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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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43.血の芸術家の帰還≪前編≫

 山城京子が目を開けると、そこは暗闇だった。

 光すら差さない、完全な黒が視界を覆い尽くす。これでは目を開けても開けなくても変わらない。

 自分は……どうなった?

 朧気な記憶を手繰り寄せるように、京子はこうなった顛末を思い出す。

 悲鳴。命乞い。怒声。それらを踏みにじり、笑顔で目の前の材料にメスを入れる男。それを傍観に徹する自分。

 肉が裂かれ、血飛沫が飛び散る。骨が露になり、腹圧で飛び出る内臓を見た時は、飛び出す絵本みたいだと歓声をあげたものだ。

 そうだ。自分は……あの男と創作活動をしていた。

 材料をステンレスのタッパーに詰めて、冷蔵庫に保管する高揚感も。材料をミキサーにかけ、肉が液体へと変貌していく様を見た時に覚えた、性的絶頂にも似た快感も。文字通り人間を材料に人間を描く、隠しきれない興奮も。全部覚えている。

 だが、だとしたらこの暗闇はどういう事だろう?

 自分はあの時も、創作活動にいそしんでいた筈だ。

 価値観が最後のところで違っていた、もう一人の芸術家を贄に、自分はこれからも非日常を生きていく。その筈だった。なのに、何故自分はこんな所に囚われている? これでは、まるで――。

 嫌だ。嫌……。

 不意に襲いくる感情の波に、京子は身震いしようとする。が、身体は石になったかのように動かない。

 いや、イヤ。嫌だ! こんな所で終わりたくない。『人間』だって、まだ描き終わってない! 新しい発想は、まだまだ浮かんでくるのだ!

 自分が一体何をした? 

 自分が何故こんな目にあわねばならない?

 どうして? 誰のせいで?

 混乱し、錯綜する思考の果て。そこで京子は、〝彼〟と〝あいつ〟を見た。

 一人は腰ほどまで伸びる、艶やかな黒髪をなびかせるその少女は、まるで誘い、魅了するように〝彼〟へと手を延ばす。〝彼〟もまた、花に引き寄せられる蜜蜂の如く、フラフラとおぼつかない足取りで少女の元へ歩き出した。

 何で?

 少女と彼が抱きしめ合う。

 酷い。

 視線が絡み合い、情熱的なキスが始まる。

 やめて。

 傍に京子がいるのも構わず、少女と〝彼〟はお互いのことしか見えていないようだった。叫びたくても叫べない自分に、京子はどうしようもないほどのもどかしさを感じていた。

 その最中、不意に少女の横目が、京子を捉えた。

 セーラー服を着ているということは、恐らく自分より年下なのだろう。だというのに、京子を見据えるその流し目は、ゾッとするほどの色っぽさがあった。

 それを見た瞬間、京子の中で抑えつけられていた何かが音を立てて弾けた。

 まるで自分には無いものを見せつけられたようだから? 違う。

 〝彼〟が自分以外の女に夢中になっているから? それもある。が、それ以上に我慢ならないものがあった。

 〝あいつ〟は――。その少女は、京子を見て笑っていたのだ。

 ふざけるな……。

 眉間に皺を寄せながら、怒りの形相で京子はその少女を睨む。爆発するような感情を覚えた時、京子ははっきりと思い出した。

 この暗闇に自分を捕らえたのは、あの少女だと。


 その事を認識した途端、周りの世界が変質した。

 京子を覆う暗闇が、〝動いている〟いや、正確に言うならば、〝暗闇が京子の身体中を這い回っていた〟

 身体中にのし掛かり、口の中にまで入り込んで蠢いている暗闇。その正体も知っている。あの少女に操られた、何百、何千もの蜘蛛の群れだ。

 悲鳴は、漏らさなかった。否、漏らせなかった。

「うげっ、おがっ! ぐぅううぅ……!」

 口が塞がり、悲鳴をあげようとしてもあげられない。口の中に詰まった蜘蛛達は、モゾモゾと蠢き、京子は思わずむせかえる。

 舌の上を何匹もの蜘蛛がぎゅうぎゅう詰めな状態で、もがき続ける感触に、京子は吐き気がこみあげるのを必死で抑える。

 予感があった。このまま嘔吐すれば、自分は窒息する。と。

 覚醒と同時に舞い込んできた死の気配は、京子を容赦なく蹂躙する。

 だが、侵されているのは精神面のみではない。身体中に走る、チクリとした痛み。なんとなくわかる。自分は今、蜘蛛達に噛まれているのだ。下手すれば捕食されていると言っても過言ではない状況は、京子の肉体と精神をひたすら痛めつけていく。

 死の淵に立たされている事を理解しながら、京子の脳裏に浮かぶのは、やはり先ほど見た二人の姿だった。

 どうやったのかは知らない。だが、あの少女は糸のようなもので自分を拘束し、蜘蛛達に指示を出していた。存外まともじゃない。そして、そんなまともじゃない存在を、〝彼〟は当然のように受け入れていた。そう、京子が恋い焦がれた非日常。それをさらなる深い部分で体験していたのだ。

 ……許せない。

 沸き上がってきたのは、強烈な復讐心と、嫉妬だった。

 身体中は、蜘蛛に噛まれている。もう見るも無惨な、女として致命的な程に、醜い顔となっているだろう。自分をこんな姿にしたのは誰だ?

