボットや人形のように。――私と同じだ。
世の中を探せば、私と同じような状況にたたされている人間など、ごまんといるだろう。下手したら私の辛さなんて、芥子粒も同然に思える人生を送っている人だっているかもしれない。
だから、別に不幸自慢をしたい訳じゃないし、誰かと比較し合いたい訳でもない。ただ、はっきりと本音を言えば、私はそうだと分かっていても、どうしようもなく淋しかった。孤独だったのだ。
辛いだけの学院。居場所のない家。そんな状況の中で私がすがったのは、名前も知らない青年。その観察だった。
月日を追うごとに、彼について知ることが多くなる。学院の帰りに、土曜などの休日に。私はフラリと出掛けては彼の姿を、影を追う。
鷹匠大学。私の学院から意外と近い大学に通っていること。
私の最寄り駅から、二駅しか離れていない所に住んでいること。
友人と呼べそうな人が殆どいない。
多分お気に入りなのであろう、とあるカフェで、彼はよくコーヒーを飲む。その時がなんだか一番幸せそう。
電車の中で見せる、何気ない癖。
パン食派。
マンションの角部屋に住んでいる。……等々。
私だけが知っている、彼の事。
これはもしかしなくても、ストーカーというやつではなかろうか。と、懸念したが、今のところ私は過激な事なんてしていない。だから大丈夫だと、自分を納得させた。
そうこうしているうちに、彼を見つめ続けて、早くも数ヵ月が過ぎた頃。
お話ししてみたい。そんな気持ちが、私の中に芽生え始めた。だけど、あろうことかさんざん彼を追いかけているにも拘わらず、私にはどうしても、その勇気が沸かなかった。
手紙を書いてみようか。私も常連になりつつある、彼のお気に入りのカフェで、コーヒーを溢してみようか。そんな不毛な策が頭に浮かんでは消えを繰り返す。そんな悶々とした日々が続いていった。
まるでぬかるみで地団駄を踏んでいるかのようなもどかしさ。この気持ちは何なのか、その時の私は知るよしもなかった。近いうちにあっさりと正体を悟ることになるとは思いもせず、私はその浮遊するような、舞い上がるような心に戸惑っていたのだ。
彼の表情におとされていた、暗い陰。それが払拭されている事に気がついた、あの日まで。
※
地球生まれの地球外生命体。
その単語の示す意味を、僕はもう一度頭の中で噛み砕くように思い浮かべる。
「どういう……ことだい?」
だが、結局は完全に理解するまでに及ばず、僕はルイに聞き返す事になった。もしやと思って口にした質問が、まさか正解に限りなく近いものだとは思わなかったのだ。
「そのままの意味さ。その子の種としての起源は地球の外だけど、その子自体は地球で生まれた。常識外れな面があったり、地球上の生物ではあり得ない力を持っているのもその為さ」
ルイはそう言いながら、怪物に視線を向ける。
「これは聞いた情報だけど、今から数年前。とある大学教授が、その子の祖である、地球外生命体を発見したんだ」
大学教授。その単語に僕は引っ掛かるものを覚えた。ごく最近、そんな単語を何処かで目にした気がする。……いつだっただろうか?
