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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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39.夜――背後の声

 日が傾き、辺りが薄暗くなってきた頃。車椅子の女と別れた僕は、重い足を引きずるようにして帰宅した。

 今日一日、たった一日だというのに、色々な出来事に遭遇した。おかげで身体の疲労感は勿論の事、主に精神面――。所謂心労というやつがなかなかに深刻だった。

 原因は言うまでもなく、あの車椅子の女の謎めいた行動や、その言動だ。

 おかげで僕は、スーパーでの買い物中や、そこから僕の部屋への道すがら。幾度となく振り返り、辺りを見渡しながら歩いていく羽目になった。さながら逃亡中の犯罪者のような挙動不審ぶりだっただろうが、あの車椅子の女自らが、僕の部屋まで特定するつもりだったと発言したのだ。気休めかもしれないが、警戒しておくに越したことはない。なにより――。

『山城京子――。まだ生きていますよ。『レイ君』、どうか夜道にはお気をつけて』

 あの言葉が耳にこびりつく。

 わからないことが、こんなにも恐ろしく感じるのは初めてだ。

 あの女の目的は?

 どうして僕の渾名を知っている?

 まるで"誰か"から見聞したかのような口ぶり。"誰か"とは? それが京子だとでも言うのか?

 そして――。

 自分の部屋の前までたどり着いた僕は、鍵を回し、ドアを開けた。

 入った玄関先には、まるで待ち構えていたかのように、怪物が膝を抱えて座っている。漆黒の瞳が僕を捉えると、怪物は嬉しそうに顔を綻ばせた。その様子を見た僕は、思わず肩を竦めると共に、静かに息を吐く。

 一人暮らしではほとんど発する事のない言葉というものがある。つい最近までの僕も、例外なくその言葉を発する事はなかった。あったとしても、せいぜい浮かれて一人口走った事位だろう。

 だが、何の因果か。驚くべきか、嘆くべきかはわからないが、最近ではそれを言うのが当たり前になりつつある。スーパーの帰りや、入り用で少し外出した時などがそうだ。大元の原因は、僕の部屋に住み着く存在のせいではある……。のだが、不思議と悪い気はしなかった。それは、長らくこの言葉を言う相手がいなかった寂しさからだろうか?僕には判断しかねる。

 兄さんが死んでからというもの、不仲となった家族にすら言うことのなかったこの言葉。まさか怪物に向けることになろうとは思いもしなかった。

 その奇妙な縁というか、事実に苦笑を浮かべながら、僕はゆっくり口を動かす。

「ただいま」

 その瞬間、僕は駆け寄ってきた怪物の細い腕に絡め取られた。玄関口からリビングへと続く廊下の中。怪物に押し倒される形で捕らえられた僕は、上から擦り寄ってくる柔らかな感触に身を委ねていた 。

『悪いことはいいません。貴方に取り憑いているであろう 化け物……。命が惜しいなら、今のうちに殺しておきなさいな』

 あの車椅子の女の残した警告が、僕の脳裏に蘇る。謎に包まれていた怪物。その正体にたどり着けるかもしれない、小さな手掛かり。

『幸いにも、あの化け物は、最も近くにいる存在――。つまりは、貴方の手なら比較的楽に殺せる筈なんです。ですから、あえてもう一度言います。手遅れになる前に、さっ さと殺しなさい。でないと、貴方はきっと後悔する』

 あの女は、怪物の何を知っているのだろう? 何か関係があるのは明白だが……。

「う……あっ……」

 不意に首筋をはしる一瞬の痛み。直後――。そこから浸透するかのように広がる酩酊感に、僕は呻き声をあげる。毎晩のように行われている、怪物の吸血行為だ。

 怪物の白い喉が、僕の血を咽下(えんげ)する度に、艶かしく動いているのを感じる。触れ合う肌越しに伝わるそれに、僕の背中がゾクゾクとした冷たさに襲われた。

 やがて、吸い上げられる感覚は、何かが注ぎ込まれる形に変化する。僕の体液と怪物の体液が混じり合う、おぞましくて背徳的な行為。だというのに、そこには逃れら得ぬ快楽があった。


 ……無理だ。

 僕たちが横たわるすぐそばを、小さな蜘蛛が小走りで通り抜けていく。それをぼんやりと眺めながら、僕は心の中で呟いた。

 こいつが人とは違う怪物だというのはわかっている。僕に行われている行為が謎に包まれていることも、それに対して最初ほどではないにしろ、少なからず恐怖にも似た念があることも認めよう。でも……。

 ゆっくりと、怪物が僕の首筋から顔を離す。口元に付着した血を怪物の舌が舐めとり、漆黒の瞳は再び僕を見つめる。

 でも、こいつが何をした? 殺されるような事をしたのか?

 こいつには恩がある。

 負い目がある。

 少なからず縁もある。

 何より歩み寄ると僕は決めたのだ。

 怪物が再び、僕に近づいてきた。この後何をされるかなんてわかりきっている。だから抵抗などせず、僕は怪物の視線を正面から見つめ返す。

 あの女を信用するのは、待った方がいいだろう。もたれ掛かる怪物と、唇に伝わる熱い感触を受け止めながら、僕は自分の中で納得した。

 そのうち、僕を抱き締める怪物の腕が、一際強くなる。僕が逃げないようにするためか、更に深い口づけを求めてか、僕の後頭部は怪物の手によりしっかりとホールドされた。やがて、怪物の舌が僕の口内に侵入し……。

「ええっと。御取り込み中悪いんだけど、リビングには入らないのかい? そこで、その……そういった行為に及ぶなら話は別だけど」

 その時、背後から声が響いた。勿論僕ではない。当然、自らの唇で僕の口を塞ぐ怪物でもない。

 では誰が?

「何なら僕、席を外そうか? 一時間……。位したらまた戻るけど」

 妙に生々しい時間を提示しながら、背後の人物は困ったような声を上げた。……。背後の人物?

 僕は弾かれたように怪物を引き剥がし、慌てて後ろを振り返る。怪物が不満気な表情を見せていたが、今は無視だ。どういうからくりか、現在進行で僕の部屋に不法侵入している人物がいるのだ。そいつの顔を拝む方が、重要に決まっている。

「誰……、だ……」

 その人物の姿を捕らえた僕は、思わず呆気に取られた表情のまま、その場で硬直した。

 そんな僕を見たその人物は、まるで彫像のような笑みを浮かべていた。


「こんばんは。まずは自己紹介しようか。僕は、ルイ。明星(みょうじょう)琉生(るい)。宜しくね」

 銀色にも金色にも見える髪。

 雪のような白い肌と、燃えるような赤い瞳。

 そこにいたのは紛れもなく、昼間――。大学の食堂に現れた、あの白いアルビノの少年だった。

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