 自分以上に非日常を体現するその存在が、よりにもよって自分と非日常を共有し、隷属(れいぞく)させようとした〝彼〟をこんなにも虜にしている――泥棒猫。言うまでもない。〝あいつ〟の――。あの少女の他に誰がいるというのか。

 あまつさえ〝彼〟を奪われた挙げ句、下等な虫に陵辱される自分を、嘲笑うかのように見下してきた。何より、その存在に一時は恐怖し、自分は屈服しかけた。それは、京子にとって、紛れもない敗北だった。

 メラメラと燃え上がる感情。身体中を舐め回すように襲っていた不快感も、今は身を任せた激情の前で容易に掻き消されていた。

 さっきまで見えていた二人の姿は、もうない。だが、それでも、京子はそこにいない相手を呪うように、くぐもった呻きをあげた。

 おまえは、あたしから何もかも奪おうというのか? 誇りも、(しょゆうぶつ)も、自由すらも。

 そんな怨嗟(えんさ)の声をあげることすら、今は叶わない。この虫共が原因だ。

 邪魔。と思っても、京子の身体は思うように動かない。アトリエの壁に二度も叩きつけられたせいもある。だが、それ以前に、さっきまで気絶していたのだ。身体が痺れていても不思議ではないだろう。

 でも、そんなものは関係ない。今はただ、こいつらを押し退け、一刻も早く〝彼〟とあの少女の元へ走り、一思いに襲いかかりたかった。

 どうやって殺すかなんて陳腐な事は、今更考える必要もない。何せ、血の芸術家たる自分の脳にかかれば、湯水のように思い浮かんでくるのだから。


 あの少女を引き倒して、〝彼〟の目の前でめった刺しにしてやりたい。肋骨を叩き折り、臓物を引きずり出してやろう。〝彼〟の唾液を飲みこんだ胃は、中身を取り出して捨ててしまえばいい。

 あの雰囲気だ。〝彼〟を誘惑し、既にすることは済ませているかもしれない。先んじられた事は不快で癪だが、過ぎた事は仕方がない。だから、子宮を取り出したら、思いっきり踏みつけてやろう。その後で野良犬に喰わせてやるのも一興かもしれない。〝彼〟と愛し合った器官。もしかしたら、その愛の結晶を育む事になるかもしれなかった部位が、(けだもの)に消化され、糞尿となるだなんて、少女には最高級の辱しめとなることだろう。

 勿論、昔の女の存在を許容する。〝彼〟を従えるならば、そんな器の広さも必要だ。だから、〝彼〟にはプレゼントにマフラーを送ろう。少女の腸をまるごと使った、この世に二つとない芸術品。取り出したてならば、さぞ温かいに違いない。〝彼〟は喜んでくれるだろうか?

 残りの臓物は、またミキサーに掛けることにする。それで蜘蛛の絵でも描いてやれば、供養になるだろう。


 沸き上がるインスピレーション。非日常を生きる者として、自分はまだやりたいことが沢山ある。だからこそ、こんなところでとどまってはいられないのだ。

 自分をコケにし、全てを失わせんとしたあの憎らしい少女に。その誘惑に屈した不誠実な〝彼〟にも、より酷い仕打ちを――。


 結果的な話をすれば、蜘蛛達に蹂躙され、意識を刈り取られていた山城京子が完全に覚醒したのは、全くの偶然。ドラマチックな例えにするならば、神様の悪意が込められたいたずらとしか言えなかった。