そんな違和感を意に介さないかのように、ルイの話は続く。
「最初はそんな事に気がつくことなく、新種の蜘蛛だと思っていたそうだ。教授は非常に喜びながら、意気揚々と〝彼女〟を自宅に持ち帰った。それがその後の人生を、大きく変えるものとは知らずにね」
ルイはため息をつきながら、静かに目を閉じた。
「自宅に〝彼女〟を連れ帰った教授は、早速研究を開始した。まとまった研究結果が出るまでは、発表は控えようとしたらしい。新種だって発表して、既存の種の亜種だったりしたら、赤っ恥ものだからね」
亜種を発見するだけでも凄いんだけどね。と、ルイは付け足す。
「ところが、調べれば調べるほど、その蜘蛛は既存の種のどれにも一致しなかった。いや、それ以上に驚くべきは、その生物が蜘蛛であるかどうかですら怪しくなってきたという事だ。そこにいるのは、形こそは蜘蛛。でも、その正体は謎。そんな生物だった」
僕もルイに習って怪物の方を見る。二人分の視線を受けているというのに、当の怪物は呑気なものだ。
寝転んでいた体勢から、怪物はゆっくり起き上がり、膝を抱えるようにして座る。漆黒の無機質な瞳が僕を捕らえ、僕と怪物の視線が交差する。
「そんな中で、教授はますます興奮していた。自分は、新たな種の可能性を見つけたに違いない。とね。さっそく他のサンプルを求めて、〝彼女〟を発見した場所に戻った教授は、生物の捜索に取り掛かった。……と、ここまでで質問はあるかい?」
僕が目を白黒させているのを察したのか、ルイはこちらに向き直りながら問いかける。真紅の目は、真意が読みにくい。この話が本当の事かどうかでさえ。一応本人は語るときは真実を語ると言ってはいた。だからそこは信用しよう。その為の二週間だ。ルイが僕の人柄を確かめていたように、僕もルイを見ていたのだ。
……気になることはある。
彼が語ることが真実だとしたら、どうしても分からない点が一つ。
「その教授さんが見つけたのが、こいつの祖? だというのは分かったよ。けど、祖ってことは、こいつと殆ど同じなんだろう? だとしたら…… 」
ルイの言う〝彼女〟が怪物なら、あり得ない事がある。
「その人、どうやって怪物を見つけたんだ? どうやって持ち帰ったのさ?」
怪物は何故だか人目を避けるようにその姿をくらます。ルイという謎の例外もあるが、基本的に知らない人間の前では、消失する能力で身を隠す。そう考えると、その出会いはおかしいではないか。
僕の主張に、ルイはクスクスと愉快そうに笑う。
「何を言ってるんだい?」
悪意も何もなく、純粋に面白くて堪らないというかのように、ルイは笑う。
「君も最初に出会っている筈だ。人の姿になる前のその子とね」
「……え?」
ルイのその一言に、僕は思わず身体を強張らせる。
「君はその子に恐怖したが、教授は〝彼女〟を見て歓喜した。違いはそれだけの事だったのさ」
身体が震えた。
「嘘、だろ?」
乾いた喉が、何とか声を絞り出す。アレを見て、歓喜した? 僕がこいつに辛うじて歩み寄れたのは、色々――。紆余曲折あった末に出来た事だったのに。
「勿論、レイ君と教授が見たものが、〝同じ大きさ〟だったとは限らない。片や生まれたての個体。もう片方は、ある程度成熟した個体。知能の差もあっただろうしね」
「知能……あるのかい?」
「ある程度は。と、推測されていたよ。外敵かどうかを判断したり、極力人間と接触するのは避ける……とか」
他にも挙げられる点はあるけど、これはもう、立派な知恵だ。と、ルイは頷いた。
「君はよく、その子を俗にいうお姫様抱っこで運ぶけど、教授は彼女をケージに入れ、自宅へ持ち帰った。発見したのは私有地の中だったらしいから、他の人に見られることもなかっただろう。ケージの中の〝彼女〟も、姿をごまかす必要はなかったというわけだ」
僕と、その教授が同じ……。その事実にうすら寒いものを感じながら、僕はルイに先を促す。
「話を戻そうか。教授が別の個体を探しに行った。だけど、教授の努力も虚しく、〝彼女〟と同じ個体は見つからなかった」
首を横に振るルイ。それと同時に、僕の背後で、何かが起き上がる気配がした。
「教授は仕方なく、〝彼女〟のみを観察することにしたんだ。だけど……そんな時、奇妙な出来事が起きた」
背後の気配は、ベッドが軋むような音と共に