 失われていた意識のなかで見た夢。そこで抱いた感情をそのままに目を覚ました京子は、自分に群がる蜘蛛に反撃を開始した。

 グチャリ。という音が比喩的ではなく本当に、京子の頭の中に直接響く。

 手足は上手く動かないが、唯一動かせて、なおかつ強い力が出せる部位。顎を動かしたのだ。

 口の中に広がる、苦いとも酸っぱいとも言える生き物の体液。噛み潰されて尚蠢く蜘蛛の死体を、京子は躊躇なく飲み込んだ。

 食道を生きた何かが下っていく感覚を味わいながら、再び口を抉じ開けて入り込んでくる蜘蛛を、京子は一心不乱に迎撃する。

 レイくん……。

 奥歯が柔らかいものを噛み潰し、潰れたトマトのように中身をぶちまける。喉の奥に張り付く体液も気にせず、京子は口内を侵す蜘蛛達を残らず飲み込んだ。

 レイくん……。

 ようやく痺れが取れた手足をめちゃくちゃに動かす。かかとが、腕が、手のひらが、もがき這いずり回る蜘蛛達をすり潰していく。身体中は、既にベトベトだが、京子は止まらない。

 待ってて。

 蜘蛛達が怯んでいるのがわかる。何匹かは京子の身体を離れ、逃走を開始していた。身体が嘘みたいに軽くなり、京子は仰向けの状態からついに身体を起き上がらせる。

 すぐに……傍に行くからね。

 まずは顔にこびりつく奴らだ。京子は己の顔に爪を立てる。口の中も鼻も、蜘蛛の体液で完全に感覚が麻痺していた。吐き気を越えたおぞましさの中で、京子は新鮮な酸素を求め、自らの顔を剥ぐように掻きむしった。下等な陵辱者達を捕らえ、握り潰し、放り投げる。何度もそれを繰り返し、ついに京子の目に光が射した。

「レェエイィくぅうううん!」

 地獄の底から這い上がるような声色で、山城京子は咆哮する。一気に呼吸が楽になるが、そんな余韻に浸る間もなく、蜘蛛達は再び京子に殺到し、その身体を覆い尽くさんと進撃した。

「ああぁあぁあああ!」

 勿論、それをよしとする京子ではない。身体を這う蜘蛛を、払い、転がり、のたうち回りながら一匹、また一匹と殺していく。獣のような唸り声をあげ、アトリエ内で暴れまわる京子に果たして理性はあったのか。狂人と見間違われても無理はない殺戮の宴は、辺りが暗くなり始めるまで終わる事はなかった。


 ※


 どれくらい時間がたっただろうか? 気がつけば、部屋で動いているのは京子と、体の大半がひしゃげ、潰された蜘蛛の残骸だった。荒い呼吸を整えながら、京子は自分がまだ生きている事を実感する。

「勝った……」

 そんな呟きが漏れる。口の中に今だ残る不快感も、身体中にこびりつく蜘蛛の体液や死骸を無視して、京子は部屋をぐるりと見渡す。

 少女と〝彼〟――。レイの姿は見当たらない。

 風が頬を撫でる感触がした。部屋の窓は閉じていた筈だと思っていた京子は、訝しげに眉をひそめ、風の出所に目を向ける。原因はすぐにわかった。窓ガラスが破壊されていたのだ。

 窓へと続く床には、血痕が点々と、道標のように続いていた。レイに突き立てたメスの感触を思い出しながら、あの傷で自力で脱出は不可能な筈だと、京子は結論づける。つまりは……。

「あの女の仕業ね」

 憎々しげに呟きながら、京子は近くの床に落ちていたメスを拾い上げる。レイの血がべっとりとこびりついたそれを握りしめながら、京子はある一点を見つめていた。

 覚束ない動きで前進するその生き物は、脚が数本折れた、女郎蜘蛛だった。

 黒と黄の毒々しい身体を必死に揺らし、窓へと身体を引き摺るように進むその姿に、京子は無意識であの少女の幻影を見た。

 その瞬間、刃が振り下ろされる。半ば反射のような感覚で、京子はその女郎蜘蛛を、メスで突き刺していた。何度か痙攣しながら、やがて力を失っていく女郎蜘蛛。それを見ながら、京子は弱々しくも歪な笑みを浮かべ、その場に倒れ伏した。

 流石に限界だった。死と恐怖を乗り越えた京子は、本人が感じている以上に消耗していたのだ。それでも今の今まで動けたのは、一重にただ一つの感情があった故の事だった。

 脳裏に刻まれた少女の姿。名前も知らない怪物の姿を、幻想の中で何度も殺害し、京子はうわ言のように呟きを漏らす。

「許さない。化け物、化け物め……絶対に許さないんだから……!」

 意識が急速にブラックアウトしていく。そんな中で、京子は背後に人の気配を感じていた。

 キリ……キリ……という軋むような車輪の音と共に響いたのは、知らない女の声。


「驚きました。まさか自力で脱出してしまうとは……。これはもしかすると……もしかするかもしれませんね」

 どうやって部屋に入ってきた?

 そもそも誰だ?

 という疑問すら、京子は抱かなかった。

 乗しかかる眠気にも似た感覚には抗えず、山城京子は静かに意識を手離した。

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