静かに僕の背中にもたれ掛かった。甘い香りと、びっくりするくらい柔らかい感触が僕を包み込む。
怪物の日課。僕への吸血行為。
無意識に身体が小刻みに揺れ動くのを感じた。恐怖だろうか? 今更だ。だけど、怪物の出生が語られている今、妙に落ち着かない気持ちになっているのは事実だ。
どのみち逃げることは叶わない。だけど、今日のその行為は、快楽と酩酊感の狭間に、少しの不安を伴うものだった。
ゾブリと、僕の首筋に突き立てられた何らかの器官。僕が補食され、飲み下される。
その様子を、ルイは表情一つ変えずに、黙って見つめていた。
なんだろう……今日は、吸われるのも、注ぎ込まれるのも、いつもより長い気がする。
僕の視界で、青い火花のようなものが明滅し始める。うなじが冷たくなり、首と肩の筋肉が固く強張る。まるで、身体に一本の鉄心を入れられたかのようだった。
「……話、聞けそうかい?」
「なんとか……ね」
首を傾げながら言うルイに、返事をする。吸血行為は気がつけば終わっていた。だというのに、首筋は未だに怪物の舌が行ったり来たりを繰返し、思わず身体が跳ね上がる。
「切らないでくれ。ここで休憩したら、また次に話してくれるまでに何日もかかる気がする」
「流石にそんなことはしないさ」
僕の物言いに、ルイが破顔する。
「奇妙な出来事を話す前に、教授の家族構成を教えよう。両親は既に他界。妻と二人暮らしだったらしいけど、息子や娘には恵まれなかったらしい。まぁ、教授が研究にばかり没頭していた。というのもあるんだけどね」
「二人……暮らし?」
苦笑いを浮かべながら語るルイを見つめ、僕はかすれた声をあげる。
怪物がいるなかで、二人で暮らす。それも夫婦で。僕は、話の全貌を聞いてもいないのに、悲劇の香りが濃厚になっているような気がした。何故か茶髪にメスを握った女性の姿が、一瞬ちらつき、僕の腕に鳥肌が立つ。
「うん、君が何に怯えているかはわからないけど、頭で考えている事は大体わかる。話を続けよう。教授が〝彼女〟を連れてきてから、明らかに妻の様子がおかしくなったそうだ」
不意にお腹の辺り――。京子に刺された部位がジクジクと疼いた。傷はもう塞がっている筈なのに。
「元々、夫婦仲は良くも悪くもなかったらしい。けどね。〝彼女〟が来てからというもの、妻は何故だか、頻繁に教授の研究室に入り浸るようになったそうだ。今まで教授の仕事や研究についての話は、聞き手に回るだけで、自らは興味を示さなかったというのにね」
首筋から、怪物の舌が離れる。身体が思わず弛緩した瞬間、怪物は素早く僕の目の前に移動した。ベッドに座る僕の膝元で、跨がるようにして対面する怪物。腕が僕の首に回され、怪物はそのまま、僕に身体を預けてきた。黒絹のように滑らかで、艶やかな黒髪が、頬を擽る。
「そんな中で、教授はもう一つの奇妙な事を発見した。今までなぜ気がつかなかったのか、不思議でたまらなかったらしい」
「も、勿体ぶらずに教えてくれよ」
上擦った声が僕の口から漏れる。怪物に耳朶を甘噛みされているせいだ。いつまた唇を塞がれるかわかったものではない。聞ける時に聞いておきたかった。
そんなはやる気持ちが抑え切れない僕とは対照的に、ルイはのんびりと話始める。
「妻がおかしくなってから数日後の事だった。ふと、教授は思ったそうだ」
血色の瞳孔が、僕と怪物を交互に映す。
「妻と、最後に〝会話〟をしたのはいつだっただろうか? とね」
暫くの間、僕は言葉も出なかった。
無言の女。気がつけばそこにいる。それはまるで……。
僕がルイの方を向こうとした瞬間、僕の両頬に手が添えられ、無理矢理上を向かされる。そこには見慣れた顔と、今も慣れない熱を帯びた少女の視線があった。
私を、見て。
こいつは言葉を発する訳ではない。でも何故だか、そんな風に言っている気がした。
バキン! という、脳髄に響く衝撃。それから行われる事は、もうわかっていた。怪物の顔が、僕に近づく。退廃的な雰囲気の中、僕と怪物の舌が絡み合う音だけが、部屋に響いていた。
その間、ルイは一言も話さなかった。怪物に乗し掛かられたお陰で、その表情すら見えなかった。
ただ――。
「……もう、時間がない」
テレビの雑音と、深い接吻による湿った淫らな音。それに混じって、どこか焦燥に満ちた、消え入りそうな小さな声が聞こえたような気がした。




